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■ 40 名前: Efendi :2002/12/31 21:24:11

何で動くの?

夢からしばしば啓示を受けている Efendi です。

先日見た夢で、私はごく小さな頃(幼稚園の頃)、電池で動かないもの、例えば ほっかいろ などがなぜ動くのか疑問に思ってました。電池がなぜエネルギーを保っているのかまでは疑問がいかなかったのですが。

グローランサにおいても一般人の認識はこんな感じで、魔術がどうして発動するのかは分からないけれど、魔力なしで動くものなど無い、太陽でも、人でも、と思っているんじゃなかろうか、などと思いました。

■ 43 名前: Efendi :2002/05/26 20:28:10

映画のD&D

コートニー・ソロモン監督の「Dungeons & Dragons」(日活配給)、TSUTAYA で借りてきてようやく見ました。
見たことのある人に解説しても仕方ないし、見たことのない人には、見ろ、というしかないので、思ったことをつれづれと。
あれがファンタジーだよなぁ、と思う一方、RQ はなんだろう? シミュレーションかなぁ、とか。
イズメールの首都には下水施設が発達しているなぁ、イズメールに高度な技術があるのはもちろんのこと、沼沢地を埋め立てたか国自体が亜熱帯地域にあるに違いない、とか。
ふ…、やはり自分は RQ が似合っている/に毒されている、とか。

■ 44 名前: なゆた :2002/05/26 20:29:00

すると
イズメールの首都には下水施設が発達しているなぁ、イズメールに高度な技術があるのはもちろんのこと、沼沢地を埋め立てたか国自体が亜熱帯地域にあるに違いない、とか。
ふ…、やはり自分は RQ が似合っている/に毒されている、とか。
(笑)。するとやはりなゆたのやってるのはRQじゃないと(泣)。

■ 45 名前: Efendi :2002/05/26 20:29:38
なゆたさん
(笑)。するとやはりなゆたのやってるのはRQじゃないと(泣)。
う…、下水道よりクラーシトの孔。
子供が夢見るファンタジー世界じゃないけど。

クトゥルフだと下水道が付き物(偏見)ですが、 RQ でもルナー中心地でプレイするとそうなのかなぁ。
ノースポイントにはない(涼しい=伝染病が発生しにくい)けど、オスリル河流域諸都市(湿気が多い)やケタエラ(暖かい)では下水道プレイが出来そう。
ゆりかご河流域は暑い上に湿気が多く、設備がないので、伝染病が発生しやすそう…。は! 余計なことを言ったかも。

■ 46 名前: なゆた :2002/05/26 20:33:02

上水道下水道のことでなく(笑)
いや、RQじゃないかも、といったのは別に下水のあるなしでなしに(笑)。
文化人類学的側面が薄い(他のRPGに比べて薄くはないんだけど、グローランサマニアの中では薄い^-^;)という意味ですな。

まあ、それはともかく。
グローランサでの文明のあり方というのには私的な意見があって、つまり利便性や必然性が社会の構築に直結するかというと、そうではないと思ってます。
くだくだとは書きませんが、原始的な様態にあることに価値がある、と思うわけです。原始的かどうかというのも現代人たる私たちの判断でしかありませんが。
グローランサには文明も生産性も(少なくとも私たちの納得いくようには)発展しないようなルーンがあると思っています。

■ 47 名前: Efendi :2002/05/26 20:35:08

立て続けに容量を圧迫

グローランサでの文明のあり方というのには私的な意見があって、つまり利便性や必然性が社会の構築に直結するかというと、そうではないと思ってます。
 私の思うところでは、

 まず、いかなブリソス人であろうとも、人たるもの子供のためにより多く稼ごうとするであろうし、仮に、多く稼ぐことが罪、とされるような社会でも、子供を死なせたくない、という思いが医学を発展させ、その結果幼児死亡率が下がって人口が増大し、彼らは人並みの生活を送ろうとするであろうから、いずれにせよ社会全体の生産力が向上し、それに合わせて社会様式も変化するであろう、ということ。この、子供のために人一人が生きる以上に努力をする、というのではない人間の歴史は想像しがたいし、あるいはそれが「人」のルーンではないか、とも思う。

 だけど、文明の発展は(Civilization のようには)一様ではなかろう、とも思う。メソアメリカ文明のように、車輪がなくても脳外科手術をしてみたり。それでも、グローランサはやっぱり空想世界なので、どうしたってモデルが必要で、それはやはりよく知られている旧世界の文明の流れに求めるしかないです。

原始的な様態にあることに価値がある、と思うわけです。原始的かどうかというのも現代人たる私たちの判断でしかありませんが。
グローランサには文明も生産性も(少なくとも私たちの納得いくようには)発展しないようなルーンがあると思っています。

 グローランサの人々には、私が上述したような「発展」へと向かうベクトルと、「野蛮」へ向かうベクトルが並存している、と解釈します。
 このような相反する性向を抱えている、というのは「ハレ」と「ケ」の説明を持ち出すまでもなく、我々にも当てはまるので、非常に理解できることです。

 地球上の歴史では、例えば革命は秩序や支配に対する反発から起こってきますが、これが拡大すると、この革命軍の中にも秩序が生じ、古株の謀反気のある人々は淘汰されていく、という過程を踏んできました。

 グローランサにおける、例えばルナーとオーランスの戦いを、「秩序」と「自由」の戦い、と見なす論者もいますが、私はやはりオーランス陣営にも支配の論理は生きている、と思います。ちょっとスケールダウンですが、やはり両者の戦いは文化間の闘争であろうと私は見なします。

 先に、旧世界の発展の歴史をモデルにするしかない、と書きましたが、旧世界の各文化圏の発展も一様ではありません。例えば、西欧は重商主義に傾きましたが、中国では生産の効率図った土地の占有を政府が禁じた、という話を聞いています。トルコでは、印刷機は写植者の職を奪うもの、という理由で導入が禁じられました。発展とは、必ずしも生産性を至上のものとするものではない、ということです。
 グローランサに話を戻せば、オーランス陣営が皇帝専制、官僚組織を嫌うのは、彼らが「発展」を望まないのではなく、ルナーとは異なる「発展」を志向しているものと考えます。
 逆に、オーランス人といえど、自分や子供が伝染病で死ぬのは嫌でしょうから、下水道を作る必要があってその技術があるなら、施設するでしょう。

 以上のように、私は思います。

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