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「よくいらしてくれたわ、ティルダード。」
「面白いものを見せてくれる、と言うでな。」
「まぁ、相変わらず憎たらしい。この女の園へ入ってみたい、と思っている男たちがどれだけいると思って?」
「奴らは事象の表面しか見ぬ愚か者どもだからな。わしは、そなたら女の内容物よりも、事象の内容を愛するのだ。」
「あら、わたしは話の内容だってあなたの愛する本に負けないくらい豊かなのよ。」
「それは、魅力的な誘いだな。内容も、か。だが後日のことにしようぞ。で、わしがこれまで見たこともない標本とはどこにあるのだ?」
「あなたの足元よ。」
「おおっと。危なく踏むところだった。この寝ている娘か? どれ…、ああ、明かりをもってきてくれ。」
信者の一人が燭台をもってきて、ティルダードに手渡します。
「これではダメだ。熱で眼を焼く。おい、シャフルナーズ、けちけちせずに《ランタン》の松明を持ってこさせろ。」
みんながざわめきます。シャフルナーズって誰だ? と。
「スィベル、宝物庫に行って《ランタン》の松明をもってきなさい。」
「おい、シャフルナーズ、こいつらはお前の過去の栄光を知らんのか?(14)」
「過去だなんて。わたしは今でも街に愛されているからいいんですよ。神様は、あなたと一緒で、わたしの中身を嘉してくださったのですから。」
「なるほど。」
「で、明かりで何をなさるのです?」
「うむ、こやつの外界に対する反応を見ようと思ってな。瞳孔反応が一番明敏だから…、と、おい、そこの羽箒を取ってくれ。他の反応も見ておこう。」
ティルダードは羽箒を受け取ると、それでフィリシアの身体を撫で始めました。見ていてこっちがくすぐったくなるほど綿密に。
「やはり、反応はないか。お、《ランタン》が来たな。」
彼は今度はフィリシアの眼を左手でこじ開け、右手で《ランタン》の松明をかざします。そして、フィリシアの目をひとしきり観察したあと、ため息をついて首を横に振りました。
「瞳孔反応もない。おそらく、何ぞ嫌なことから目を背けるために身体が外界との接触を内から一切遮断したもの、と踏んではおったが、ここまでひどいのは、なるほど見たことがない。」
「で、治せそう?」
「だから、見たことがない、と言っただろう? 過去にわしの知る症例はない。したがって、治療法も知らぬ。ただ…、」
「ただ、何?」
「ただな、この者は恐怖から心を閉ざしておると言っておったな。その手の治療に詳しい者が、アルダチュールにおるらしい。」
「アルダチュールに?」
「わしも風聞で聞くのみじゃが、若いのに大した腕らしい。なるほど、このような世界の果てにまで評判が聞こえるだから、そうなのだろう。それともう一つ、この者の足に付けているものなのじゃが、これは“アーナルダの頸木”ではないか? この御神宝がこの者の状態がこれほどでありながらよく命を保たせておるのではないかな。」
「“頸木”って首に架けるものではないの?」
「うむ、確かにそうじゃが、こやつが誤って付けたか、それとも足に架けるものは“足軛”というのじゃが、これがごろが悪いので改められたかしたのじゃろう。もっとも、そんなつまらんことを気にかけているのはお主だけのようだ。ほれ、」
みんなはフィリシアの足輪がどうやらありがたい御神宝らしいものであると分かった瞬間にどよめき、そして、かの足輪に近づき、次々に触りました。拝む者までいます。
「では、小娘たちには“アーナルダの頸木”をやるとして、わしはもう一つの標本を見せてもらおうか。」
「はいはい。エミーネ、立ちなさい。」
大女祭に命じられて、私は立ち上がりました。ティルダードは顎髭をしごきながら私を眺め回します。
「ほうほう、ぬしゃエスロリア人か。あっちもずいぶん大変な目にあったようだが、それで逃げてきたのか?」
「はぁ、まぁ。」
「ぬしぁ、“頸木”は持っておらんのか?」
「はい、残念ながら。」
「奪えばよかったろうに。」
「女神が彼女を選ばれはったんどす、残念ながら。」
「そうか、まことに残念であったな。」
わたしは、あの足輪が“アーナルダの頸木”であることをいま知ったばかりだし、それがどういう効験があるかも知らないのですが、みんながあれほど有難がっているものを知らないのは恥ずかしく重い、知ってるふりを通しました。でも、これだけは分かりました。あの足輪のないわたしの自己崩壊はとどめようがない、ということは。
「おい、目隠しに都合のいい布を持ってきて、この娘に目隠しをしろ。」
信者の一人が私に布を渡し、私は自分で目隠しをしました。
「おい、ぬしゃ、身体のどこがくすぐったいね?」
「は? まぁ、首筋とか…、かな。」
「なんだはっきりせんな。今度彼氏によく探してもらえ。まぁ、およその見当でいこう。で、腕なんかはあまりくすぐったくはないよな。見たところ、ぬしゃ農家の娘であろう。麦刈りなんぞしとると、肌が強くなるからな。」
「はい。」
「うむ。なら…、どうだ?」
「どうだって、何がどす?」
「よい。なら、これはどうだ?」
「何か触れました?」
「よい。これは?」
「むずむずします。」
「よろしい。目隠しをとってもいいぞ。いま、ぬしの身体をこの羽箒で撫でておった。どうだ? 想像するだけでくすぐったそうだろ? だが実際は?」
「全然くすぐったくなかったです。」
「そのようだな。そなたの感覚も閉ざされつつある、ということだ。たまに自分でやってみて、感覚の強弱を覚えておくがよい。感覚が弱まっていけば、そなたの心も閉ざされつつある、ということだ。」
「そんな…!」
「それと、無論元気になったらだが、彼氏には首筋より耳の裏を可愛がってもらえ。もっともそれは、そなたにも自覚があったであろう?」
「耳の裏の方が、って…?」
「そちらも自覚があったのか。」
「いや、犬みたいでちょっと恥ずかしいかなって。」
「うむ、だが犬の行動から学ぶこともまた多いのだぞ。それはともかく、感覚が弱まっている、ということだ。触覚だけでなく、味覚とか嗅覚とか、五感のすべてだ。」
「ええ、あては疲れているからなんやないかと思うとったんどすが。」
「疲れと思っていたなら、それでもいい。どんなときに疲れを実感した?」
「ここのところ毎晩なんどすけど、悪夢を見て目覚めたとき。それと、あのときのことを意識的に思い出そうとしたときどす。」
「うむ、同じ結果が得られることから推測するに、ぬしゃ眠ることで、意識的にぬしの恐怖に接近するときと同じように、無意識的下でも恐怖に接近しておるのだな。ぬしゃ、もはや寝ぬ方がよいぞ。」
「そんな無茶な!」
「無茶ではない。アルダチュールに着くまででよいのだ。かの地まで、ここより100里弱(15)、馬車なら二週間足らずで着く。」
「そんなに保つか、自信あらへんどす。」
「ま、保たなかったら保たないで、仕方あるまい。ここにいても治りはせぬのだ。ふぅむ、一つのぬしの悩みを解いてやろう。ぬしゃ、ここに寝ている娘を惨めだと思い、また自分もそうなったら惨めだと思うがゆえに、焦るのであろう。だが、先にも言ったように、ぬしゃ無意識下でも恐怖の源である何かに近づいていっておる。それがなんだかは分からぬが、ぬしゃそれを本当は求めておるのかも知れぬぞ。」
「恐怖を喜ぶなんてこと、あらはりますか?」
「まずは用語に気をつけようぞ。それが表層どおり本質まで恐怖とは限らぬ。ぬしの恐怖の源である何か、じゃな。つまり、ぬしゃその恐怖の向こう側にある本質の方に心惹かれておるのかも知れぬ、ということじゃ。ま、恐怖を喜ぶ、というのもなくはない。」
「じゃあ、どんな本質があると予想してはるんどすか? そういう仮定をするからには、何らかの心当たりがあるのと違いますか?」
「鋭いな。ま、孤独だとか虚無というのはありがちじゃな、と思うてな。わしらはみな、愛とはすばらしい、人を愛し人から愛されることは無上の喜びじゃ、と信じておる。じゃが、本当は水中を泳げなかったり木に登れなかったりするのと同様、まったく人を愛せない、愛するの能力が欠如したままで生まれてくる者は多い。じゃが、世間が愛を無上のものと信じ、また愛無き者を価値の低い人間とみなすゆえ、自らをそうだとは認めず、自らを騙し、愛を喜ぶ振りをして窮屈な思いをしている者のなんと多いことか。無論、人を愛せないよりは愛せた方が良いには違いない。木に登れないよりは登れた方が良いのと同じように。じゃが、木に登れなければ梯子を使えばよい。同様に、人を愛せなくとも誰かにとって必要な存在であることはできるし、愛欲の悦びも味わえる。ただ、木登りができないことは隠す必要がないのに、人を愛せないことは他人だけでなく自分をも騙さなければならないところが辛いところじゃ。」
「あてには人を愛する能力がない、そう見てはる?」
「いや、これは例としてあげただけじゃよ。ぬしの恐怖の源である何かが何であるか、はわしは知らぬ。」
「でもそんな例を出すからには、そう見える、と…。」
「いやいや、浮気性だとか自分の子供を虐待するだとか、そういう目に見える振る舞いがあるならそうじゃが、大概の愛無き者たちは、死ぬ間際になってようやく自分がそうであることをしぶしぶ認め、自分と連れ合い、そして子供たちと親たちを欺いてきたことを悔いるらしいな。」
「またまた、見てきたように。」
「いや、見えるんじゃよ。生前の自分の振る舞いを悔いて、ぶつぶつ文句を言って定命界にとどまる霊たちがな。もしそこに寝ている娘が孤独を愛する、愛無き者であるならば、いっそこの状態はそのような者にとって理想の状態であるかも知れぬ。どうじゃ? そう考えると恐怖に陥ることもまんざらではあるまい。少しは気が楽になったか?」
「いや、考え事が一つ増えたような…。」
「ティルダード、御高説はそのあたりにしておいたら? 大ばばさまが眠ってしまうわ。それと、愛に関しては、心の動きを頭で追って分かった気になっていると、かえってよくないことを引き起こす、というのが私の意見ね。大ばばさま?」
大女祭が呼ぶと、まるで壁の一部が動いたように、今まで息の音さえさせなかった大ばばがゆっくりと光のある方へ進みだしてきました。
「ようやく終わったかい? はん、洟垂れ小僧が愛についてお説教か? 人を愛する能力が欠如した者、か。もてない臆病者の考えそうなことだねぇ。エミーネとやら、真に受けると損するよ。」
「何を? わしは…」
「文句があるなら、この婆より長生きしてからにしておくれ。さてと、この婆が教えてやれるのは歌だけだが、一つ聴いてもらおうか。これはシュロクエというわたしのさらに婆さんの時代の英雄の武勇譚の一節だ。
長旅の 果てにシュロクエ 愛馬を見れば やあやあお前も疲れたか わしも疲労困憊じゃ
どこぞに村は無いものか 辺りを見回し風に問えば 一駆け先にテントが見ゆる やあやあこれは天佑ぞ
シュロクエ愛馬を励まして その集落に分け入れば 人影見えず 煙も立たず やあやあこれは怪しいことぞ
村をくまなく探してみると 少しはなれたところにぽつり ぽつりと人が倒れてる
見れば眼窩や口中に 蛆虫わいて蠢いている なるほどこれは大方やはり群盗どもに襲われた 哀れな民の果てならんや
そう思したシュロクエは せめて金目のものは無いものか と哀れな死者の胸倉を 探ってみるとびっくり仰天
心臓の鼓動とくとく とくとくと指を通して 伝わってくる さてこそこれは魂を 抜かれたものと 覚えるや
再び立ってこの辺り 見渡しみれば 熟れ麦が 風に圧されてあるように 頭を右に 向けている
そのまま視線を辿っていくと 山のような黒雲が 大地に渦を巻いている
こいつはいけない 一大事 シュロクエ 愛馬を差し招き 一目散に逃げ出した…」
「シュロクエさんって方、逃げたんですか? 英雄なのに。」
「そりゃそうだよ。勝てない相手に向かってく正直者は、いさおしを挙げる前に死んじまう。ま、聞いて欲しかったのは、砂漠にゃ英雄でも太刀打ちできない、とんでもないものがうようよしてるってことさね。ま、このエミーネとやらがこんなのに出会っていたとしたら、生きて帰っちゃいないだろうがね。なぁ、お嬢ちゃん。」
大女祭はわたしが肯くことを期待してこちらを向いたのでしょう。ですが、わたしは先の話で、「あれ」が現実であることを思い知り、恐怖に震えていました。
「ビンゴ、だったかね?」
「何を悠長な。大女祭さま、その黒雲の瘴気にあたって、かつ生還した者の治療法はご存じないですか?」
「いんや、そもそも黒雲に遭遇して生還したのはシュロクエ様だけだ。そんな方法知るわけないわい。」
「そんな…。」
「何を大げさな。この娘はこうして生きて帰ったんだ。程度の差こそあろうが、若武者が初めて敵首を取ったときのようなもんで、酒でも飲んで寝ちまえばいいのさ。もっとも、この娘にもう酒はいらないみたいだね。寝所につれてっておやりよ。あたしももう寝る。」
「うぅむ、すると、この娘がその件の“黒雲”とやらに間近に会って、初めて生還した者となるのじゃな? うぅむ、実に興味深い…。」
「…ティルダード様も、もうお帰りくださいませ。」
「む、招いておいて何たる失礼。わしはこの貴重な被験体をだな…、こら、はなせ! うわっ、腕が折れる。か細い老人に何てことを…」
あれはわたしが10歳のとき、ノチェットでのことでした。その年、西の方から荒くれども(16)がやってきて村を荒らすので、お父さんもすでにない我が家は、家畜を売ってノチェットに逃れてきたのでした。どこを向いても人ばかり、きっと今日はお祭りなんだと思っていたら、本当に人だかりができているので覗きに行ってみると、そこでは、柱に括り付けられた男たちが火炙りにされていました。脇に立つ女祭が、穢れた魂が火によりて浄化されんことを、と祈っていました。ああ、この臭いは穢れた魂が燻る臭いでした。
とにかく窓を開けようと、わたしは窓板をはずしました。ここパヴィスでは、冬にはかなり冷え込むので、エスロリアのものと違って窓が密閉できるようにぴったりと板をはめ込みます。その板は、わたしたちの風呂蓋のようなものです。明け放たれた窓からは、砂漠からの清涼な風が部屋に流れ込んできました。が、臭いはかえって強くなりました。いぶかしみつつ窓を閉め、臭いがどこから発するか部屋を探し回りますが、臭いはついて来ます。その嫌な事実を認めたくないために、わたしはさらに部屋をうろつきましたが、ダメでした。臭いはわたしから、燻るわたしの穢れた魂から発しているのでした。死よりもなお恐ろしい結末がわたしを待っている気がして、この夜はひざを抱えたままとうとう眠れませんでした。
日の出直前、寺院住まいの姉妹たちが起き出したらしく、物音が聞こえ始めます。わたしはまどろんでいたのですが、ノックの音がそれを覚ましました。
「エミーネ、起きてる?」
「あ、大女祭補さま、はい、いま開けます。どうしはりました? まだ夜も明けぬうちから。」
「うん、昨夜、あなたは気を失ってしまったじゃない。だから、昨夜の話を覚えてるかしら、と思って。灰色卿(17)はアルダチュールに治療に行ってみてはどうか、って。で、大ばばさまは一時的なもので気に病むことはない、って。」
「はい、よぅ覚えてます。」
「で、どうするの?」
「学者さまの話だと、ここにいたら救われないんですよね。大ばばさまの話だと、アルダチュールに行ってる間にも治るかもしれん。ほなら、アルダチュール行きの方が安全と違いますか?」
「うん、普通そう判断するわよね。」
「何か問題が?」
「ほら、あなた、赤い方々に言い寄られてるんでしょ?」
「あ、しもうた。」
「そう思って、ほらぁ。」
言うや、大女祭補は後ろ手に隠していた布を広げました。
「これは?」
「変装よ。ほら、あなたって見るからにエスロリアから来ました、って格好しているでしょ?」
「いや、これはヒョルトランドの…。」
「とにかく、パヴィスの普通の娘になるのよ。」
「さすがにそれだけでは…。」
「もちろんそれだけじゃないわ。うちと懇意にしている交易商に、あなたを隠して運んでもらうつもり。さらに、開門のとき、門の外で待たされてた人たちが入ってくる混雑時にあなた方に出てもらうつもりよ。」
「完璧ですね。」
「うぅん、完璧ではないの。」
「というと?」
「朝早く出て行くとなると、あなたの恋人に別れの挨拶ができそうにないわ。」
「あ…。で、でも仕方ないどす。」
「手紙でも、書いてみる? 今日の昼までには届けるわよ。」
「あ、ありがとうございます。そなら、さっそく準備に取り掛かります。」
「朝ごはんも食べるのよ。じゃ、またね。」
わたしは荷造りをし、手早く早課を済ませ、文机の前に座りました。朝食までの間にアルヨンへの手紙を書くためです。
手紙…。何を書こう? 愛しい愛しいアルヨンさま? アルヨンとわたしの関係は、わたしが一方的に恋焦がれているだけで、彼の気持ちをまだ確かめていない。こんな大切なこと、この頼りない紙切れには託せない。でも、治療に何ヶ月もかかって、ここに戻ってきて彼がいなかったらどうしよう? 思ったより難しい。考えているうちに朝食の準備が整ってしまったようでした。
朝食のテーブルに着いてからもなお、手紙のことを考えていると、可愛らしい少女がわたしの目の前の席に座り込んできました。
「お早うはん、えぇと、どちらはん?」
「あ、そのエスロリア訛り、やっぱりあなたがエミーネさんですね。アルヨンさんが気にかけてる。」
「え? あ、あの…、嫌やわぁ、朝からそないな、って。そう、あてはエミーネどす。あなたは?」
「あ、ごめんなさい。あたし、ナノっていいます。この席、空いてます?」
「もう、座っとるんやけど。まぁ、ええわ。ところで、ナノさん? さっきアルヨンって…」
「冬の朝食って、朝から豚肉てんこ盛りで、困っちゃいますよねー?」
「まぁ、今のうちはまだ茸とかが残ってるから…って。」
「えぇ、“彼”に、食事に誘われたんですよ。」
「な、何やて?」
「えぇ!? あたし、まだ平信徒なんだし、いいじゃないですかぁー。先輩たちも遊ぶなら今のうち、って言ってますよー。」
「いや、そうでのぅて。」
「ああ! 大丈夫ですよ。あたし、よく男の人に声、かけられてるんで、慣れてるんです。そんなの。」
「人の話を聞きなはれ!」
「…はぁい、どうぞ。」
「あてのこと、聞いてからにここに座ってはるんでしょ? “彼”から。」
「…そうです。これから言おうとしてたのに…。」
「堪忍ね。怒鳴るつもりはなかったんやけど…、つい。」
「はい、もういいです。で、“彼”…、」
「そう、“彼”が?」
「い、いや、アルヨンさんがですね、エミーネさんのこと心配して、ここを見張ってたんですって。でも、もちろん寺院は取り合ってくれないじゃないですか、知らない男の人なんだし。で、事情を聞きだそうと、たまたまあたしに声をかけたんですよ。」
「そう、アルヨン、ずっと心配してくれはったんやろか…。」
「で、その後、アルヨンさん、あたしのことを部屋に連れ込んだんですが…。」
「はぁ?」
「違います違います。あたしもね、嘘こいて悪戯しようとしてたんなら、蹴ってやろう、って思ってたんですけどね。本当に指も出さないんで、悔しいから胸を押し付けてみたんだけど。アハハハ…」
「ハハハ…。」
「…嘘です。ごめんなさい。」
「どこまで?」
「も、もう、何を言ってるんですか。アルヨンさんはエミーネさんに岡惚れですよぉ。エミーネさんも、恋人は信じてあげなくっちゃ…、どう?」
「う~ん、うむうむ。」
「(こっ、これだわ!) ねぇ、エミーネさんとアルヨンさんは愛し合っているんだから…。 (今のうち、抜き足、差し足…)」
「はっ! ところでナノはん…、っていない?」
見ると眼前には食べかけの朝食が二膳あるだけでした。
「あっ! 急いで仕度せな。」
わたしは部屋に戻ると手早く手紙を書き、すでに準備が整った荷物を持って大女祭補の下へ赴きます。
「準備できた? 恋人への手紙は書けたかしら?」
「はい。」
「どれどれ、本日早朝、治療のためアルダチュールに発つ、エミーネ。え? これだけ?」
「これだけです。書置きなんやから十分どす。」
「うぅん、あふれる想いがかえって邪魔をして、何も書けなかったのね?」
「そんなところどす。」
「じゃ、これは間違いなく届けるわ。交易商さんは、門前ですでにお待ちよ。マスターコスの僕の方で、ブントさんっていうの。ちょっと馬車に問題がないわけじゃないんだけど…。」
「そないなこと言ってられまへん。ほんま、お手数かけます。」
「何、言ってんの。姉妹じゃない。気を付けてね。」
「はい、姉さんも、元気で。」
荷物を担ぎ、フィリシアの手を引いて扉を開くと、そこには古ぼけた四輪馬車が止まっており、御者台では浅黒い男がやけに白い歯を朝日に輝かせてわたしたちを迎えてくれました。
賢者たちの推察
晩祷の後、晩餐の手伝いをし、普段のように大広間での晩餐が終わると、大広間からテーブルがどかされ、壁に沿って椅子を並べて、空いた空間にフィリシアが担架で運ばれてきて寝かされました。こうして、私とフィリシアの治療法を諮るための会合の準備はなされました。そして、準備が終わったのを見計らったように、大広間にランカー・マイの学者が入ってきました。外部の客を迎えるために同席していた大女祭が彼を立って迎えます。「よくいらしてくれたわ、ティルダード。」
「面白いものを見せてくれる、と言うでな。」
「まぁ、相変わらず憎たらしい。この女の園へ入ってみたい、と思っている男たちがどれだけいると思って?」
「奴らは事象の表面しか見ぬ愚か者どもだからな。わしは、そなたら女の内容物よりも、事象の内容を愛するのだ。」
「あら、わたしは話の内容だってあなたの愛する本に負けないくらい豊かなのよ。」
「それは、魅力的な誘いだな。内容も、か。だが後日のことにしようぞ。で、わしがこれまで見たこともない標本とはどこにあるのだ?」
「あなたの足元よ。」
「おおっと。危なく踏むところだった。この寝ている娘か? どれ…、ああ、明かりをもってきてくれ。」
信者の一人が燭台をもってきて、ティルダードに手渡します。
「これではダメだ。熱で眼を焼く。おい、シャフルナーズ、けちけちせずに《ランタン》の松明を持ってこさせろ。」
みんながざわめきます。シャフルナーズって誰だ? と。
「スィベル、宝物庫に行って《ランタン》の松明をもってきなさい。」
「おい、シャフルナーズ、こいつらはお前の過去の栄光を知らんのか?(14)」
「過去だなんて。わたしは今でも街に愛されているからいいんですよ。神様は、あなたと一緒で、わたしの中身を嘉してくださったのですから。」
「なるほど。」
「で、明かりで何をなさるのです?」
「うむ、こやつの外界に対する反応を見ようと思ってな。瞳孔反応が一番明敏だから…、と、おい、そこの羽箒を取ってくれ。他の反応も見ておこう。」
ティルダードは羽箒を受け取ると、それでフィリシアの身体を撫で始めました。見ていてこっちがくすぐったくなるほど綿密に。
「やはり、反応はないか。お、《ランタン》が来たな。」
彼は今度はフィリシアの眼を左手でこじ開け、右手で《ランタン》の松明をかざします。そして、フィリシアの目をひとしきり観察したあと、ため息をついて首を横に振りました。
「瞳孔反応もない。おそらく、何ぞ嫌なことから目を背けるために身体が外界との接触を内から一切遮断したもの、と踏んではおったが、ここまでひどいのは、なるほど見たことがない。」
「で、治せそう?」
「だから、見たことがない、と言っただろう? 過去にわしの知る症例はない。したがって、治療法も知らぬ。ただ…、」
「ただ、何?」
「ただな、この者は恐怖から心を閉ざしておると言っておったな。その手の治療に詳しい者が、アルダチュールにおるらしい。」
「アルダチュールに?」
「わしも風聞で聞くのみじゃが、若いのに大した腕らしい。なるほど、このような世界の果てにまで評判が聞こえるだから、そうなのだろう。それともう一つ、この者の足に付けているものなのじゃが、これは“アーナルダの頸木”ではないか? この御神宝がこの者の状態がこれほどでありながらよく命を保たせておるのではないかな。」
「“頸木”って首に架けるものではないの?」
「うむ、確かにそうじゃが、こやつが誤って付けたか、それとも足に架けるものは“足軛”というのじゃが、これがごろが悪いので改められたかしたのじゃろう。もっとも、そんなつまらんことを気にかけているのはお主だけのようだ。ほれ、」
みんなはフィリシアの足輪がどうやらありがたい御神宝らしいものであると分かった瞬間にどよめき、そして、かの足輪に近づき、次々に触りました。拝む者までいます。
「では、小娘たちには“アーナルダの頸木”をやるとして、わしはもう一つの標本を見せてもらおうか。」
「はいはい。エミーネ、立ちなさい。」
大女祭に命じられて、私は立ち上がりました。ティルダードは顎髭をしごきながら私を眺め回します。
「ほうほう、ぬしゃエスロリア人か。あっちもずいぶん大変な目にあったようだが、それで逃げてきたのか?」
「はぁ、まぁ。」
「ぬしぁ、“頸木”は持っておらんのか?」
「はい、残念ながら。」
「奪えばよかったろうに。」
「女神が彼女を選ばれはったんどす、残念ながら。」
「そうか、まことに残念であったな。」
わたしは、あの足輪が“アーナルダの頸木”であることをいま知ったばかりだし、それがどういう効験があるかも知らないのですが、みんながあれほど有難がっているものを知らないのは恥ずかしく重い、知ってるふりを通しました。でも、これだけは分かりました。あの足輪のないわたしの自己崩壊はとどめようがない、ということは。
「おい、目隠しに都合のいい布を持ってきて、この娘に目隠しをしろ。」
信者の一人が私に布を渡し、私は自分で目隠しをしました。
「おい、ぬしゃ、身体のどこがくすぐったいね?」
「は? まぁ、首筋とか…、かな。」
「なんだはっきりせんな。今度彼氏によく探してもらえ。まぁ、およその見当でいこう。で、腕なんかはあまりくすぐったくはないよな。見たところ、ぬしゃ農家の娘であろう。麦刈りなんぞしとると、肌が強くなるからな。」
「はい。」
「うむ。なら…、どうだ?」
「どうだって、何がどす?」
「よい。なら、これはどうだ?」
「何か触れました?」
「よい。これは?」
「むずむずします。」
「よろしい。目隠しをとってもいいぞ。いま、ぬしの身体をこの羽箒で撫でておった。どうだ? 想像するだけでくすぐったそうだろ? だが実際は?」
「全然くすぐったくなかったです。」
「そのようだな。そなたの感覚も閉ざされつつある、ということだ。たまに自分でやってみて、感覚の強弱を覚えておくがよい。感覚が弱まっていけば、そなたの心も閉ざされつつある、ということだ。」
「そんな…!」
「それと、無論元気になったらだが、彼氏には首筋より耳の裏を可愛がってもらえ。もっともそれは、そなたにも自覚があったであろう?」
「耳の裏の方が、って…?」
「そちらも自覚があったのか。」
「いや、犬みたいでちょっと恥ずかしいかなって。」
「うむ、だが犬の行動から学ぶこともまた多いのだぞ。それはともかく、感覚が弱まっている、ということだ。触覚だけでなく、味覚とか嗅覚とか、五感のすべてだ。」
「ええ、あては疲れているからなんやないかと思うとったんどすが。」
「疲れと思っていたなら、それでもいい。どんなときに疲れを実感した?」
「ここのところ毎晩なんどすけど、悪夢を見て目覚めたとき。それと、あのときのことを意識的に思い出そうとしたときどす。」
「うむ、同じ結果が得られることから推測するに、ぬしゃ眠ることで、意識的にぬしの恐怖に接近するときと同じように、無意識的下でも恐怖に接近しておるのだな。ぬしゃ、もはや寝ぬ方がよいぞ。」
「そんな無茶な!」
「無茶ではない。アルダチュールに着くまででよいのだ。かの地まで、ここより100里弱(15)、馬車なら二週間足らずで着く。」
「そんなに保つか、自信あらへんどす。」
「ま、保たなかったら保たないで、仕方あるまい。ここにいても治りはせぬのだ。ふぅむ、一つのぬしの悩みを解いてやろう。ぬしゃ、ここに寝ている娘を惨めだと思い、また自分もそうなったら惨めだと思うがゆえに、焦るのであろう。だが、先にも言ったように、ぬしゃ無意識下でも恐怖の源である何かに近づいていっておる。それがなんだかは分からぬが、ぬしゃそれを本当は求めておるのかも知れぬぞ。」
「恐怖を喜ぶなんてこと、あらはりますか?」
「まずは用語に気をつけようぞ。それが表層どおり本質まで恐怖とは限らぬ。ぬしの恐怖の源である何か、じゃな。つまり、ぬしゃその恐怖の向こう側にある本質の方に心惹かれておるのかも知れぬ、ということじゃ。ま、恐怖を喜ぶ、というのもなくはない。」
「じゃあ、どんな本質があると予想してはるんどすか? そういう仮定をするからには、何らかの心当たりがあるのと違いますか?」
「鋭いな。ま、孤独だとか虚無というのはありがちじゃな、と思うてな。わしらはみな、愛とはすばらしい、人を愛し人から愛されることは無上の喜びじゃ、と信じておる。じゃが、本当は水中を泳げなかったり木に登れなかったりするのと同様、まったく人を愛せない、愛するの能力が欠如したままで生まれてくる者は多い。じゃが、世間が愛を無上のものと信じ、また愛無き者を価値の低い人間とみなすゆえ、自らをそうだとは認めず、自らを騙し、愛を喜ぶ振りをして窮屈な思いをしている者のなんと多いことか。無論、人を愛せないよりは愛せた方が良いには違いない。木に登れないよりは登れた方が良いのと同じように。じゃが、木に登れなければ梯子を使えばよい。同様に、人を愛せなくとも誰かにとって必要な存在であることはできるし、愛欲の悦びも味わえる。ただ、木登りができないことは隠す必要がないのに、人を愛せないことは他人だけでなく自分をも騙さなければならないところが辛いところじゃ。」
「あてには人を愛する能力がない、そう見てはる?」
「いや、これは例としてあげただけじゃよ。ぬしの恐怖の源である何かが何であるか、はわしは知らぬ。」
「でもそんな例を出すからには、そう見える、と…。」
「いやいや、浮気性だとか自分の子供を虐待するだとか、そういう目に見える振る舞いがあるならそうじゃが、大概の愛無き者たちは、死ぬ間際になってようやく自分がそうであることをしぶしぶ認め、自分と連れ合い、そして子供たちと親たちを欺いてきたことを悔いるらしいな。」
「またまた、見てきたように。」
「いや、見えるんじゃよ。生前の自分の振る舞いを悔いて、ぶつぶつ文句を言って定命界にとどまる霊たちがな。もしそこに寝ている娘が孤独を愛する、愛無き者であるならば、いっそこの状態はそのような者にとって理想の状態であるかも知れぬ。どうじゃ? そう考えると恐怖に陥ることもまんざらではあるまい。少しは気が楽になったか?」
「いや、考え事が一つ増えたような…。」
「ティルダード、御高説はそのあたりにしておいたら? 大ばばさまが眠ってしまうわ。それと、愛に関しては、心の動きを頭で追って分かった気になっていると、かえってよくないことを引き起こす、というのが私の意見ね。大ばばさま?」
大女祭が呼ぶと、まるで壁の一部が動いたように、今まで息の音さえさせなかった大ばばがゆっくりと光のある方へ進みだしてきました。
「ようやく終わったかい? はん、洟垂れ小僧が愛についてお説教か? 人を愛する能力が欠如した者、か。もてない臆病者の考えそうなことだねぇ。エミーネとやら、真に受けると損するよ。」
「何を? わしは…」
「文句があるなら、この婆より長生きしてからにしておくれ。さてと、この婆が教えてやれるのは歌だけだが、一つ聴いてもらおうか。これはシュロクエというわたしのさらに婆さんの時代の英雄の武勇譚の一節だ。
長旅の 果てにシュロクエ 愛馬を見れば やあやあお前も疲れたか わしも疲労困憊じゃ
どこぞに村は無いものか 辺りを見回し風に問えば 一駆け先にテントが見ゆる やあやあこれは天佑ぞ
シュロクエ愛馬を励まして その集落に分け入れば 人影見えず 煙も立たず やあやあこれは怪しいことぞ
村をくまなく探してみると 少しはなれたところにぽつり ぽつりと人が倒れてる
見れば眼窩や口中に 蛆虫わいて蠢いている なるほどこれは大方やはり群盗どもに襲われた 哀れな民の果てならんや
そう思したシュロクエは せめて金目のものは無いものか と哀れな死者の胸倉を 探ってみるとびっくり仰天
心臓の鼓動とくとく とくとくと指を通して 伝わってくる さてこそこれは魂を 抜かれたものと 覚えるや
再び立ってこの辺り 見渡しみれば 熟れ麦が 風に圧されてあるように 頭を右に 向けている
そのまま視線を辿っていくと 山のような黒雲が 大地に渦を巻いている
こいつはいけない 一大事 シュロクエ 愛馬を差し招き 一目散に逃げ出した…」
「シュロクエさんって方、逃げたんですか? 英雄なのに。」
「そりゃそうだよ。勝てない相手に向かってく正直者は、いさおしを挙げる前に死んじまう。ま、聞いて欲しかったのは、砂漠にゃ英雄でも太刀打ちできない、とんでもないものがうようよしてるってことさね。ま、このエミーネとやらがこんなのに出会っていたとしたら、生きて帰っちゃいないだろうがね。なぁ、お嬢ちゃん。」
大女祭はわたしが肯くことを期待してこちらを向いたのでしょう。ですが、わたしは先の話で、「あれ」が現実であることを思い知り、恐怖に震えていました。
「ビンゴ、だったかね?」
「何を悠長な。大女祭さま、その黒雲の瘴気にあたって、かつ生還した者の治療法はご存じないですか?」
「いんや、そもそも黒雲に遭遇して生還したのはシュロクエ様だけだ。そんな方法知るわけないわい。」
「そんな…。」
「何を大げさな。この娘はこうして生きて帰ったんだ。程度の差こそあろうが、若武者が初めて敵首を取ったときのようなもんで、酒でも飲んで寝ちまえばいいのさ。もっとも、この娘にもう酒はいらないみたいだね。寝所につれてっておやりよ。あたしももう寝る。」
「うぅむ、すると、この娘がその件の“黒雲”とやらに間近に会って、初めて生還した者となるのじゃな? うぅむ、実に興味深い…。」
「…ティルダード様も、もうお帰りくださいませ。」
「む、招いておいて何たる失礼。わしはこの貴重な被験体をだな…、こら、はなせ! うわっ、腕が折れる。か細い老人に何てことを…」
再びパヴィスを出る
いつの間にか寝台に収まっていたわたしは、ひどい臭いで目が覚めました。これは…、料理が失敗したときの臭い? ちょっと違う。その臭いは残念な気持ちと一緒のものだけれど、この臭いは悲しい気持ちと一緒に嗅いだような気がする。あれはわたしが10歳のとき、ノチェットでのことでした。その年、西の方から荒くれども(16)がやってきて村を荒らすので、お父さんもすでにない我が家は、家畜を売ってノチェットに逃れてきたのでした。どこを向いても人ばかり、きっと今日はお祭りなんだと思っていたら、本当に人だかりができているので覗きに行ってみると、そこでは、柱に括り付けられた男たちが火炙りにされていました。脇に立つ女祭が、穢れた魂が火によりて浄化されんことを、と祈っていました。ああ、この臭いは穢れた魂が燻る臭いでした。
とにかく窓を開けようと、わたしは窓板をはずしました。ここパヴィスでは、冬にはかなり冷え込むので、エスロリアのものと違って窓が密閉できるようにぴったりと板をはめ込みます。その板は、わたしたちの風呂蓋のようなものです。明け放たれた窓からは、砂漠からの清涼な風が部屋に流れ込んできました。が、臭いはかえって強くなりました。いぶかしみつつ窓を閉め、臭いがどこから発するか部屋を探し回りますが、臭いはついて来ます。その嫌な事実を認めたくないために、わたしはさらに部屋をうろつきましたが、ダメでした。臭いはわたしから、燻るわたしの穢れた魂から発しているのでした。死よりもなお恐ろしい結末がわたしを待っている気がして、この夜はひざを抱えたままとうとう眠れませんでした。
日の出直前、寺院住まいの姉妹たちが起き出したらしく、物音が聞こえ始めます。わたしはまどろんでいたのですが、ノックの音がそれを覚ましました。
「エミーネ、起きてる?」
「あ、大女祭補さま、はい、いま開けます。どうしはりました? まだ夜も明けぬうちから。」
「うん、昨夜、あなたは気を失ってしまったじゃない。だから、昨夜の話を覚えてるかしら、と思って。灰色卿(17)はアルダチュールに治療に行ってみてはどうか、って。で、大ばばさまは一時的なもので気に病むことはない、って。」
「はい、よぅ覚えてます。」
「で、どうするの?」
「学者さまの話だと、ここにいたら救われないんですよね。大ばばさまの話だと、アルダチュールに行ってる間にも治るかもしれん。ほなら、アルダチュール行きの方が安全と違いますか?」
「うん、普通そう判断するわよね。」
「何か問題が?」
「ほら、あなた、赤い方々に言い寄られてるんでしょ?」
「あ、しもうた。」
「そう思って、ほらぁ。」
言うや、大女祭補は後ろ手に隠していた布を広げました。
「これは?」
「変装よ。ほら、あなたって見るからにエスロリアから来ました、って格好しているでしょ?」
「いや、これはヒョルトランドの…。」
「とにかく、パヴィスの普通の娘になるのよ。」
「さすがにそれだけでは…。」
「もちろんそれだけじゃないわ。うちと懇意にしている交易商に、あなたを隠して運んでもらうつもり。さらに、開門のとき、門の外で待たされてた人たちが入ってくる混雑時にあなた方に出てもらうつもりよ。」
「完璧ですね。」
「うぅん、完璧ではないの。」
「というと?」
「朝早く出て行くとなると、あなたの恋人に別れの挨拶ができそうにないわ。」
「あ…。で、でも仕方ないどす。」
「手紙でも、書いてみる? 今日の昼までには届けるわよ。」
「あ、ありがとうございます。そなら、さっそく準備に取り掛かります。」
「朝ごはんも食べるのよ。じゃ、またね。」
わたしは荷造りをし、手早く早課を済ませ、文机の前に座りました。朝食までの間にアルヨンへの手紙を書くためです。
手紙…。何を書こう? 愛しい愛しいアルヨンさま? アルヨンとわたしの関係は、わたしが一方的に恋焦がれているだけで、彼の気持ちをまだ確かめていない。こんな大切なこと、この頼りない紙切れには託せない。でも、治療に何ヶ月もかかって、ここに戻ってきて彼がいなかったらどうしよう? 思ったより難しい。考えているうちに朝食の準備が整ってしまったようでした。
朝食のテーブルに着いてからもなお、手紙のことを考えていると、可愛らしい少女がわたしの目の前の席に座り込んできました。
「お早うはん、えぇと、どちらはん?」
「あ、そのエスロリア訛り、やっぱりあなたがエミーネさんですね。アルヨンさんが気にかけてる。」
「え? あ、あの…、嫌やわぁ、朝からそないな、って。そう、あてはエミーネどす。あなたは?」
「あ、ごめんなさい。あたし、ナノっていいます。この席、空いてます?」
「もう、座っとるんやけど。まぁ、ええわ。ところで、ナノさん? さっきアルヨンって…」
「冬の朝食って、朝から豚肉てんこ盛りで、困っちゃいますよねー?」
「まぁ、今のうちはまだ茸とかが残ってるから…って。」
「えぇ、“彼”に、食事に誘われたんですよ。」
「な、何やて?」
「えぇ!? あたし、まだ平信徒なんだし、いいじゃないですかぁー。先輩たちも遊ぶなら今のうち、って言ってますよー。」
「いや、そうでのぅて。」
「ああ! 大丈夫ですよ。あたし、よく男の人に声、かけられてるんで、慣れてるんです。そんなの。」
「人の話を聞きなはれ!」
「…はぁい、どうぞ。」
「あてのこと、聞いてからにここに座ってはるんでしょ? “彼”から。」
「…そうです。これから言おうとしてたのに…。」
「堪忍ね。怒鳴るつもりはなかったんやけど…、つい。」
「はい、もういいです。で、“彼”…、」
「そう、“彼”が?」
「い、いや、アルヨンさんがですね、エミーネさんのこと心配して、ここを見張ってたんですって。でも、もちろん寺院は取り合ってくれないじゃないですか、知らない男の人なんだし。で、事情を聞きだそうと、たまたまあたしに声をかけたんですよ。」
「そう、アルヨン、ずっと心配してくれはったんやろか…。」
「で、その後、アルヨンさん、あたしのことを部屋に連れ込んだんですが…。」
「はぁ?」
「違います違います。あたしもね、嘘こいて悪戯しようとしてたんなら、蹴ってやろう、って思ってたんですけどね。本当に指も出さないんで、悔しいから胸を押し付けてみたんだけど。アハハハ…」
「ハハハ…。」
「…嘘です。ごめんなさい。」
「どこまで?」
「も、もう、何を言ってるんですか。アルヨンさんはエミーネさんに岡惚れですよぉ。エミーネさんも、恋人は信じてあげなくっちゃ…、どう?」
「う~ん、うむうむ。」
「(こっ、これだわ!) ねぇ、エミーネさんとアルヨンさんは愛し合っているんだから…。 (今のうち、抜き足、差し足…)」
「はっ! ところでナノはん…、っていない?」
見ると眼前には食べかけの朝食が二膳あるだけでした。
「あっ! 急いで仕度せな。」
わたしは部屋に戻ると手早く手紙を書き、すでに準備が整った荷物を持って大女祭補の下へ赴きます。
「準備できた? 恋人への手紙は書けたかしら?」
「はい。」
「どれどれ、本日早朝、治療のためアルダチュールに発つ、エミーネ。え? これだけ?」
「これだけです。書置きなんやから十分どす。」
「うぅん、あふれる想いがかえって邪魔をして、何も書けなかったのね?」
「そんなところどす。」
「じゃ、これは間違いなく届けるわ。交易商さんは、門前ですでにお待ちよ。マスターコスの僕の方で、ブントさんっていうの。ちょっと馬車に問題がないわけじゃないんだけど…。」
「そないなこと言ってられまへん。ほんま、お手数かけます。」
「何、言ってんの。姉妹じゃない。気を付けてね。」
「はい、姉さんも、元気で。」
荷物を担ぎ、フィリシアの手を引いて扉を開くと、そこには古ぼけた四輪馬車が止まっており、御者台では浅黒い男がやけに白い歯を朝日に輝かせてわたしたちを迎えてくれました。