徐晃




「あ!」





 徐晃(じょこう、Xu Huang(シー・フアン)169年 -227年)は、
 後漢末期から三国時代の魏にかけて生きた武将で、
 三国志の時代において活躍した。
 字(あざな)は公明(こうめい、gong ming(ゴンミン))。
 徐蓋の父であり、徐覇の祖父。河東郡楊県(現山西省洪洞県南部)出身。

『正史』と後の小説作品『三国志演義』とで人物像が大きく異なる人物。
『正史』では叩き上げだが武将としてトップクラスの戦術に長けた知将として描かれており、
間者を使った情報収集や、常に敗戦時の対策を念頭に置いて戦いを進めるなど堅実な戦い方を行った。
その一方で好機と見るや、配下に食事の暇も与えないほどの猛烈な追撃を行う事もあったという。
また武功を挙げても奢る素振りは見せず、部下には親身に接したために人望が厚かったと伝えられている。

ただし上司にはやや弱いらしく、戦闘を曹操に止められていたにも拘らず、血気に逸る曹洪を止めきれず戦闘をし大敗したりもしている。
この敗戦の責任の大半は曹洪ではあるが、君主の命に従えきれなかった徐晃にも責任はあるだろう。
この時の曹操の怒りは凄まじく、徐晃はおろか従兄弟である曹洪ですら死罪となる所だった。

『演義』では少々短気な性格ながらも、大斧を愛用する怪力の武将として登場する。
この大斧は徐晃のシンボルとして捉えられており、後の彼をモデルとしたキャラクターの多くが大斧使いとして描かれている。
樊城の戦い(219年)においての一騎打ちでは関羽と互角の戦いを繰り広げ、結果退けたという武勇伝を持つ。
……当時、どちらも50代以上だと思われるのに元気な事で
ちなみに「関羽とは同郷の友」という設定は、毛宗崗による改訂版(毛宗崗本)から付け加えられたもの
(ただし史書でも蜀志「関羽伝」が引く『蜀記』によれば両者は旧知であったとされている)。
数ある『演義』の中で決定版とされる毛宗崗本では、徐晃に関する追加・改変は他にも存在するが、ここでは割愛する。*1

『演義』の失敗談としては漢中を巡る蜀との戦争(217~219年)において、
漢水の戦いにて背水の陣を敷くも黄忠趙雲・諸葛亮に敗北。
この際に仲違いをしていた王平に罪を擦り付けようとするが、王平はそれを察知して蜀に帰順。
その後、王平は蜀の北伐において大活躍をし、諸葛亮の死後は蜀の軍事の中核の一人と呼べるほどにまで至る。
魏にとってかなり厄介な敵を作り出す原因となった。




 ちなみに『正史』と『演義』では死に方が違う人物の一人。
 『正史』では関羽の死から7年後の227年に病没しているが、
 『演義』では1年延命され、孟達の反乱時に彼に眉間を射抜かれて死亡する。*2

 同じく関羽の死に関わった呂蒙も『正史』は病死だったが、
 『演義』では関羽の亡霊の呪いにより狂死する事になった。
 関羽パワー(というか関羽信仰心)恐るべしと言わざるを得ない


格闘ゲームにおける徐晃

1993年に台湾の「熊猫軟體股扮有限公司(Panda Entertainment)」によって制作されたPCゲーム『SangoFighter(正式名『三國志 武將爭霸』)』、
および1995年に発売された続編の『SangoFighter2(『武將爭覇2』)』に登場している。
キャラとしては演義版に近く、自慢の大斧を振り回して攻撃する。
リーチが長めで必殺技は連続ヒットして相手の体力をガリガリ削っていくので、中々の強さを持つ。


MUGENにおける徐晃

『武將爭覇2』の韓国語版を元に、General Chicken氏が製作したものが存在。
残念ながら代理公開先であった海外サイト「Mugen Storehouse」は消滅してしまったが、
後述するolt-EDEN氏の外部AIに同梱されているため、現在も入手可能。

よくポトレのハングルから韓国ゲーと勘違いされるが、これは氏がキャラ製作の際に韓国語版を使用したためで、
上記の通り台湾ゲーであり、元ゲーのポトレでは漢字で「徐晃(台湾は繁体字を使用)」と表示される。

ニコニコではいくつかのトーナメントに出場しているが、
中でも知名度を上げた超巨大タッグトーナメントでは肉体派魔法少女と前衛後衛に分かれた優れた連携を見せ活躍した。
大斧を振り回しながら宙を舞うその姿から、コーエーの『無双OROCHI』における、
徐晃のジャンプチャージ攻撃バグを想起した人々により「ジョコプター」の異名を与えられ、
勝利時のセリフが「あ!」と叫ぶだけ、というインパクトから勝利時には「あ!」コメントが絶えない。
語呂がいいのか「ジョコタン」という某アイドルと似た愛称で呼ばれてもいる。
これらのあだ名は(『真・三國無双』シリーズの)徐晃ファンの間では以前から使われていたものであり(JCのジョコプター自体の初出は『4』から)、
MUGENでの愛称もそちらから派生したものだと思われる。

AIはデフォルトで搭載されている他、前述の通りolt-EDEN氏が本体同梱で外部AIを公開している。
想定ランクは強~凶下位との事。
プレイヤー操作(4:00~)
参考:『無双OROCHI』の徐晃JCバグ


                              |
                           \     /
                   ,.-'⌒ヽ,      /⌒\
   ,.‐、,ノ⌒ヽ_        ノ     ヽ、 ― ( ゚ ∀ ゚ ) ―
  ,ノ   ノ   ヽ__   (´  ,ノヽ    )    \_/
 (´ (⌒´ _,.-――'  ,.-' (´     `)`ー-、/  ノ⌒ヽ、
  `ー-―'´       (´   ,ヽ、 (⌒     ヽ、(    ,;ヽ
              `ー-'´ ⌒'ー、,,,,,,,,..,,.-' ̄ ̄  `ー'´ ´

出場大会

+ 一覧
削除済み
凍結

出演ストーリー

プレイヤー操作



*1
『演義』の改訂に関する徐晃以外の特筆事項は曹操の扱いだろう。
『三国志演義』における曹操は、『正史』の要素を取り入れた結果、
実は本家中国においても当初は悪役ながらも魅力のある大人物として描かれていた。
ただこのキャラクター像が当時の読者に受けなかったのか、その後時代を下って改訂されるにつれて「ヴィラン」としての描写が薄れ、
毛宗崗本系統になる頃には「ヒール」にまで格が下がった……という悲しい凋落を辿っている
(まあこれでも正史曹操の要素がほぼ無いただの悪人として描かれていた民間創作時代と比べれば待遇は大いに向上しているが)。
一方、毛宗崗本以前に出版された李卓吾本ではこの点がまだ色濃く残っており、日本ではこの李卓吾本系統の日本語訳が江戸時代に流通。
そして昭和時代にこれを基に吉川英治が執筆した『三国志』が広く読まれた事により、日本における曹操ファンの獲得に一役買った。

*2
その後、孟達の反乱は司馬懿にあっさり鎮圧されている。
元々『三国志演義』は古くからあった蜀漢正統論に基づく民間の説話や講談などの流れを汲んだ通俗歴史小説(一般民衆向けの歴史小説)で、
徐晃は関羽の死の原因の一つを作ったと言える事もあり、現代ではここで徐晃を出した事に疑問を呈される事も……。

とはいえ、『演義』は教養のある士大夫(知識人)向けの史書ではなく、上述したように一般民衆向けの歴史小説。
当時のバカ大衆に好まれるのが史実の淡々としたお堅い記録よりも分かりやすいお話、
つまり勧善懲悪の物語であるのも、よくよく考えてみれば当然の事だろう。
+ 『三国志演義』の成立
元を正せば魏と西晋を経た東晋の時代より「蜀漢正統論」が起こって以来、
遅くとも唐代(7世紀~9世紀初)から蜀漢を主人公とする説話や講談が存在していた。
折しも劉備が漢王朝の後継を自称していた事や劉備・関羽・張飛・諸葛亮ら蜀の人物の悲劇的要素、
その漢王朝を実質簒奪したも同然だった曹操の悪評が(強調・脚色もされて)伝わっていて、
諸々の時代背景的にも劉備達に同情が引かれるのは無理も無かった。
だからこそ『演義』の前身となる『三国志平話』などのような、
曹操やその配下達が強大で邪悪な魔王とその手先、劉備達が義と仁徳に篤いヒーローとして描かれ、
現実離れで荒唐無稽な設定や展開も多い民間創作が広く好まれるという事情があった。
そもそも当時の中国で小説は一昔前の漫画やアメコミと同様「そんなものなんて大衆の読み物」と認識されていたのだ。

そんな民間創作を、元代末期~明代初期辺りに羅漢中ら士大夫層が『正史』を骨格に再構成・洗練・編集し、
「大衆の読み物」から「知識人が読むに堪える」小説に仕上げたのが『三国志演義』。
細かい所まで歴史書を読み込まれた上で書かれた『演義』はそれまでの作品と比較すると、
余りにも現実離れが過ぎる超常現象は極力削られているし
(最大の見せ場として知られる「赤壁の戦い」で諸葛亮が東南の風を吹かせるべく祭壇で祈祷した話も、
 本当に妖術だったとまでは書かれてはなく、諸葛亮がその風の吹く時期を知っていてパフォーマンスをしたと解釈もできる)、
同小説で関公と称えられている関羽も性格的な欠点は包み隠さず書かれているし、
蜀以外の人物の扱いもある程度は良くなっていると言える。
徐晃の正史に無いオリジナルの失敗談や死に様の改変も、民間創作時代と比べればむしろマシな方である。
呂蒙にしてもこれは当てはまり、史実と変わらない人物として描かれている。
……まあそれ故に、ホラー染みた末路が目立つわけでもあるのだが。
『三国志平話』では呪い殺されず長生きして夷陵の戦いにも参加していた?聞こえんなぁ

無論、あくまで民間説話ベースなので物語の構成としては蜀漢正統論が基本であり、
前述した蜀以外の人物の描写についても程度の差や逆に悪化した例もあるし、
更に毛宗崗など各改訂者の主観や信条によってさじ加減が変わったりもする。
上に挙げた呂蒙の最期や、史実(249年没)と違って夷陵の戦い(222年)で戦死した事になっている朱然はその最たる例であろう。
現代においても徐晃と関羽の友人設定に対し、
「関羽が敵味方問わず一目置かれる人物とするための演出で、徐晃が敵役である魏の武将だから」
と、冷めた見方を持たれる事もあったようだ。

だが、これは何も羅貫中やその他編者達が魏をこき下ろそうとしたり、呉を軽視したりしたわけではない。
『演義』は「通俗小説(分かりやすい小説)」というジャンルとして大衆層に膾炙する必要があり、
また、正史のように様々な人物に注目していく事はジャンル上困難である。
その上で、より多くの人々に感情移入してもらおうと思えば、
当時の儒教的価値観としても判官贔屓的にも、蜀が中心となるのは仕方の無い事であったと思われる
(それ以前に当時の中国で、宦官の息子が様々な才に恵まれて軍閥化していく物語は受けが悪いだろうし、
 兄貴の残した領土の専守に殆ど明け暮れつつ酒浸りになって老害化した君主の物語も長編としてはつまらないだろう)。
なんだかんだ言われつつも『演義』は、それまでの荒唐無稽な民間の説話や講談などとは一線を画す、
当時としては画期的なほどに「史実に即した」小説とすら言えるのだ。

また、『正史』では病死した魏の徐晃や張遼、呉の呂蒙や太史慈などが『演義』で(延命してまで)死に様を改変されたのも、
当時の大衆向けに「蜀贔屓」需要を満たしつつ(張遼と太史慈は異なるが)、
「豪傑を地味に終わらせず劇的な演出に」という物語を盛り上げるための結果(目を引く展開需要)だとすれば、
孟達の反乱に徐晃が駆り出された事にも一定の必要性はあったのかもしれない
(現に漫画『蒼天航路』でも『演義』準拠またはオリジナルの最期を迎えた人物が複数存在する)。
華々しく活躍した英雄がひっそりと病死するのはどこか寂しいし、悲壮な花道を用意されたおかげで読者の印象に残ったと言えるしね。

(以上、ニコニコ大百科、アニヲタWiki、Wikipediaを参考に一部引用・改稿)


最終更新:2023年07月13日 14:43