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 俺は椅子に座りながら、白んできた窓の外を眺める。
 8月はじめの太陽が大地を照らし始めていた。
 俺はくぁっと欠伸をする。徹夜明けの頭が新鮮な空気を求めているらしい。
「ふ……ふははは」
 不敵な笑いを浮かべて、俺は椅子から立ち上がる。
 徹夜で応用数学の教科書の内容を完璧に理解した俺は、近くにあった問題集を手にとってぱら
ぱらと捲る。
 どうやら簡単に解けるようで、俺は再び不敵な笑みを浮かべる。

「見ててくれ……母上!」と俺は楽しそうに言う。
 俺は履きなれたスニーカーに足を通してタンと軽快に家を飛び出していった。

 俺にとって今日が最後の試験だった。
 徹夜で覚えた応用数学。せめてこれだけはとらねば、と俺は思う。
 と言うのも俺は、この学期の単位をすべて落としていた。
 ただひとつ、今日の応用数学を除いて。

 ふらりふらりと一時間ほどバスに揺られて、俺は俺の家からとにかく遠い大学へ向かう。
 やっと到着したバスを降りてしばらくアスファルトを歩き、だだっぴろいキャンパスを
歩いて俺の属する工学部へ。
 さあ、戦ってやろうじゃないのさ! と俺は気合を入れている。
 俺は試験会場のM151教室に着く。ふぅ、と一息入れ、俺は思い切りドアを開けた。

 ――が、扉を開けた向こうに、俺は人を見つけることができないようだった。

 しばらく俺の思考が停止する。
 俺の顔が疑問マークで埋め尽くされる。
 何ゆえ人がいないのかと、俺の頭がぐちゃぐちゃになっていった。

 俺は試験予定表を取り出す。
『応用数学 M151教室』俺の目の前にその教室がある。
 俺は腕時計に視線を落とす。試験開始15分前のようだ。

 俺は歩き出すと、工学部玄関にある掲示板を見に行った。
 どうやら変更があったようで、俺はそれを見るとひざから崩れ落ちた。

    応用数学
    試験会場:M151
    試験日程変更:7/31 9:00~(90分)


 気がつくとタバコをくわえて、俺はゲーセンでスティックを握っていた。
 俺は死んだゾンビの目をしている。いや、ゾンビはもう死んでいるか。
 俺は今学期全単位を落とすことに成功したようだった。
 俺にとって人生何度目の絶望だろうか。
 さてどうするんだろうな、俺は。

 俺の咥えていたタバコの灰がポロリと手の甲に落ちた。
 熱かったようで、手が思わず脊髄反射して灰を床に落としていた。

――――内側の俺、過去を語る。

 昔から勉強が得意だった。
 塾にも通い、学校では頭のいい人3本指に入っていた。
 模擬試験を受けると必ず上位に食い込んだ。
 優秀賞だかなんだかで高そうな万年筆をもらったこともある。
 俺の机に今も飾ってあるのさ。

 母さん父さん従兄弟に再従兄弟、爺ちゃん婆ちゃん近所の人たち、ガッコの先生、塾の人、
みんなが俺の頭の良さを褒め称えていた。頭がいいね、将来はH大かい? とね。(暇な人は
この段落初めの行をラップ調で読んでみよう)

 中学を卒業し、頭のいい高校に入った。
 当たり前のごとく、周りの連中はみな頭がよかった。
 俺はそこで初めて劣等感を抱いた。
 俺の通っていた中学校のなんとレベルの低かったことか。
 井の中の蛙という言葉を生まれて始めて自分に適用させたな。

 その劣等感をバネにすることができるやつもいれば、漬物石にして自分を押しつぶす
奴もいる。俺は後者だった。
 その高校の授業で難しい問題がでると、俺が解く前に他の頭のよい奴がすらすらと答え
ていた。俺は劣等感に苛まれない様、授業中はほとんど寝たふりをしていた。

 高校に入ってから成績ががた落ちになっていく俺を見て、両親はかなり落ち込んだよう
だった。生まれてから一度も言われたことのない「勉強しろ」を言われた。頭にきた。自
分たちもできない微分積分を俺にやれと言うのか。バブルの時代でらくらく就職できたお
前らが、この不況に生まれて生存競争にかけられる俺に何を言うのか。高校でたら就職で
きたお前らが俺に勉強して大学にいけって言うのか? 親を殺したいと、本気で思った。

 やがて、どんなに刺激を与えられても俺は反応しなくなってきた。
 常に世界を半開きの濁った目で見て、ああ、なんてくだらない世界なんだろうと思った。
 勝手に期待されて、勝手に落胆される人間の気持ちが分かるか?
 俺はその感情をなんていうか知っている。
 絶望。


 さてその絶望を感じた人間はどうなるだろうか。
 落ち込んでニートに大変身か?
 いや違うんだな。
 世界をフィルター越しに見るようになるんだ。

 世界をフィルター越しに見るとはつまり……上手く説明できるか分からないが、そうだな、
まず自分が外側と内側に分かれる。
 んで外側がいかに傷つこうが、内側の自分は安全だから傷つかない。
 外側は人間性を否定されるひどい言葉を言われて傷つくが、内側には被害が届かない。
 外側が手首を切ってしまっても、内側の自分の手首は切れない。
 そして、内側の自分は、外側の自分を通して世界を見るようになる。
 結果、あらゆることに無感動になる。
 自分が生で体験してないからな。

 こういう風に現実と折り合いを付けていかないと、生きていけなくなってしまったんだ。
 彼はね。


(※)
 ああ、ここで注意だ。
 『内側の自分は、外側の自分を通して世界を見るようになる』と言ったな。
 つまりだ。
 「俺」を「彼」に読み替えながらもう一度読み返すと、なんだか変に見えていた文章も
よく理解できるようになるらしいぜ。


――――

 二回ぐらい死んだ魚の目をしながら俺はゲーム筐体のディスプレイを眺めている。
 ゲームの中のキャラは俺の手に従ってきびきびと動いた。
 俺はタバコを吸い終わり席を立ち上がると、ゲーセンを出てしばらく歩いた。


 気がつくと、どこを歩いているのか分からなかった。
 まったく知らない町並みで、誰も人がいなく、時間が止まったように静かだった。

 そこに自分がいた。
 まったく同じ服を着て、まったく同じ顔をして、まったく同じ目をしていた。
 俺(これは内側の"俺"である)は俺越しにそいつを見ていても、かなり衝撃をうけた。
 しかし俺はまったく驚いてはいなかった。

 「絶望のたびに俺が増える」
 と三人目の俺は言う。
 「そして絶望のたびに入れ替わる」
 と付け足す。

 「入れ替わる?」
 「そう、入れ替わる。新しい俺は少し時間を戻してやり直す。俺がこれ以上増えないように」
 「俺をどうするんだ?」
 「外側を入れ替える。内側のお前はそのまま」
 「時間は戻るのか?」
 「戻る」
 「記憶は?」
 「内側のお前のものは消去。すべての記憶は外側が保有している。内側のお前はただぼんやりと
外側の発する警告を受信し、行動を改める。ただ、完全によくすることはできない。今回の場合、
単位すべてを取り戻すことはできず、応用数学の試験に受かることぐらいしかできない」

 スベテノキオクハ ソトガワガ ホユウ シテイル。
 内側の俺がダメージを受けていた。
 内側が絶対だと思っていた。

「いつの間にか内側は外側にのっとられていたのか」
「乗っ取ってはいない。外側が勝っているだけ」
「内側の俺が外側の俺を知ることはできるのか?」
「できない。意識が肉体と会話できないように」
「そうか」

 またあれだ。
 井の中の蛙。
 俺のすべては外側にあったのか。
 なんだよ、外側なんてただのフィルターだと思っていたのに。

「なぁ」"俺"は三人目に聞いてみる。「本当の俺はどっちなんだ?」
「答えはない」三人目は答える。「初めて俺が絶望した瞬間、俺は外と内二つに分かれた。林檎を二つ
に切り分けても両方が林檎であるように、両方が本当の自分。ただ、内側は外側より劣っているだけ」
 ウチガワハ ソトガワヨリ オトッテイル。
 ああ、またこの感じだ。
 内側の俺がダメージを受けている。

「外側の交換には内側を取り出す必要がある」三人目はナイフを内ポケットから取り出す。
「そのためには内側を痛めつける必要があった。そして自分に負けると言う圧倒的な敗北感
より生まれる……自滅願望」
「殺してくれ」
「わかった」
 三人目の俺は俺の胸にナイフを突き立てた。

――――外側の俺

 俺は椅子に座りながら、白んできた窓の外を眺める。
 7月最後の太陽が大地を照らし始めていた。
 俺はくぁっと欠伸をする。徹夜明けの頭が新鮮な空気を求めているらしい。
「ふ……ふははは」
 不敵な笑いを浮かべて、俺は椅子から立ち上がる。
 徹夜で応用数学の教科書の内容を完璧に理解した俺は、近くにあった問題集を手にとってぱら
ぱらと捲ってみた。
 どうやら簡単に解けるようで、俺は非常に気分がよくなった。
「見ててくれ……母上!」
 俺は履きなれたスニーカーに足を通してタンと軽快に家を飛び出していった。


『自分フィルター/妄想男』完