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気鋭の若手経済学者が、社会問題・経済問題を、Hacks的な手法を用いて、その解決策を探る。



第14回 昨日を生きるな明日を生きろ

2007年9月 3日


Hacksツールを使って経済を考えようという趣旨で書き始めておきながら……いつのまにか経済学ツールを使ってLife Hackする話になってしまいました。もう開き直ってこっちの路線でやろうかとおもいます。すいません。

Life Hackに役立つ経済学の思考法としてわすれてならないのが費用便益分析です。費用といっても金銭的なモノだけではありません。目に見えない費用である機会費用もあれば、心理的負担という費用だってあります。便益についても、もちろん、金銭的なものだけではないでしょう。しかし、金銭的なものにせよ、そうでないにせよ!「より大きな満足度を得るためには、費用を抑え、便益をあげる必要がある」という点にかわりはありません。

■費用便益分析……できてますか?

費用便益分析の基本は、「ある行動がもたらす便益がそのための費用を上回っていれば……やるべきだ」という至極単純なお話しです。でも、この単純なことがどうも出来ないことってあるんですよね。

1万円の入場料を払ってテーマパークに入ってみたもののアトラクションのほとんどが改装中。稼働しているモノも時代遅れ……どう考えても楽しめない。むしろタダでも時間の無駄(経済学的には機会費用分のムダ!というわけです)だというとき! あなたは、どちらの選択肢を選びますか?
A:これ以上ここにとどまっても時間の無駄なんだからさっさと別のとこに行く」
B:1万円払っちゃったんだからしょうがないけどなんとか楽しもうと努力する」
さて、AとBの選択肢どちらが優れているかを費用と便益を比べながら考えてみましょう。
Aの便益-Aの費用
=(別の場所で得られる楽しさ)-(別の場所で遊ぶのにかかるコスト)-1万円
Bの便益-Bの費用
=(このテーマパークで得られる楽しさ)-1万円

AとBとの便益と費用の差(これを純便益といいます)を考えると、ふと気づくところがありませんか? 既に支払ってしまった1万円分は、A、Bどちらを選ぼうと返ってくることはないので……1万円分マイナスは両方に共通しています。ということは……AとBの二つの選択肢を比べる際にはすでに支払ってしまった1万円は「関係ない」ということになるのです。

このように、どうしてももう返ってこない費用をサンクコスト(埋没費用)といいます。今後の行動を損得勘定をするときにはサンク済みのコストを気にしてはいけません。この例だと、「むしろタダでも時間の無駄」というわけですから、「1万円払っちゃったんだから」もへったくれもなく、さっさとそのテーマパークから出るべきです。

すでにサンクしてしまったコストを気にして失敗するという例はいくらでもあります。これは個人的な話……彼女にはあんなに貢いだんだから、もうこの台に3万円も吸われちゃったし、株式投資の損切りが出来ないといった話にとどまりません。

企業の意思決定において、「30億の費用と人手を使って進めてきたプロジェクト」を打ち切りにするのは非常に困難です。その企業か倒産するか否かの瀬戸際にあるというならばともかく、それなりに「まわっている」状態では関係者の感情の方がどうも優先されがちになります。近年ようやく一般化してきた社外取締役は、このような情に流されるのを防ぐという役割も期待されています。

■合理的計算で気楽に生きよう

合理的に損得勘定をして行動を決定する……というとずいぶんと堅苦しい行動様式のように思えてしまいます。しかし、このサンクコストの話を考えると、むしろ損得勘定をした方が気楽なような気さえします。

経済学は「陰鬱な科学」と呼ばれることがありますが、僕はこれってあんまり妥当じゃないと思うんです。行動を決定する際にはサンクコストを気にするなということは、「取り返しのつなかない過去」を考えずに、「これから発生する未来」についてのみを考えて行動するというメッセージです。要は「昨日を生きるな、明日を生きろ」ってことですから……こんなプラス思考な社会科学は他にないんじゃないかしら。これからは経済学のことを「陽気な科学」とよんでやってください。


第15回 ちょっとまとめてみようじゃないか

2007年9月17日


本blogでは「経済学の基本発想はライフハック的である」という出発点から,日常生活に生かすことのできる経済学思考を紹介してきました.しかし,本blogのタイトルは「Social Science Hacks!」です.そろそろビジネス,さらには社会問題まで幅広い現実問題のHackに応用していきたいところ.
そこで,これまで散発的に紹介してきたものも含めて,私が考える経済学思考をまとめてから,その具体的な問題への適用へとすすみたいと思います.要するに「いっかいしきりなおしさせて頂戴」ってなわけ.

■僕たちは何をしているか

いきなり哲学的な話題ですが,生きとし生けるものの思考・行動が共通に持っている特徴ってなんなんでしょう.まず僕たちは朝起きて,飯を食って寝ている.ここまでは誰もが同じ.それが人生の全てだという穿ったみかたもありますが,その他にも,ぜいたくをしたいとか,他の誰かを支配したいとか,他人に尊敬されたいとか……逆に他の誰かの役に立ちたいとかいろいろな希望を持ちながら生きています.こういう「目的」の部分は全くもって人それぞれで,共通点などないように感じます.
しかし,ここで「人生いろいろ」と思考停止[*1]していては社会問題はもとより,経済・ビジネスの問題は「わからないまま」で終わってしまいます.なんとか共通の,悪く言えば十把一絡げで扱える「基礎」のような部分はないでしょうか.
ここで経済学[*2]が用いる基礎が「人は”より満足しよう”として行動する」というものです.他の条件を一定にすれば,貧乏よりは金持ちが言い,つらいより楽な方がいい,気持ち悪いより気持ちいい方がいいというわけです.
こう書くと「なんだか経済学って卑賤な学問だな」と思われるかも知れない.実際,その程度の認識で経済学を批判する人もいる.でも,経済学は別に「金持ちは貧乏人より正しい」とか「つらい仕事には意味がない」なんて価値判断の話をしているんじゃないんです.客観的な「人生の目的」を探るのは大作業です.大作業すぎていつ答えが出るんだかわからない[*3].だから,とりあえずは「大問題を解決しないでも答えを出せる問題から優先的に処理していこうじゃないか」と考えているのです.
みんなの幸せのために毎日しかめっ面でを考えている……けれど具体的には何もしてくれない人,みんなのことなんてたま~にしか考えないけどとりあえずたまに寄付をしてくれる人がいたとき.どっちが「みんなのため」になっているでしょう.間違いなく後者じゃあないでしょうか.

■問題は制約付最大化

みんながみんな好き放題に満足度を高めていけるなら……なにも問題はありません.でも世の中そうは上手くできていない.ごく一部の例外を除くと,僕たちを満足させてくれるものは稀少です.要するに全員に好きなだけ配るほどには存在しない.そんなとき,「いいもの」を手に入れるためには,なんらかの対価が必要です.すると,僕たちの満足度追求は一定の制約の下に行わざるを得ない.
例えば,美味しいご飯を食べて満足しようと思えばお金を払わなきゃならない.お金を稼ぐためには働かなきゃならないけど,給料はその人の能力で決まってしまっています.1日は24時間しかいないので稼ぐといっても限度があります.能力を向上させるための学習や訓練だって時間というコストが必要です.
すると,僕たちの人生は「時間[*4]という条件の下で満足度を最大化する活動」とまとめることが出来ます.これでは話が大きすぎるというならば,僕たちの日常の行動は「現在の財産・能力という条件の下で満足度を最大化する活動」だというように言い換えても言い.これで,複雑に見えた人間の行動をある程度分析可能な形にまで整理できたというわけです.

■インセンティブと二つの方向

制約の下で満足度を上昇させていくと言う話をひとつひとつの選択と行動に反映すると,「費用より便益が高いことをして,便益よりも費用の方が高いようなことはしない」となります.これが,エコノミストがよく使う「インセンティブ」という単語の正体です.
経済学にはPositive Analysis(事実解明的分析)とNormative Analysis(規範的分析)という二つの方向があります.現代の経済学は現実の経済がどうなっているのか,様々な政策がどのような影響を持つかというポジティブ分析が主流です.ポジティブ分析では,人々は各々の制約の中でせいいっぱい満足度を追求しているという前提を用います.一方,ノーマティブ分析では「より満足するためにはどうすればよいのか」という問題が設定できる.その意味で,ノーマティブな分析は経営学的な発想を持っているといえます.
次回からしばらくは,ノーマティブな視点から経済学を使ってビジネスと日常をHackしていきましょう.

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※1 この種の思考停止は,時に「総合的な思考法」という美称を身に纏って登場します.結局は「世の中いろいろだ」という程度の話をいろいろとむつかしい単語で語ってお代を頂戴する便法に思えてしかたがないのですが,いかがでしょう.
※2 現在では経済学にとどまらず,多くの行動科学がこの方針を採用しています.
※3 「人生の意味」という大問題について(僕が思う)最も説得的な「答え」は,映画"Monty Python's Meaning of Life"(邦題『モンティパイソン:人生狂騒曲』)で提示されています.ぜひ一見されることをお勧めします.
※4 正確には時間と親などから譲り受ける財産を使って.


限界が交換を生み、交換が繁栄を生む

2007年9月24日


■出発点としての稀少性

経済学思考の出発点は6月11日のエントリでも紹介した「稀少性」です。稀少性というとすごく特殊な話のように感じてしまいますが、要するには「完全無料の時に世の中の人が欲しいと思う量の合計」が「この世に存在する量」より多いということ。入門書だとかで「経済学は稀少なものだけを対象にします」とさらっと書いてあるのを見たことがあるという人もいるかと思いますが……これってかなり重要なことだったりします。

第一に、「この世に存在する量」が「完全無料の時に世の中の人が欲しいと思う量の合計」よりも多いなら、そんなものについては時間をかけて考えてもしょうがないじゃないですか。好きなようにすればよいんです。お金はもちろんのこと服でも食べ物でも「限りがある」からどうしよう、こうしようって悩むわけです。そして稀少なものはお金とか商品とか形あるものだけではないですよね。例えば、時間なんてその代表です。陳腐な表現を使うと「時は金なり」ってわけです。体力だって何だって限りがある[*1]。

さて、どうも真面目に考える必要のあるものは稀少だ。全員が好きなだけってわけにはいかない。すると誰かに「君の○○を僕にくれない?」って言われたとき、なんの見返りもなく「いいよ」ってわけにはいかないでしょう。代わりになにかもらえないなら、それはちょっと……って思うわけです。

別にもらえるものは形あるものだけじゃない。「ちょっと時間いい?」って言われたこと(言ったこと)は誰にでもあると思いますが、このとき、自分の時間をだれかにあげる代わりにもらえるものはお金や商品じゃないコトも多いでしょう。その人との友情(?)であるとか、相手が上司ならその覚えがめでたくなることとかだったりします。

■交換が繁栄を生まざるを得ない理由

稀少なものが欲しいと思ったとき、それを持ってる人から譲り受けるためにはその代償が必要になる……というとなんだか高尚な話をしているみたいですが、要するに交換しないとブツは手に入らないという話です。稀少性は交換を生む。

ここで、注目して欲しいのは「交換がなにをもたらすか」という問題です。例えば、あなたがしている腕時計を、X氏が「俺のiPodと交換してくれない」と言ってきたとしましょう。Yesと答えたときのみ交換は成立します。ではYesと答える。つまりは交換が成立するための条件は何でしょう。

それはこの交換があなたにとって得なことです。例えば、あなたがちょうど「iPod欲しいな」と思っていたり、「この腕時計そろそろ飽きたな」と思っていたならば、この交換は得です。また、ここで「X氏に恩を売ってやろう」なんて場合も長い目で見て得だと考えるからこそ提案に乗っているわけです。なお、X氏にとってこの交換が得なのはいうまでもないですね(もし損だったらそんな提案はじめからしないでしょう)。

ここから交換に関する最重要命題が導かれます!

「交換が行われるならば、交換の当事者はともに得をしている[*2]」

もちろん、双方が得をしているからといって「同じくらい得をしている」とは限りません。X氏はあなたの腕時計を欲しくて欲しくて欲しくて……しかたがない状態、一方のあなたはまぁiPodの方がいいと言えばいいかなという程度だとしましょう。交換の結果、X氏は大幅に得をし、あなたはちょっとだけ得をすることになります。

これをもって「等価交換じゃない!」「不平等だ!」という批判があるようですが、ホントにそうでしょうか。交換は誰からも強制されたものではありません。なかには「他人が得をするのが許せない」という人もいるでしょうが、そういう人は(自分が当事者だったとしたら)交換を拒否すればよいだけのこと。このような嫉妬心を勘案しても、やはり「交換が行われるならば、交換の当事者はともに得をしている」のです。

取引の当事者双方が「よりよい状態」になっているのですから、交換は社会全体をよりよく、より豊かにしているということになります。経済学者はいつても自由な取引の重要性を強調します。だってみんなを幸せにしているんですから!

■よけいなお節介はやめてよね

自由な経済活動がみんなを豊かにするという話をすると、かならず指摘されるのが「発展途上国がどうだこうだ」「アフリカはどうのこうの」というお話しです。たしかに、先進国と途上国の一人当たり国民所得には大きな隔たりがあります。このような格差を問題視するという立場はわからなくはありません。

しかし、それって自由な交換活動(要するに貿易)のせいですか? 貿易をやめると改善する問題なんでしょうか? よくよく考えてください。途上国の国民、生産者は誰に強制されて貿易をやっているのでもありません。自分が得だから輸出・輸入取引をしているのです。もしかしたら、先進国の企業の方が「たくさん得」をしているのかもしれない。でも、それはSo What!?なお話しです。(嫉妬心まで含めて)納得ずくで行った交換に文句を言う権利は当事者以外のだれにもないとおもうのですが……。

もうひとつのあり得る批判は、最貧国の農作物を海外が高く買ってしまうから国内で食べるものがないという話。海外が高く買ってくれる……じゃあ高く買ってもらったことで得られた収入はどこへ行ったのでしょう。そうではなくて、一部の金持ちだけが豊かになって、食料価格が上がった最貧層はたべるものがないという話なのだといわれるかもしれない。(どうもこの手の話は事実関係自体が怪しい部分があるのですが)もしそれが真実だったとして、他国の国内再分配問題に口出しをする権利なんてあるんでしょうか。

さて、ここまでで「交換サイコー」「交換エライ」って部分は納得いただけましたでしょうか。なんたって双方納得済みの自発的な行動なんですから!……とこんだけ買いといていまさらなんですが、この思考法にはひとつとっても困ったところがあるんです。

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※1 限りがないものの代表はなんでしょう。以前のエントリでは、かつては水や空気がその代表だった(最近はそうでもないみたい)……形のないものでいうと人類愛とかも限りがないかも知れない(男女間の愛は結構制約がありそうですが)。愛について論理的に考えるのが難しいのは稀少性を満たしていないからかも知れないですね。
※2 損も得もしていない(ちょうど等価交換だ)というケースもあります。


問題は適切に分割されなければならない

2007年10月 1日


■交換はいつでも良いことなのか?

両者納得の上での交換は当事者双方の満足度を向上させます.だからたくさんの取引が行われるのがよいことだ……さて,これははたして普遍的な事実なんでしょうか? ここで先に結論.Yes.

しかし,交換が行われていてもどうも「よいこと」とは思えない様な事例もある.例えば,今日もどこかの中学校の体育館裏(って設定はちょっと古いか?)で「ぶん殴られたくなかったら金出せよ」ってな取引(?)が行われていることでしょう.交換・取引は別に金銭的なものじゃなくてもかまわない.これだって立派な「殴ること」と「金銭」の交換です.この取引によって,いじめっ子は金銭を得て,いじめられっ子は殴られないという便益を得ている.双方ともに交換によって状況が改善しているというわけだ[*1].

こんな取引も世の中を良くするんでしょうか? いじめや恐喝だけじゃない.パワハラだって奴隷貿易だって一種の「取引」ではある.こんなものまで含めて「両者納得の上での交換は当事者双方の満足度を向上させる! いつでもどこでもだ!」なんて結論しちゃうのはおかしいんじゃないの? と思う人が多いでしょう.

ここで,常識的に到達する結論は「いい取引と悪い取引がある」というもの.でも,これじゃあ話は何にも先に進んでくれない.一つ一つの取引について(それが自分の気にくわないなどの理由で)「それは悪い取引だ」なんていわれちゃったらかなわないですよ.「ケースバイケース」というと聞こえがいいですが,(ケースの定義が明確でない限り)これはたんなる思考停止に過ぎないんです.

そこで,拙著『経済学思考の技術』以来繰り返している思考のポイント.
問題は分割して考えろ
です.さきのいじめの事例をみても交換自体はどうも双方の満足度を上げている(いじめられる側にとっては不満足度を減少させている).じゃあ,悪い部分はなんなんだ? そうかの取引を「まずい」と感じさせている源泉は「暴力」の方なのだ.

こう考えると,「交換はイイ!」っていう思考法が保守できるだけでなく問題への対応法についても新たなアイデアを導くことが出来ます.学校にお金を持ってくることを規制したり,体育館裏を立ち入り禁止にすることはなんの対策でもない.この種の恐喝行為への対応は暴力への規制でなければ意味がないというわけ.

問題を分割して考えることが出来ないと,話題のコア(この場合,それがないと取引とは呼べないといった部分)ではないところに絡め取られて,それ以上の思考に進めなくなってしまいます.安直な文明批判など,問題を分割する習慣が身についていれば気にする必要なんて全くないような話は少なくないでしょう.

これで安心して,とにかく「交換サイコー」「交換エライ」っていう経済学的思考の出発点に立ってお話しが始められます.

■次はよりよい交換をする方法

というわけで,取引・交換を誉め称えてばかりいてもしょうがないですから,話を進めましょう.
交換はよい.得だ.そして得をするならもっともっと得をしたい[*2].では,得な取引っていうのはどんな取引でしょう.「(自分にとって)つまんないものを手放して,(自分にとって)いいものを手に入れる」ことができたならばとってもお得ですよね.こういう得な取引を「喰う」ためには,相手を選ばなきゃならない.そこで重要なのが,8月20日のエントリの自分とは価値観が離れている人を捜すことです.

とはいえ,取引相手の価値観まで考えながら日常生活を……というのも少々非現実的です.そこで,「(自分にとって)つまんないものを手放して,(自分にとって)いいものを手に入れる」を一言でまとめてみましょう……それが「費用抑えて便益伸ばせ」です.

こうまとめると「あたりまえすぎる……」と思われるかも知れない.でも,これって結構奥が深いお話しなんです.

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※1 もっとも,いじめに対して唯々諾々と従うことがいじめをエスカレートさせるので,いじめられる側にとっては損だという意見もあるでしょうが,これもふくめて「今,暴力から免れる」ことを選択している点を想起ください.
※2 稀少性に言及したときに,なんにでも限度がある……といいましたが欲望には限度がないかも知れません.


ローカルな話とグローバルな話

2007年10月 9日


■費用抑えて便益伸ばせ……

私たちは「より満足したい」と思って行動しています.そして企業は「より多くの利潤を得る」ことを目標に作られた組織です [*1].人生とビジネスを成功させる最も重要なコツが「費用を抑えて便益を伸ばす」ことに他なりません.

口で言うのは簡単ですが,では実際にどうやったら費用を抑えて便益を伸ばす……できることならば「便益-費用」が最大にすることが可能になるのでしょう.この問題の難しいところは,通常費用をケチると便益も低下してしまうし,もっと高い便益を得る時には費用もそれなりにかかってしまうところにあります.例えば,PCを買い換えるとき,新しい車を買うときを考えてみてください.

ビジネス書では「あらゆる選択肢を検討し,それぞれについてその損得を比較考量しろ」みたいなことが書いてあります.まぁ,これは正論ですね.もしそれが出来るならば,当然そうすべきです.さらに,このような選択肢のあぶり出しのためのHacksツールもたくさん解説されています.でも,「あらゆる選択肢」があらかじめわかっているコトってそんなに多いでしょうか.そして,「あらゆる選択肢」をリストアップし,比較考量するのが結構大変だという場合もあるでしょう.考えることにも機会費用というコストがあるのです.こんなときは視点を変えて「ちょっとはましな満足度を得る」ことに目標を下方修正してみましょう.

あなたは自宅のPCを買い換えようと考えているとします.たいていの人にとり,個人のPCを買い換えるのが「人生における一大事」ではありません.それほどたいしたことではない選択に関しては,あらゆる選択肢を検討し,それぞれについてその損得を比較考量することによって最善のPCを捜すことよりも選択肢の総覧とチェックのコストの方を重視すべき場合が多くなります.

こんなとき,ちょっとはましな満足度を得る思考法が「ちょっとずらして考えてみること」です.例えば,今購入を考えているPC(A)と同じ価格帯でちょっと高いPC(B)を調べてみる.少し高くなってもAよりBの方がいいということになったら,次はBをベンチマークにして,それと似た機能・価格帯のPCについて検討しましょう.これを何度か繰り返していくうちに,当初のベンチマークであるAとはかなり離れた選択肢に到達するかも知れません.そして,何番目(何十番目?)かのベンチマークであるXと似たようなPCはどれもXよりも劣っていることがわかったとします.このXこそがあなたがたどり着いた「ちょっとはマシな選択肢」というわけです.

このように具体的な例だとピンと来ない人もいるかもしれません.というよりも個々人はだれしも心の中で似たような葛藤を経て商品の購入を決めているといってよいでしょう.しかし,会社の中での企画検討や既存商品の改良といった複数の人間での検討が行われるときにはついつい見逃してしまいがちな手法なのではないでしょうか.

■世界の最高峰と無限の歩幅

このように「少しずらした代替案の中によりよいものがないので,とりあえずはそれがベターな選択肢だ」という思考法は,山登りに例えることができます.いつも登っていれば,より高いところに行ける.そして下ることしかできないならば,今立っているところはその周りではとりあえず一番高いところだ!というわけ.このようなとりあえずの最大はちょっと専門用語を使うとローカルな最大といいます.

もっともこの方法だと,箱根山がとりあえず世界で一番高い山だとか思ってしまいそうです[*2].それどころか,近所の公園の滑り台の上が世界最高峰なんてことにもなりかねない.そんなときにはもう少し歩幅を大きくして「現在位置よりも上」を捜せばよいということになります.歩幅がうんと大きければ富士山,もっと大きければエベレストにたどり着ける.ローカルな最大に対してエベレストはグローバル[*3]な最大です.しかし,どんどん歩幅を大きくする……つまりはあらゆる選択肢を検討するにはコストがかかる.ここで問題は元に戻ってしまいます.

このように,ローカルには最善の行動であっても,より広い視野で……つまりはグローバルには最善じゃないというケースはたくさんある.さらに,産業全体の問題や一国経済の問題について全ての選択肢を調べるてグローバルな最善案を捜すというのは大変すぎる.こんなとき,状況を改善するにはどうしたらよいのでしょうか?

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※1 企業について「より多くの利潤を得るために行動している」と書かなかったのにはワケがあります.企業は人間ではない……そして企業を動かすのは人間.そして企業を構成している人間は「企業の利潤が最大になる」ことよりも自分自身が「より満足したい」と思って行動しているのです.
※2 都内の人にしかわからない話ですいません.箱根山というと温泉で有名な神奈川の箱根の方が有名ですが,山手線の内側では新大久保の近くにある箱根山(標高44.6m)が最も高い山なのです.
※3 グローバルとかローカルって言っても別に地球規模のとかそういう意味ではないです.ある点の周りで……というのをローカル,全ての選択肢の中で……というのをグローバルと呼んでいるだけなのでご注意下さい.


罠にはまるも一興、抜け出すのも一興

2007年10月15日


■荒野の暗闇で

あなたは身の回り数メートルを照らし出すに過ぎないランタンを持って、深夜の漠々たる荒野をさまよっています。朝には急に河川が増水し、小高い丘の上を除いて水没してしまう……くらいうちにあなたは「少しでも高いところ」に居所を定めておかなければなりません。どうしたらよいでしょう?
いまよりも少しでも高いところに行けばよい。ランタンが照らす範囲のなかで最も高いところに移動しましょう。そしてまた、ランタンの範囲で最も高いところを捜す。これを繰り返しているうちに「ランタンの照らす範囲」では現在位置よりも高いところは無いという状態になる。そこがローカルに「一番高いところ」です。
しかし、せっかくローカルな最大点は夜が明けてみると大した高みではないかも知れない。朝になって周りをはっきりと見渡すことができたならそこは周りよりはちょっとは高いと言うだけで水を防ぐのには全く役に立たない。結果あなたはおぼれ死んでしまうかも知れない。
この逸話を聞いて、ローカルな最大を探し求めることが無意味でちっぽけな話だ……と考えるのは安直でつまらないことではないでしょうか。
もちろん朝になって視界が広がれば、確実に水を防げる山の位置はわかる。でも、それでは間に合わないんです。そしてランタンの範囲を拡大する方法はいまのところありません。ならば!あなたが生き残る確率を最大にするにはローカルな最大化を実行するしかないのではないでしょうか。
ローカルな最大を目指す人が愚かなのは、グローバルな最大が見えているにもかかわらず、ローカルな最大にとどまりつづけている場合のみにおいてです。

■無限の視野にかわるもの

グローバルな最大を目指すために最も望ましいのは探索範囲を広げることです。ランタンの光を強くする、前回の例で言えば歩幅を大きくすること……もしも探索範囲が無限大ならば、当然グローバルな最大を目指すことができます。
「教養を身につけろ」とか「視野を広げろ」という話をみなさんも耳にたこが出るほど聞かされて来たと思います。その意味は、最大化のための探索範囲を拡大しろと言うことなのではないでしょうか。
しかし、視野を広げるというのはなかなかに難しい。こういうのはどうも個人的な資質なんかにも依存するでしょうから、訓練だけではどうにもならないことがありそうだ。そんなとき、もう一つの方法が初期値を変えてみることです。
荒野では現在の位置からワープして別の場所から最大値の探索を始めることは出来ませんが、私たちの日常生活やビジネスにおける選択についてはそれは難しいことではありません。
直観的に思い浮かんだパソコンからちょっとずつ「ずらし」て、ローカルの意味で最も良いパソコンを購入する。たたき台となるビジネスプランを「微調整」して、ローカルベストな企画案を導く。これらの行動によって、グローバルにはたいしたことのない、「最終案」に到達するのを防ぐためには、「ちょっとずらしてよりよいところへ」出発点となる「直観的に思い浮かんだパソコン」「たたき台」を思い切って変えてみることです。そして、ことなる初期値から出発しても結局はおなじ最終案に到達するのなら、それはかなりの広い範囲で最善の案であると言って良いでしょう。
実は、経済モデルのコンピューターシミュレーションではこれと同じような思考法が多用されます。その際の出発点として、よく用いられるのが「直近の現実のデータ」と「極端に大きな(小さな)データ」です。ビジネスの世界であれば、これに加えて前例や他社の実施例なども出発点の候補になるでしょう。
日々の意思決定の際にはついつい、実際の自分の立ち位置から最大化するのみで満足してしまいがちですが、時には極端な候補や理想化されすぎて到底実現不可能なたたき台から出発してみてはどうでしょうか。


そろそろ「実感」より「現実」を見ませんか?

2007年10月22日


いいかげんウザイと言われそうですが、一応お題目のように繰り返しましょう……私たちは自分の置かれた状況を制約条件として自身の便益が最大になるように行動(制約付最大化行動)します。だって、だれだって幸せになりたいですもんね。経済学者はいとも簡単に「経済主体は制約付最大化行動する」って言ってくれちゃいますが、そう簡単なことでもないようで……特に自分が置かれている状況を正確に把握するのはなかなかに難しいそうだし。

■重要さと体感の反比例

どう行動したらよいか、どのように選択を行ったらよいか……その時に大きな導きとなるのが経験です。状況把握においても、過去にくりかえし経験したことのあるものならばそうは難しくはない。しかし、大変困ってしまうことに「重要なことほどその経験回数が少ない」というところです。繰り返し出くわす、要するにルーチンになりがちな状況ってのはそんなに重要な局面じゃないことが多い[*1]。その一方で、自分の人生を左右するような選択の機会はそうは多くない(毎日が生きるか死ぬかという過酷な人生を生きている人もいるかもしれませんが)。にもかかわらず私たちの認識を左右するのは(回数の面で圧倒的に多い)小さく、そして繰り返される選択の経験です。
最近これを実感させるニュースが、ありました。自身のブログでも取り上げた話なので繰り返しになってしまいますが、最近の物価動向に関してです。
最近、ガソリンや日用品の価格が上昇していることにはみなさんお気づきのことと思います。その一方で、様々な商品の平均的な価格動向を表す消費者物価指数はいまだ前年比で(わずかながら)低下しています。これをもって、「物価指数は現実を表していない」「統計には表れないが現在はすでにインフレ状況である」ってな話がマスコミで喧伝されているようです。
これは、人生がどうのってほど大げさな話じゃないんですが、まさに小さな経験と大きな選択の不突合の問題。
まずは経済統計に不案内な人のために消費者物価を簡単に説明しましょう。現在の消費者物価指数は平成17年[*2]の価格を基準にしています。物価指数を作成するためには、平成17年時点で平均的な家計が買ったものの合計金額を調べます(実際には約8000世帯の平均)。そして現在の物価は「平成17年に買ったものを今月買うと当時の何倍かかるか」という視点で指数化される。例えば、平成17年と同じ種類・量のものを買うのに今だと1.2倍かかるとしたらその間に物価指数は20%上昇したと考えるわけです。また平成17年と同じ買い物をするのに去年は100万円、今年は99万円かかるとしたら年間のインフレ率はマイナス1%です。
さて。物価指数が理解できたところで、現在日本でおきている状況……ガソリンや生鮮食品の価格は上昇しているが、物価指数は下がっているというのはどういう状況なのでしょう。平成17年と同じ量のガソリンや食品を買うのに必要な金額は上昇しています。しかし、それよりもその他の財を買うために要される金額は低下している。つまりは、トータルで見ると平成17年と同じ買い物をするために必要な金額は減っているということになります。
同じだけの満足度を得るために要される金額が減少しているというのですから……これをインフレと呼ぶのはおかしいですよね。

■「実感」ってなんなんでしょう

同じ満足度を得るために必要なコストが低下している……にもかかわらずなんとなく物価が上昇して生活が苦しいと感じるのはなぜでしょう。
第一の理由は、ガソリンや食品は週に何度も買うのに、衣料ならばせいぜい月1回、電化製品に至っては年に数回しか買う機会がないためでしょう。衣料や電化製品が安くなった分の方が「金額としては」大きい。しガソリンや食品を買う度に(毎日のように)「あ! なんか高くなっている」と感じる。その「感覚」が総コスト計算を狂わせてしまっているのです。小さな、そして繰り返される経験には大きな支配力があります。
この他にも、収入が減少していることとコストが上昇していることを混同しているということがあるかもしれません。小さな経験によって形成された実感から、実際の生活の苦しさを「コストが上がっている」ことと錯覚してしまうのです。
「実感」に支配されすぎては、正しい制約付最大化(とそれによってより幸福な生活を送ること)が不可能です。「実感だけで判断してはいけない」という点はビジネススキルとして極めて重要なことなのに、どうも「実感と現実が違うから現実の方を変えろ」という話になりがちなのはなぜなのでしょうか。

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※1 もちろんごく普段の業務こそが全ての基礎だ!ってなお説教もわからんではないですが、やっぱり考え込んでなんとかしなきゃならない問題はそう多くはないと思います。
※2 要するに2005年基準なんですが、なぜか官庁統計の世界では元号で書くことになっています。63(昭和)の次が1(平成)になったりするので面倒。なお、本来以下の話は支出シェアの調査をするのですが、理屈は同じなので簡単化して説明しています。