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まずは発端となった書簡の一部
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ついでといってはなんですが、キャラクターの行いがカルティストとして正しいときの、組織としての破門と信仰の関係をいろいろ考察してみてください^-^。
1ポイントの酸、というのはある意味、神のお目こぼしでは?
神託で何か諭されることがあるかも。そんなこんなで、彼は夢(とついでにその日起こったこと)を日記に書いているのですが。
というのが私の解釈です。
これはHWメーリングリストのほうにあったまりおんさんの
というのとも通じますが、信仰されることがアイデンティティーの保持だというのならば、すなわち個人は他者の認知により存在する、ということですな。
英雄も神も世界法則も、同じまないたの上でしょう。きっと。
ということは・・・(本気にしないように)。
うん? お目をこぼすと信仰されなくなる → 信仰されなくなると存在できなくなる ということでしょうか? 多分、明らかに違うな。
そうだとするならば、人間味も信仰を強化する一因になると思いますが。
神知者 Efendi の意見:
いわゆる神と呼ばれるルーンの集合の象徴は、世界動かす法則であり、そこに何がしかの要因を、例えば POW を加えることで、一定の成果を、例えば魔術を、引き出すことができる。かような法則に、人格などという不確定の要素が存在する余地はなく、神に懇願するなどというのは無用な行為の最たるものである。
モディスト Efendi の意見:
神様というものは、つねに信徒の一人一人を見ていてくださるもので、善き行いをする者には助けを、悪しき行いをする者にはお仕置きを、悔いる者には許しを与えてくださります。神様が供物を要求なさるのは、何事にも代償が必要である、という真理を諭さんがためであって、つねに神様は私たちにより多くを与えてくださいます。
リベラリスト Efendi の意見:
俺は思うんだけどさ、世界っていうのは鎖のようなもんなんじゃねぇか? 鎖の輪の一つ一つは俺であったり、俺の家の犬であったり、神様であったりするんだけどさ、このどれか一つが欠けても世界は立ちゆかねぇのさ。だから、俺は俺が俺で在り続けるために、誰かにとって必要な俺であり続けるために、俺に関わる人たちにはよくしてやろうと思うし、神様だって拝むわけだよ。
どれか、あってるのあります? なさそうね。
あえて一番誤っているのをあげるならば神知者版か。語っているスタンスが矛盾している。世界を法則で描ききろうとするならば、人の心もちゃんと因子にするべき。「法則として用いる何がしかの要因」から、無意識的に「神に懇願するような行為」を排除している。信仰という状態でしか発動できない魔術はありうる。
なゆたとしての図式で書くならば
人格がある=ケースバイケースや気分での判定がある
人格がない=神の意思は法則である
人格(アイデンティティー)に対する信仰が神(英雄)の存続を規定するとするならば
=神の人格は信仰によって変異する
さらに一歩推し進めて、
神は個体として規定されるのか。
=あなたの爪は人間か。髪の毛は。体内の微生物は。体表の微生物は。足跡は。
どこからどこまでが個体で、どこからが個体ではないのか。
=共通に認識しやすい「枠」はあるが、個々の認識する「枠」の1分子までも議論するならばそれは同一ではない。
=信心している「枠」は信心するものによってそれぞれ異なる
=神が変異するのではなく、信心が信仰する範囲を規定する
さらに深みにはまると
信心するこころの同一性を疑う。信仰しているのは「誰」だ?
となっていきます(笑)。
から来るわけですね。
私の3者の回答は、1. 人間中心、2. 神様中心、3. 相互依存 という点から書いているわけですが、私の神観念は、神知者の面目躍如、1. の神様は法則、というもので、他の2つは想像なんですが、神に、われわれ人間とは異なるタイプの自由意志がある、と考えるのも面白いかもしれない、と思っています。3者の中では 3. がひねり出すのに一番時間かかった。仏教に一番近いのに、非国民。
人間性と神の関係について言えば、アリストテレスは人間は真・善・美を希求する存在と規定した上で、そうした主観的な観念が広く人間に共有されていることこそ真・善・美の具現である神の存在を証明するものである(えらくかいつまんでいる)と説明していますね。
ただ、これだと例えば罪のない幼子の死など世の非合理を説明できないので、結局悪神であるとか、あるいは神の計画などを持ち出さないといけないのですが。
私自身がどう考えているかは、考え中です。たしかに、あらゆる文明の人が美しいものは美しいと考えるのは不思議なことです。あるいは、人は死ぬと幽霊になる、ということをマヤ人もスキタイ人も日本人も考えていた、ということは。こういうことを構造主義者たちが明らかにするかと期待していたのに、さっぱりです。
そういう神を希求する要因が神から発しているのなら、双方向にベクトルがある、ということになって、相互依存、ということになりそうですね。この鎖の一番最初の端はどちらが握っているのでしょう?
やはり、神がその目に善いものとして人間を創ったのでしょうか?
とりあえず、
信仰を含む人間の行動規範は神によって規定される
とは言えそうです。
だべりついでに、
言葉は神なりき、などと言いますが、人間の思想が言葉を操ることによって発展したことは疑いのないところです。一説に拠れば、インカ皇帝アタワルパがピサロのペテンに何度も引っかかったのは、彼らが文字を持たなかったため、人間がそのような非道なことをするとは想像できなかったのではないか、と言われます(私は半信半疑)。さて、神が実在する世界において、神であるとか、真理であるとか、悪といった我々の思想の方向性を決定するような言葉を人間に与えたのは誰なのでしょう? やはり神なのではないでしょうか?
ありと思えばあり、なしと思えばなし、と言えばそれまでですが、あるいは真・善・美といったイデオロギーすら法則であるならば、これらは細胞、分子、原子、さらには重子と、この世を構成する最小単位までそれは貫いており、文学的に言うならば、原子の一つ一つすら神を称えているが、これらにはそれを表現するすべがない。いや、世界がこのように美しいのは、その表現である、というのはどうです?
なんだか自分が書きたいことを書いただけで、接点がなかったかもしれない。ごめんなさい。
ただ一点、ありと思えばあり、なしと思えばなしと言うと、それを考えている自分はどうなんだ、と堂々巡りになってしまい、答えが出ないので(それが答えであるとは言うけれど)、私は他の答えがほしいです。
夜も遅くまで、ふたりとも好きだよねぇ。
深夜になってきたので、ちょっとハデにいきますよ~(笑)
※転載時注-このメールの送信時間は01:13分。
私はここがちょっと違うかな。
われわれ人間に(というよりあらゆるものに)自由意志はない。
と考えています。
これは社会的に規定されるうんぬん、とかじゃなくて、すべてが原子で構成され物理法則に従うとすれば、思考は配置された原子のパラメーターの結果なので。
ここは私だと、「人間性」を不合理とは考えず、パラメーターの状態のひとつ、と考えます。また、「廃していこう」という「意思」はすでに「人間性」の一面なので、この一文は矛盾しています。
そう^-^。
このにわとりたまごが面白いのです。
発生した事象を神と呼ぶならば、別に人間を区別する必要はないと思います。
人間が自分を目によいものとして作ったパラメータを神とよぶなら神でしょう。
そうそう。存在は己を美しいと規定する、とも読みかえられますね^-^。
私はそうした立場で、定義しようもない「自分」を肯定しています。
ps.グローランサ談義じゃねぇ^-^;
とはいえ、こういう話は勢いと夜の闇が不可欠ですからね。
その原子を最初に配置したのは何者? 世界は自然淘汰で説明するにはあまりにもよくできているように思われてなりません。
それとも、我々は現状に甘んじているのを善いものだ、とごまかしているに過ぎず、本当はより完成された世界というものがありうるのだろうか。
なるほど。しかしこれは自分や世界は不完全である(神が創ったのにね)、という仮定から発しているので矛盾ではないでしょう。発展途上。修練の末に人間性を捨て去ってはじめてあらゆるものから影響を受けない個として存在しうる…、あれ? これって仙道? ともあれ、不完全なものはがん細胞のようなもので、それを世界の一部とは認めない、という見方ですね。
あなたなら、がん細胞を含めるか含めないかは主観による、ということになると思いますが。
マスター技術的なことを付言していたので、こちらもそれを言うならば、そうであるとごまかしやすくて助かる。
流されてる、流されてる。
ちょっと中断して私の立場を表明するなら、私は法則とは別なところで、というか法則を生み出すものとして、自由意志は存する、と考えています。この自由意志は人や神はもちろん、犬や、原子にもある、ということですが。この自由意志を魂と言い換えてもかまわない。もちろん、自由意志は環境によって制限されるために、完全な自由ではないのですが。
自由意志は法則の内に存するのか、外に存するのか、が争点なのかな。
さらに付言すると、自由意志は環境によって制限されるために、私は、例えば歴史を研究するとき、異世界を想像するとき、環境を重視しています。この環境を超克する意志というものもまた確かにあり、これは歴史上のエポックメイキングですね。普段、ここまで考えているわけじゃないですが。
と、私は自由意志や美などの普遍的な共有概念を法則の外に置こうとしているのですが、その「外側」をも包含する法則を持ち出されると、そこで納得するか、さらに外側を想定するかですね。
ただ、矛盾という言葉を返すなら、変化とか無秩序というものを律する法則というものは矛盾していませんか? 確かに rnd というコマンドはあるけれど。
そうだねぇ、プログラムで考えてみるならば、rnd で永遠に無秩序に拡大していくプログラムの行く末は、果たしてプログラムされたものといえるのか、どうなのか。これも取り方、とも言えるけど、私の方が分が悪いかな。私の考えだと、rnd が神、ということになるものね。
それでは。もう寝る。
■ 66 名前: なゆた :2002/08/31 22:11:18
ある往復書簡(副題:神知者vs啓発者)まずは発端となった書簡の一部
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つづいて、彼の略年表と出奔のくだりを書きたいのですが、それは1615年の「鉄の蹄」によるグレイズランド解放に先立って、黄金弓に征討の命令がルナーより下され、彼はそれに真っ向から反対した、ということにしてよいですか?これはお好きに。
ついでといってはなんですが、キャラクターの行いがカルティストとして正しいときの、組織としての破門と信仰の関係をいろいろ考察してみてください^-^。
■ 67 名前: Efendi :2002/08/31 22:12:43
南アフリカ天然水 (意味なし)ついでといってはなんですが、キャラクターの行いがカルティストとして正しいときの、組織としての破門と信仰の関係をいろいろ考察してみてください^-^。あとでもっといい案が出るかもしれないけど、とりあえず。
1ポイントの酸、というのはある意味、神のお目こぼしでは?
神託で何か諭されることがあるかも。そんなこんなで、彼は夢(とついでにその日起こったこと)を日記に書いているのですが。
■ 68 名前: なゆた :2002/08/31 22:30:36
神はお目をこぼすか、といえば、お目をこぼすもこぼさないもありません。というのが私の解釈です。
これはHWメーリングリストのほうにあったまりおんさんの
死後の人間が個性を保って神界に存在しつづけるには、英雄として信仰され続けていなければならないようです。このあたりは、HW基本ルールでも触れられていたような覚えがありますが・・・
というのとも通じますが、信仰されることがアイデンティティーの保持だというのならば、すなわち個人は他者の認知により存在する、ということですな。
英雄も神も世界法則も、同じまないたの上でしょう。きっと。
ということは・・・(本気にしないように)。
■ 69 名前: Efendi :2002/08/31 22:16:21
神様と人間の関係うん? お目をこぼすと信仰されなくなる → 信仰されなくなると存在できなくなる ということでしょうか? 多分、明らかに違うな。
そうだとするならば、人間味も信仰を強化する一因になると思いますが。
神知者 Efendi の意見:
いわゆる神と呼ばれるルーンの集合の象徴は、世界動かす法則であり、そこに何がしかの要因を、例えば POW を加えることで、一定の成果を、例えば魔術を、引き出すことができる。かような法則に、人格などという不確定の要素が存在する余地はなく、神に懇願するなどというのは無用な行為の最たるものである。
モディスト Efendi の意見:
神様というものは、つねに信徒の一人一人を見ていてくださるもので、善き行いをする者には助けを、悪しき行いをする者にはお仕置きを、悔いる者には許しを与えてくださります。神様が供物を要求なさるのは、何事にも代償が必要である、という真理を諭さんがためであって、つねに神様は私たちにより多くを与えてくださいます。
リベラリスト Efendi の意見:
俺は思うんだけどさ、世界っていうのは鎖のようなもんなんじゃねぇか? 鎖の輪の一つ一つは俺であったり、俺の家の犬であったり、神様であったりするんだけどさ、このどれか一つが欠けても世界は立ちゆかねぇのさ。だから、俺は俺が俺で在り続けるために、誰かにとって必要な俺であり続けるために、俺に関わる人たちにはよくしてやろうと思うし、神様だって拝むわけだよ。
どれか、あってるのあります? なさそうね。
■ 70 名前: なゆた :2002/08/31 23:00:54
どれも語るものの認識の範囲で正しい。また、どれも不完全に正しい。あえて一番誤っているのをあげるならば神知者版か。語っているスタンスが矛盾している。世界を法則で描ききろうとするならば、人の心もちゃんと因子にするべき。「法則として用いる何がしかの要因」から、無意識的に「神に懇願するような行為」を排除している。信仰という状態でしか発動できない魔術はありうる。
なゆたとしての図式で書くならば
人格がある=ケースバイケースや気分での判定がある
人格がない=神の意思は法則である
人格(アイデンティティー)に対する信仰が神(英雄)の存続を規定するとするならば
=神の人格は信仰によって変異する
さらに一歩推し進めて、
神は個体として規定されるのか。
=あなたの爪は人間か。髪の毛は。体内の微生物は。体表の微生物は。足跡は。
どこからどこまでが個体で、どこからが個体ではないのか。
=共通に認識しやすい「枠」はあるが、個々の認識する「枠」の1分子までも議論するならばそれは同一ではない。
=信心している「枠」は信心するものによってそれぞれ異なる
=神が変異するのではなく、信心が信仰する範囲を規定する
さらに深みにはまると
信心するこころの同一性を疑う。信仰しているのは「誰」だ?
となっていきます(笑)。
■ 71 名前: Efendi :2002/08/31 22:32:39
不可知論の向こう側へどれも語るものの認識の範囲で正しい。また、どれも不完全に正しい。というのは、
人格(アイデンティティー)に対する信仰が神(英雄)の存続を規定するとするならば
=神の人格は信仰によって変異する
から来るわけですね。
私の3者の回答は、1. 人間中心、2. 神様中心、3. 相互依存 という点から書いているわけですが、私の神観念は、神知者の面目躍如、1. の神様は法則、というもので、他の2つは想像なんですが、神に、われわれ人間とは異なるタイプの自由意志がある、と考えるのも面白いかもしれない、と思っています。3者の中では 3. がひねり出すのに一番時間かかった。仏教に一番近いのに、非国民。
あえて一番誤っているのをあげるならば新知者版か。語っているスタンスが矛盾している。世界を法則で描ききろうとするならば、人の心もちゃんと因子にするべき。「法則として用いる何がしかの要因」から、無意識的に「神に懇願するような行為」を排除している。信仰という状態でしか発動できない魔術はありうる。そう、その通り。これを突き詰めていくと人間性という不合理なものを廃していこう、という方向に進みますね。グローランサのブリソス人やキリスト教の一部の神学がそうですが。『薔薇の名前』の悪役の僧もそうですね。
人間性と神の関係について言えば、アリストテレスは人間は真・善・美を希求する存在と規定した上で、そうした主観的な観念が広く人間に共有されていることこそ真・善・美の具現である神の存在を証明するものである(えらくかいつまんでいる)と説明していますね。
ただ、これだと例えば罪のない幼子の死など世の非合理を説明できないので、結局悪神であるとか、あるいは神の計画などを持ち出さないといけないのですが。
私自身がどう考えているかは、考え中です。たしかに、あらゆる文明の人が美しいものは美しいと考えるのは不思議なことです。あるいは、人は死ぬと幽霊になる、ということをマヤ人もスキタイ人も日本人も考えていた、ということは。こういうことを構造主義者たちが明らかにするかと期待していたのに、さっぱりです。
なゆたとしての図式で書くならばこの前の黄金弓の反応に対する答えからして、なゆたさんは後者の立場を取るわけですね。
人格がある=ケースバイケースや気分での判定がある
人格がない=神の意思は法則である
人格(アイデンティティー)に対する信仰が神(英雄)の存続を規定するとするならばこのベクトルでいえば、これは正しい。ただ、
=神の人格は信仰によって変異する
そういう神を希求する要因が神から発しているのなら、双方向にベクトルがある、ということになって、相互依存、ということになりそうですね。この鎖の一番最初の端はどちらが握っているのでしょう?
やはり、神がその目に善いものとして人間を創ったのでしょうか?
とりあえず、
信仰を含む人間の行動規範は神によって規定される
とは言えそうです。
だべりついでに、
言葉は神なりき、などと言いますが、人間の思想が言葉を操ることによって発展したことは疑いのないところです。一説に拠れば、インカ皇帝アタワルパがピサロのペテンに何度も引っかかったのは、彼らが文字を持たなかったため、人間がそのような非道なことをするとは想像できなかったのではないか、と言われます(私は半信半疑)。さて、神が実在する世界において、神であるとか、真理であるとか、悪といった我々の思想の方向性を決定するような言葉を人間に与えたのは誰なのでしょう? やはり神なのではないでしょうか?
=あなたの爪は人間か。髪の毛は。体内の微生物は。体表の微生物は。足跡は。
どこからどこまでが個体で、どこからが個体ではないのか。
=共通に認識しやすい「枠」はあるが、個々の認識する「枠」の1分子までも議論
するならばそれは同一ではない。
=信心している「枠」は信心するものによってそれぞれ異なる
ありと思えばあり、なしと思えばなし、と言えばそれまでですが、あるいは真・善・美といったイデオロギーすら法則であるならば、これらは細胞、分子、原子、さらには重子と、この世を構成する最小単位までそれは貫いており、文学的に言うならば、原子の一つ一つすら神を称えているが、これらにはそれを表現するすべがない。いや、世界がこのように美しいのは、その表現である、というのはどうです?
なんだか自分が書きたいことを書いただけで、接点がなかったかもしれない。ごめんなさい。
ただ一点、ありと思えばあり、なしと思えばなしと言うと、それを考えている自分はどうなんだ、と堂々巡りになってしまい、答えが出ないので(それが答えであるとは言うけれど)、私は他の答えがほしいです。
■ 72 名前: なゆた :2002/08/31 22:24:13
あははー(笑)夜も遅くまで、ふたりとも好きだよねぇ。
深夜になってきたので、ちょっとハデにいきますよ~(笑)
※転載時注-このメールの送信時間は01:13分。
私の3者の回答は、1. 人間中心、2. 神様中心、3. 相互依存 という点から書いているわけですが、私の神観念は、神知者の面目躍如、1. の神様は法則、というもので、他の2つは想像なんですが、神に、われわれ人間とは異なるタイプの自由意志がある、と考えるのも面白いかもしれない、と思っています。
私はここがちょっと違うかな。
神に、われわれ人間とは異なるタイプの自由意志があると考えるよりは、
われわれ人間に(というよりあらゆるものに)自由意志はない。
と考えています。
これは社会的に規定されるうんぬん、とかじゃなくて、すべてが原子で構成され物理法則に従うとすれば、思考は配置された原子のパラメーターの結果なので。
そう、その通り。これを突き詰めていくと人間性という不合理なものを廃していこう、という方向に進みますね。グローランサのブリソス人やキリスト教の一部の神学がそうですが。『薔薇の名前』の悪役の僧もそうですね。
ここは私だと、「人間性」を不合理とは考えず、パラメーターの状態のひとつ、と考えます。また、「廃していこう」という「意思」はすでに「人間性」の一面なので、この一文は矛盾しています。
この前の黄金弓の反応に対する答えからして、なゆたさんは後者の立場を取るわけですね。これも、後者の立場はとっていません。というか、自由意志の延長戦である「気分」というのが法則であるとすれば、前者と後者の区別はないので。
そういう神を希求する要因が神から発しているのなら、双方向にベクトルがある、ということになって、相互依存、ということになりそうですね。この鎖の一番最初の端はどちらが握っているのでしょう?
やはり、神がその目に善いものとして人間を創ったのでしょうか?
そう^-^。
このにわとりたまごが面白いのです。
発生した事象を神と呼ぶならば、別に人間を区別する必要はないと思います。
人間が自分を目によいものとして作ったパラメータを神とよぶなら神でしょう。
ありと思えばあり、なしと思えばなし、と言えばそれまでですが、あるいは真・善・美といったイデオロギーすら法則であるならば、これらは細胞、分子、原子、さらには重子と、この世を構成する最小単位までそれは貫いており、文学的に言うならば、原子の一つ一つすら神を称えているが、これらにはそれを表現するすべがない。いや、世界がこのように美しいのは、その表現である、というのはどうです?
そうそう。存在は己を美しいと規定する、とも読みかえられますね^-^。
私はそうした立場で、定義しようもない「自分」を肯定しています。
ps.グローランサ談義じゃねぇ^-^;
■ 73 名前: Efendi :2002/08/31 22:26:51
不可測の神あははー(笑)む、こちらは大聖日表の作成が進まないですよ。今日がんばれば、明日にはできると思ったのに。
夜も遅くまで、ふたりとも好きだよねぇ。
とはいえ、こういう話は勢いと夜の闇が不可欠ですからね。
われわれ人間に(というよりあらゆるものに)自由意志はない。
と考えています。
これは社会的に規定されるうんぬん、とかじゃなくて、すべてが原子で構成され物
理法則に従うとすれば、思考は配置された原子のパラメーターの結果なので。
その原子を最初に配置したのは何者? 世界は自然淘汰で説明するにはあまりにもよくできているように思われてなりません。
それとも、我々は現状に甘んじているのを善いものだ、とごまかしているに過ぎず、本当はより完成された世界というものがありうるのだろうか。
「廃していこう」という「意思」はすでに「人間性」の一面なので、この一文は矛盾しています。
なるほど。しかしこれは自分や世界は不完全である(神が創ったのにね)、という仮定から発しているので矛盾ではないでしょう。発展途上。修練の末に人間性を捨て去ってはじめてあらゆるものから影響を受けない個として存在しうる…、あれ? これって仙道? ともあれ、不完全なものはがん細胞のようなもので、それを世界の一部とは認めない、という見方ですね。
あなたなら、がん細胞を含めるか含めないかは主観による、ということになると思いますが。
これも、後者の立場はとっていません。というか、自由意志の延長戦である「気分」というのが法則であるとすれば、前者と後者の区別はないので。ということは、予測不可能な法則(気分)があるかないか、が焦点なのかな。これは、気分や自由意志を法則と認めなくても、ある、ということになりますね。
マスター技術的なことを付言していたので、こちらもそれを言うならば、そうであるとごまかしやすくて助かる。
流されてる、流されてる。
ちょっと中断して私の立場を表明するなら、私は法則とは別なところで、というか法則を生み出すものとして、自由意志は存する、と考えています。この自由意志は人や神はもちろん、犬や、原子にもある、ということですが。この自由意志を魂と言い換えてもかまわない。もちろん、自由意志は環境によって制限されるために、完全な自由ではないのですが。
自由意志は法則の内に存するのか、外に存するのか、が争点なのかな。
さらに付言すると、自由意志は環境によって制限されるために、私は、例えば歴史を研究するとき、異世界を想像するとき、環境を重視しています。この環境を超克する意志というものもまた確かにあり、これは歴史上のエポックメイキングですね。普段、ここまで考えているわけじゃないですが。
発生した事象を神と呼ぶならば、別に人間を区別する必要はないと思います。そう、確かに鎖の端に立つ者が何者かは分からない。ただ、それが人間の観念であるにしろ、もっとずっと遡って暖かい海に浮かぶ原始細胞の欲求にしろ、神の計画にしろ、それが世界を(少なくとも人々の行動を)律していることは確かで、それは「神」と呼ぶにふさわしい。
人間が自分を目によいものとして作ったパラメータを神とよぶなら神でしょう。
そうそう。存在は己を美しいと規定する、とも読みかえられますね^-^。うん、これも争点かな。私は美は心に内在するのではなく、普遍的な美が外在するのではないかと疑っています。
と、私は自由意志や美などの普遍的な共有概念を法則の外に置こうとしているのですが、その「外側」をも包含する法則を持ち出されると、そこで納得するか、さらに外側を想定するかですね。
ただ、矛盾という言葉を返すなら、変化とか無秩序というものを律する法則というものは矛盾していませんか? 確かに rnd というコマンドはあるけれど。
そうだねぇ、プログラムで考えてみるならば、rnd で永遠に無秩序に拡大していくプログラムの行く末は、果たしてプログラムされたものといえるのか、どうなのか。これも取り方、とも言えるけど、私の方が分が悪いかな。私の考えだと、rnd が神、ということになるものね。
それでは。もう寝る。