キャンペーン > 風道2 > 20020831 > エミーネ1

消えない傷跡

 水にたゆたっていたはずなのに、気がつくと私は固い大地の上ににうつ伏せになっていました。涙で滲む眼に太陽の暖かい光が差し込んできたのを感知して、首をもたげます。


「ふっ、ふふふ…。イェルムはんや。」
なぜでしょう? 太陽の光を浴びてこんなにほっとするのは。私は何とはなしに太陽を眺めていました。しばらくすると、手の指先からかすかに痛みが伝わってきました。何だろうと思って手を目の前にかざすと、すべての爪の間に砂が詰まって内出血を起こしていました。私は痛みも感じず大地に爪を立てていたようです。その異常な行動と、今まで指先に痛覚がなかったことに不安を感じました。とりあえず起き上がって中腰になり、爪の間の砂を払って、傷口を舐めようと口を開くと、鼻の下と口の周りがぱりぱりします。何だろう、と舌先で口の周りを舐めてみると、酸っぱい味がしました。先ほどまで私の頭があったところを見下ろすと、砂にまぎれて嘔吐物が広がっていました。


「あて、飲みすぎて正体を失うたんやろか?」
医療鞄からハッカの葉を取り出そう、と腰を下ろすと、私の下帯が濡れていることに気付きました。


「はぁ…、下帯、繰上げな…。」
立ち上がってポンチョをまくって顎で留め、ズボンを下ろして、下帯の紐を解きました。エスロリアの下帯は2キュビト(1)ほどの一重織りで慎むべきところを覆って腰の上で紐で留め、余った部分をお尻のほうに垂らしておく、というものです。汚してしまったときにはその部分を切り取って、余った部分を新たにあてがいます。私もそのようにして、汚れた布は、地面を蹴ってつくった穴に埋めました。そんなことをしながら、私はいまの自分の惨めさに思い至らずにはいられませんでした。


「エスロリアの自営農民の娘が、いまは世界の果て(2)で下帯を汚してる…。ふっ、ふふふ…。お母はん…。」
私はまたしゃがみ込んで、乾いた涙がこびりついたまぶたを再び潤わせました。泣きながらも私は自分の意外な心情に驚きました。お母さん、か。母に救いを求めるなど、何年ぶりのことでしょう。母なら、いまの私を見て何て言うでしょうか?


「そうやね、お母はん。」
あの母ならば言うでしょう、なに泣いとんねん、泣いとる暇があったら、自分がいまできること、いますべきことを考えんかい、と。まず、私にはいま何ができる? 私は看護婦。薬草で人を癒すことができます。もちろん、自分自身も。そう、私は自分で自分を癒すことができる。私は医療鞄を探しました。が、何ということでしょう、いつも私の肩にかかっていた医療鞄がありません。では次にすべきことは?


「はい、医療鞄を探します。」
私は立ち上がって医療鞄を探しに歩き出しました。


 とぼとぼと荒野を歩いていると、ほどなくして私は行き倒れを見つけました。もっとも、彼は行き倒れるにはちょっと肩がこりそうな姿勢です。お尻を突き出すような格好で地面に突っ伏し、両手で頭を抱えています。衣服はところどころ焦げ、肌が露出しています。私が近づいて、もし、と声をかけながら肩をたたくと、彼はびくりとして、いかにも恐る恐る振り返りました。そして、私を認めるや彼は私にがばっと抱きつきました。抱きつく彼の身体は小刻みに震えていました。訳は分かりませんが、彼もまた私と同じように何らかの恐怖に憑り付かれているようなのは察せられました。私では到底彼の身体を支え続けることはできないので、私は彼の頭をお腹の上で抱いたまま、ゆっくりと膝を曲げて座りました。そして、彼の背中を優しくたたきながら、エスロリアの民謡を口ずさみます。


「知ってるよソラーナ、そなたの心を。
 声には出さず 目ですらも そうとはわしに 言うてはくれぬ ことながら。
 賢いおなごと 知ればこそ、そなたの心を 疑わぬ。
 知られた恋なら 昔もいまも、不幸なことでは あるまいに。
 なるほどソラーナ、そなたはいつか、鋼の心と 冷たい胸を持っていますと 応えしが…」
「けれどそなたのつれない返事、浮名おそれの逃げ言葉との
 あいだにのぞく 真っ白き 着物の端が わしに希望を 見せるらしい。(4)」
そう言いながら私が抱えていた男は、私のポンチョの端を捲り上げようとしたので、私は反射的に右膝を上げ、彼の顎を撃ちました。


「げふっ!」
「あ、ごめん。せやけど、もう顎以外は大丈夫そうやね。」
「うん、ありがとう。何とお礼を言っていいやら…」
「あんなぁ、礼はいいんやけど、膝の上でぼしょぼしょと喋られるとくすぐったいんやよ。膝枕はまだ貸しといたるから、仰向けになり。」
「分かった。」
 仰向けになって見せた彼の顔は、まだ幾分青ざめてはいるけどだいぶいい感じでした。と、彼の顔を見ていると私は胸を突かれました。この人は誰かに、忘れてはいけないはずの誰かに似ているような気がします。ちょっと眉間に皺を寄せて考え込みましたが、そのような大事な人ならいずれ思い出すでしょう。私は頭を一つ振って不要な悩みを振り払い、この大事な人に似ているらしい彼の、額にかかる前髪をかき上げるようにして撫で続けました。


「うわぁ…」
「何?」
「君は戦乙女(4)? 戦死した僕を迎えに来てくれたの?」
「うん? う~ん、どうやろね。」
「ていうか、戦乙女があんな下世話な民謡、歌ってるわけないか。」
私は股を開いて彼の頭を地面に落としました。が、この懲りない男は私の両腿を手で押さえて自分の頭を挟み、これも悪くない、とのたもうております。でも、私に怒りはなかったし、それどころか先ほどまでの不安感がこの男といる間は和らいでいるようなので、私もお尻を地面に落として、脚を伸ばし、両手も地面についてくつろぐことにしました。


「兄さん、名前は?」
「アルヨン。君は?」
「エミーネ。さっきは何を怖がっとったのん?」
「え? …、そうか。えぇと、何をだろう? よく覚えてない。」
「さっきは“戦死した”なんて言うてはったけど、その戦ってた相手じゃないのん?」
「そんなこと言ったかな。」
「ま、無理には聞かんわ。おおかた、借金取りに追われてるか、昔、酷い捨て方をした女につけ狙われてるか…。」
「うん、そんなところだよ。」
「さよか。」
「そういう君こそ何者なんだ? …と、あの件は置いておいて。くくっ、そうだ、こんな得体の知れない男を股のあいだにばざみごむでいる…」
私が彼の鼻を摘んでやったので、彼は最後までちゃんと喋れません。


「あては看護婦やからね。溢れんばかりの慈悲の心が、アルヨンはんみたいなんでも放っておけへんのよ。」
「がんごぶ? どごがらぎだんだ? でいうが、ばなからでをばなしでよ。」
「はいはい。エスロリア、あ、故郷やのぅて? 2週間前にパヴィスから。」
「なんだ、まるきり普通の娘じゃないか。」
「戦乙女でなくてがっかり?」
「いや、君が普通の娘で嬉しいよ。」
「…。」
「さてと、いつまでもこうしていたいところだけど、僕がこうやって生きているからにはそうはいかないね。エミーネ、ヤルトバーンとフィリシアの名は知ってるね?」
「え? あ、はい。」
「君がこうして僕とゆっくりしている、ということは君はまだ彼らを見つけていない、ということだな。彼らもさっきまでの僕みたいに、そこら辺で転がってると思うんだ。」
「一緒でしたのん?」
「そういうこと。そういう訳だから、2人を探しにいかない?」
もちろん私に否はありません。2人は立ち上がって、もう2人を探しに歩き出しました。程なくすると、私たちは一人がもう一人を抱え込むようにして座っている2つの人影を見つけました。近づくと、それがヤルトバーンとフィリシアであることが確認できました。ですが、どうしたことでしょう? 抱きすくめられた格好のフィリシアはよく分かりませんが、ヤルトバーンは剣も荷物も、鎧までも失くしているようです。ヤルトバーンは左腕でフィリシアを抱え、太陽を見つめながら右手の親指の爪を噛み、ぶつぶつと何かを呟いていました。声をかけようとした私ですが、彼のあまりの異様な姿にそれをためらってしまいました。そんな私の気配を察したのでしょう、彼の方が先に誰何の声をあげました。


「エミーネやよ。それに、アルヨンいう男も一緒やで。」
と言いながら、私は彼の前に回り込みました。私の方に首を上げた彼の顔は、目が血走り、頬は緊張で張り、全体的に青ざめていました。私といい、アルヨンと名乗る男といい、ヤルトバーンといい、何か良くないことが私たちの身に起きたのはまず間違いないようです。一方フィリシアは俯き、小刻みに震えていました。


「フィリシア、どないしはったん?」
「どないって…、そうか、お前は覚えていないのか。そしてアルヨン、お前は何も伝えていない。」
「無理に知ることもない、と思ってね。楽しいことじゃないし。」
「目を背けていたら自然に解決すると思っているのか? こうなった以上、こいつだって今晩から毎夜毎夜、悪夢に怯えることになるんだぞ? 原因を知っていれば、それを克服しようという希望もわく。だが、何も知らぬまま恐怖に犯されていくとしたら、それはどれだけ救いのないことか。」
「悪かった。僕が浅はかだったよ。でもね、正直言うと僕もよくは覚えていないんだ。」
「そうか。俺は昨晩はついに一睡もできず、いまこの時もあの時に途切れなくつながったままだ。」
「何を分からん話をごちゃごちゃと。フィリシアはどないしたん、と聞いとんねんで。」
「フィリシアは、とてつもない恐怖に直面して心を閉ざしたようだ。何も見ず、何も聞かず、何も語らない。エミーネ、お前の薬草はこんな心の病も治すことができるか?」
「やってみな分からんよ。もっともそれ以前に、あて、鞄を失くしてしもうたみたいなんや…。」
「それなら俺が預かっている。ほら。」
そう言うと、ヤルトバーンは私に医療鞄を手渡しました。私は軽く中身を確認します。


「エミーネ、お前はフィリシアのための薬を調合してくれ。俺はその間に、お前と俺たちとの間に起こったことを伝えよう。アルヨンも座れ。」


恐怖の具現

 私、フィリシアを抱えたヤルトバーン、アルヨンは輪になって座り、私は鞄から乳棒とすり鉢、そして狂気を癒すとされるハナウドの根を取り出して、これを擂り始めました。磁器がこすれる音がヤルトバーンを促します。


「昨日、動作の風の日が我らがオーランスの聖日に当たることは承知していることと思う。かの神に仕える俺、フィリシア、そしてこのアルヨンはかりそめの聖域を描いて、その輪の中でかの神のいさおしを再演した。オズヴァルドと、もう一人アルヨンの連れは他の神を崇めているので輪の外にいた。」
「はい、質問。」
「何だ?」
「アルヨンはんとはいつ合流しはったんどすか?」
「あ、そうか。俺たちがカルマニア人に同行したあと、騎獣遊牧民の襲撃を受けて、お前を除く全員はカルマニア人と別れたよな。」
「ぷっ、くくく…。“同行”やて。」
「当たり前だ。俺たち風の民は、自由か、しからずんば死か、だ。いつ、どんなときでも他者に屈することはない。」
「この真実を帝国が理解したら、帝国は僕たちをダック(5)やテルモル(6)のように根絶するしかないね。」
「それでだ、」
「(…無視したな。)」
「その後、俺たちはパヴィスに向かって歩き出したんだが、しばらくして、俺たちはまた別のルナーの巡視隊を見つけたんだ。例の、カルマニア人たちと揉め事を起こしていたあの連中だ。奴らもパヴィスに帰るところだったんだろうな。だが、大したことのない奴らだと看て取ったから、むしろこちらから襲撃してやったよ。ただでさえ浮き足立ってた連中は、さらに背後からした奇妙な声にびびって退散しちまった。その声の主は猫で、それを踏んづけたのがこいつだったというわけさ。 」
「僕は何年か前からこのヤルトバーンと仕事してて、今回も一緒だったんけど、ひょんなことで離れ離れになってね。一人で困っているところをインパラ族のピリューにに助けてもらったんだけど、彼が、助けた礼にあるものを見つけるのを手伝え、と言ってきて、彼と同行してたんだ。で、その途上、剣戟の音がするんで駆けつけてみたら、ヤルトバーンたちがルナー巡視隊をいじめてるのに出くわしたわけ。猫はオーランスの御使いだからね(7)。きっとかの神が僕の足元にこれを置いて、ヤルトバーンたちを助けたんじゃないかな。」
「いや、かの神が遣わしたのはお前自身だと思うぞ。フィリシアの悪霊を受け入れられるのはお前だけだからな。」
「フィリシアの悪霊?」
「ああ。フィリシア、お前に会ったときからずっと悪夢にうなされていただろう? その悪夢の元凶だ。俺たちはかの神の恩寵によってそれぞれ精霊に関わることができるようになったんだが、」
「具体的にどういうこと?」
「具体的には、フィリシアは精霊を肉眼で視ることができ、俺は精霊を掴むことができ、アルヨンは精霊を自分の中に容れておくことができる。アルヨンたちと合流して初めての野営のとき、フィリシアが悪夢にうなされているのをアルヨンが不審がって俺をたたき起こしたんだが、寝ぼけてた俺はフィリシアを取り囲むよくない気配を“掴み取って”しまったんだ。俺は慌てることなくそれをアルヨンに放り込んだ。」
「ひっどーい。」
「そう言うなよ。突然、自分の腕によくない気配が絡みついたんだぞ?」
「うん、やっぱり“慌てることなく”じゃなくて、“慌てて”僕にそれを放り込んだんだね。」
「経過はともかく、フィリシアを救うにはこうするしかなかった、とは思わないか?」
「まぁね。正直言って、代わりに僕も船酔いと二日酔いを足したような最悪の気分を味わうことになったんだけど、仕方ないよね。」
「とにかく、悪霊はアルヨンに移ったまま、俺たちは次の朝を迎えた。オーランスの聖日だ。俺、フィリシア、アルヨンは、荷物をオズヴァルドに預け、かりそめの聖域に入ってかの神のいさおしの再演をした。ちなみに、フィリシアは嵐の王で、こいつが儀式を取り仕切っていたんだが、こいつが引き寄せた四方の風は聖域の輪を包み込み、辺りの砂は舞い上げられて壁を作り、俺たちと現実世界を引き離した。そして…、そして…、」
ヤルトバーンは目に見えてがたがたと震えだしました。


「ヤルトバーン、大丈夫?」
ヤルトバーンは歯をむき出してにやりと笑い、大丈夫だ、と答えました。似合わない上に可愛くない。私はちょっと前から擂り上がっていた薬を彼に差し出します。


「ヤルトバーン、これを飲み。」
「いや、まずフィリシアに飲ませてやってくれ。」
私は首を横に振ります。


「薬はこれしかあらへん。ハナウド(8)は珍しい方の薬やから、パヴィスに戻っても入手できるとは限らへん。あんたはん、さっき言いはったな。自分はそのときのことをはっきり覚えてる、て。そんで、あてらはそのことに向かいあわなあかん、て。あんたはんが今のフィリシアみたいになってもうたら、あてらは終いや。飲んどくれやす。」
「しかし…、その薬がそんなに貴重なものならなおのこと、ここでフィリシアに飲ませなければ、こいつは助からないかもしれないじゃないか。」
「言いにくいことやけど、多分、フィリシアはこないな小手先では治らへんと思う。あては左岸(9)の戦場で、月の狂気(10)に冒された兵士たちを何人も見たんやけど、ここまでひどいのは見たことあらへん。」
「どう…、どうひどいと言うんだ?」
「狂気に冒された者は、外見的にはまず、冷たく硬い表情をするのが普通でな。これは、死ぬかと思ぅた、なんて時にもなるから経験あると思うわ。次に、奇妙で不自然な姿勢や態度をとって、急に大声でわめきたてたり乱暴をはたらいたりする、いう段階がある。これは一見、かなり悪そうやけど、殴って気絶さすと治ることもある。最後に、外界から一切自分を遮断して痙攣する、いう段階がある。いまのフィリシアがそうやけど、フィリシアは他とは違うんやな…。ここまで痙攣が激しくなると、疲労と発熱で身体の方からセーブがかかって昏睡状態になるんやけど、フィリシアはそうはならん。昏睡に落ちることを許されず、恐怖に向かい合うんを強制されてるみたいや…。」
「そんな! どうすりゃ助かるんだ、フィリシアは…。」
「恐怖の元を取り除いて、患者にそれを認識させる、いうんが狂気を治すには何よりの方法なんやけどね。…その方法が採れれば、やけど。ごめんな、こないなことしか分からんで。」
「つまり、俺はどうあっても“あれ”を葬らなければならない、というわけだな。」
「…ヤルトバーン、専門家の意見は聞くべきだと思うよ。それに、恐怖の元が何であるか分からなければ、僕にも手伝いようがないじゃないか。」
「…分かった。エミーネ、薬をもらう。」
ヤルトバーンは俯いて少しフィリシアを見つめましたが、次の瞬間には意を決して薬を一気に飲み干しました。あぁ、噛みながら飲んだ方が本当はいいのだけれど。そして彼は私たちに話を続けます。


「さて、フィリシアの起こした風が儀式の輪の周りを駆け巡って砂の壁を築いたところまでは話したよな。その風はさらにアルヨンの口から黒い影を引きずり出したんだ。すると、この黒い影は辺りの砂を集めて徐々にその姿を現していった。そのとき、儀式はちょうど“大敵に立ち向かうオーランス”だった。奴は、悪霊でありながら、儀式の上ではオーランスが倒すべき大敵だったんだ。」
「そう。フィリシアはこれを認めるや謳ったよね。
 『汚れの汚れ、消えて失せろ、背を向けて疾く、立ち去るがいい。
 おまえを斬るぞ、邪悪の邪悪、そらごとうそ泣き、聞く耳持たぬ。』
 って。でも、奴さんの方はオーランスの敵として申し分なかったけど、僕らの方は役不足だったね。」
「ああ、ひどい戦いだった。奴はついには小山のような大きさにまで膨れ上がったんだが、いくら斬り付けても斬った感じがしない。それどころか、奴に斬り込んだ剣の方が腐っていく。奴が触れた鎧も服も腐っていった。いよいよ俺たちが腐らせられる番、というときに、フィリシアがこれは影に過ぎず、その向こう側に本体があることに気付いたんだ。その本体までの距離は…、あの向こうの岩くらいまであってな、もう手遅れだと思った。そこにたどり着くまでに、間違いなく俺たちは死ぬ、と。」
「でも、走るしかなかったんだよね。往生際の悪さが、僕ら風の民の天分だから。で、走ったその先で、僕は奴の暗黒の中に白いものを見つけたんだ。」
「後から追いついた俺は、その鞄、お前の鞄だけどな、を見て、白い影がお前だと直感した。いまや、儀式の上ではお前はオーランスに救われるアーナールダ、そして俺こそがオーランスだった。俺は猛然と暗黒を掻き分け、お前の白い腕を掴み、お前をアルヨンに預けると、決然として再び暗黒に向き直った。そして、いよいよ俺は悪霊の本体に正面切って向かい合い、オーランスへの祈りとともに渾身の一撃を振り下ろした! …だが、それすらも未発に終わった。どういうことだ、とフィリシアのほうを振り返ると、あいつは何かを恐れるような顔をしていた。そして、それは地平の向こう側に立つ虚無の実在、そのこちら側の影だ、と告げた。言葉の意味はよく分からなかったが、そこには“何もない”ということは、すでに剣が俺に伝えていた。もはやこれまで、と悟った俺はすぐに撤退を叫んだ。」
「だけど、そこはまさに奴さんの中心点だったんだよね。逃げる僕たちをそこかしこから“よくないもの”が撫でていく。よく捕まらなかったよね。」
「ああ…。俺たちは走りに走った。もはや黒い影が覆わないところまできて、お前たちは2人とも倒れこんだ。だが、フィリシアだけは奇声を発しながら走り続けていた。俺は疲れた身体に鞭打って、あいつに追いつき、そしていまもまだ抱きすくめている。これが、昨日の出来事だ。」
 そして、ヤルトバーンは口を緘しました。私もアルヨンも何の質問も意見もせず、押し黙っています。彼の話は、私の中にあった断片的な恐ろしいイメージを縫い合わせて、一編の記憶にしました。3人は、プラックスの太陽が照りつける中、互いに何もないところを見つめて、そのまま数時間を過ごしました。


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