「典韋」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「典韋」(2023/01/11 (水) 22:52:49) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
#image(left,DianWei-sango-face.gif,float,title=こっちみんな)
&sizex(7){&font(b,i,brown){「んぁあ!!」}}
#clear
#image(left,DianWei.gif-win.gif,float,title=うおぉおおおぉおおああぁぁぁ!!!)
&b(){典韋}(てんい、ピンイン: Dian Wei(ディェン・ウェイ)? - 197年)は、
中国の後漢末に曹操に仕えた人物。陳留郡已吾の人。字(あざな)は伝わっていない。
#clear
主に曹操の護衛として活躍した武将だが、その護衛期間はわずか3年ほどであり三国志初期に戦死してしまった。
そのため活躍場面は少ないのだが、個人戦闘力では[[許褚]]や[[呂布]]などと共に「三国志で一番」とまで言われている。
この三者では呂布より典韋と許褚の方がワンランク上か?というところだが典韋は早死にしてしまっただけでなく、
親衛隊は役職上呂布ほど前線に出ない事もあり、はっきりと誰が最強だったかははっきりと決められない。
しかし後の世でエピソードが追加、誇張されて伝えられる武将は少なくないが、
典韋と許褚はその必要が無いくらい最初から強者だったと伝えられていた。
最初は張邈に仕え、誰も持ち上げられることができなかった牙門の旗を片手で持ちあげた。
[[夏侯惇]]に見出され配下となり、たびたび戦功を挙げ、司馬となった。
堂々とした体格で力もずば抜けて強く、「大双戟」や「短戟」という武器を愛用していた。
ちなみに彼の持っていた大双戟は八十斤(約20kg)もある一種のハルバードであり、
槍の側面に二つの刃が付いているからとも、それを両手に一本ずつ持って振り回していたからとも。
また若い頃、知り合いの劉氏のために町の顔役である李永とその妻を殺し、
白昼堂々市場を歩いたが誰も捕まえるどころか、近づく事すらなかったという。
こんな男がいる限り曹操の暗殺なんてまず無理な話であり、曹操陣営には裏切り者が少なかったという。
しかし張繍征伐に参加し、降伏した張繍が謀反を起こした時、曹操を逃がすべく部下と共に死にもの狂いで戦い、殉職。
この時の典韋は恐ろしい強さであり、手に握る大双戟を振るう度に敵の矛はバキバキ折れ、
(恐らくは出血と負傷により)大双戟が持てなくなるや、敵の矛にも怯まず腰の剣で大暴れしたという。
#image(Dian_Wei_Qing_illustration.jpg,left,float,width=200)
そして、ついに部下を全員失い全身至る所に傷を負い、
体から血を噴き出しながらも敵に突進し、敵兵二人を両脇に挟んで絞め殺した。
更に突進して数人を殺し、相手が近づけずに居る中、
敵を睨み付け、大声で罵倒しながら息絶えたと、正史に残る。
冷静になって考えてみると、典韋は瀕死の状態でありながら、
自分を殺しに死に物狂いで襲ってきた兵士&b(){二人}を、
&b(){それぞれ片方の腕で、二人まとめて絞め殺した}事になる。
これは成人男子を、
低く見積もっても&b(){子供扱い出来る程の腕力}が無ければ不可能であり、
典韋が三国時代最強の候補に挙げられる理由の一つである。
まぁ腕っぷしだけで単純に強さが決まるわけでもないが……。
#clear
なお、張繍が謀反を起こした原因は、彼の伯父(?)の未亡人に目をつけた曹操が、無理矢理自分の愛人にしてしまい、
その事を張繍が恨んでいると知った曹操は張繍を暗殺しようとしたが、逆に張繍にバレてしまい反逆されてしまった、というもの。
しかも、この戦では曹操の甥(曹安民)に&b(){長男}(曹昂)まで戦死しており、
先に亡くなっていた長男の生母に代わり長男を養育していた曹操の正室(丁夫人)は、余りの成り行きに激怒、曹操と&b(){離婚}してしまった。
曹操本人は&b(){息子より典韋の死を悲しんでいた}。自重しろ人材コレクター。
ちなみにこの後、曹操は本妻の下に謝りに向かった。これは当時としてはかなり珍しい事だったりする。&s(){結局許してもらえなかったけどね}
『三国志演義』においては、当初は張邈の配下であったが他の者と衝突して殺人を犯して山中に逃亡。
虎を追いかけていたところを夏侯惇に見出され推挙されるという形で曹操に仕えている。
その怪力から曹操に「古の悪来&link_anchor(*1){*1}のようである」と言われている。
また黄巾の残党を捕らえようとしたところに[[許褚]]が現れて身柄を争っている。
そして最期にして最大の見せ場である宛城の脱出では、張繍側の策によって愛用の双戟を盗まれたものの、
敵から武器を奪ったり素手で蹴散らす事で活躍し、曹操を逃がす事に成功。
典韋本人は弓兵部隊の一斉射撃を受けるという、壮絶な死を遂げた。
『[[三國無双>真・三國無双]]』シリーズでは3D格闘ゲームだった初代からの古参であり、シリーズを通して&s(){ハゲ}[[スキンヘッド>アースクェイク]]で厳つい。
強面な顔つきや粗暴な口調、シリーズを通して[[世紀末]]な服装とは裏腹に忠節を人一倍重んじる人物である。
史実の都合上、残念ながらストーリーにおいて彼が登場できる戦場は少なめ(一部作品では条件付で本来の死後の年代の戦場に参戦する事はある)。
ちなみに使用武器に関してだが、何故かなかなか双戟を持たせてもらえなかった
(まあ、『4』までは孫堅の武器である古錠刀を周瑜が使用していたり劉備が双剣使いじゃなかったりしたので…)。
『4』までは[[ハンドアックス>デス=アダー]]と[[ガントレット>ナインハルト・ズィーガー]]を装備しており、
大きくシステムやキャラ武器が変更された『5』では、何故か[[鉄球>チャン・コーハン]]を装備する事になった。
ちなみに『4』では[[馬超]]と同郷ながら後に魏に仕えて[[関羽]]と死闘を繰り広げた龐徳が双戟を装備している。『5』では何故か[[張遼]]が双戟使いに…。
『6』以降では相変わらず斧が得意武器ではあるものの、武器を自由に持ち替えられるようになったが、
双戟は双''鉞''に変更された(鉞は斧のことであり、戟とは別物)。DLCや後の作品では短戟が追加されたのでようやく史実通りに出来る…のかもしれない。
----
**格闘ゲームにおける典韋
1993年に台湾の「熊猫軟體股扮有限公司(Panda Entertainment)」によって制作されたPCゲーム、
『[[SangoFighter>SANGO FIGHTER]](正式名『三國志 武將爭霸』)』、および1995年に発売された続編の『SangoFighter2(『武將爭覇2』)』に登場。
----
***MUGENにおける典韋
『武將爭覇2』の韓国語版を元に、General Chicken氏が製作したものが存在。
海外サイト「Mugen Storehouse」内の「Old Mugen Storehouse」というコーナーにて氏の他の武将達とセットで代理公開されていたが、
サーバーに問題が発生したらしく、現在は正規入手不可。
//なお、公開場所は「Old Mugen Storehouse」というコーナーなのだが、ハングル表記のサイト故に少々分かりにくいので注意。
//検索すればすぐ分かるとは思いますが
半裸であるのと掛声その他諸々の理由で&b(){非常に暑苦しい}キャラ。
[[サイ>ラファエロ]]の様な武器…に見えるが、恐らくは前述の双戟を両手に持ち、それを振り回して攻撃するキャラクターで、
かなりの長いリーチを持つ。[[そりゃあ戟持ってるから仕方ないしな。>○○だからしょうがない]]
両手を広げ飛びあがる[[必殺技]]に至っては&b(){画面の約半分を覆う}。そりゃあ戟(ry
何気に[[運送技>ニコMUGENの二次創作ネタ#運送技]]も持っている。
通常のバトルはもちろん、タッグなどの乱戦時にも非常に厄介な存在となるだろう。
#image(DianWei-双戟の舞い.gif,title=俺の美しき舞をとくと見よ!!)
// そういう理由なので、ファイル名を変更しておきました。
***出場大会
-[[色々なキャラで色々する大会]](耐久バトルアタッカー)
#list_by_tagsearch_cache([大会],[典韋],sort=hiduke,100)
''削除済み''
#list_by_tagsearch_cache([削除済み大会],[典韋],sort=hiduke,100)
#co(){
''更新停止中''
#list_by_tagsearch_cache([更新停止中大会],[典韋],sort=hiduke,100)
''凍結''
#list_by_tagsearch_cache([凍結大会],[典韋],sort=hiduke,100)
}
----
&aname(*1,option=nolink){&color(red){*1}}
悪来(あくらい/おらい)は殷末時代の官僚。殷の紂王に仕えた。
暴君紂王の下で讒言などの傍若無人な振る舞いをした事から諸侯に嫌われ、殷周革命が促進。
悪来も牧野の戦いで周軍に討たれた。
怪力の持ち主としても知られており、後年『三国志演義』における典韋のあだ名に使われた。
ここでもう一度確認してほしいのが上記の悪来の経歴。
簡単に言えば「暴君の太鼓を持つ佞臣」「忠義を尽くして戦死」「怪力」で、
後ろ二つは典韋にも当てはまるのが分かりやすいが、注目してほしいのは最初の「暴君の太鼓を持つ佞臣」。
[[徐晃]]の[[脚注*2>徐晃#*2]]に詳しいが、羅貫中が著したとされる『三国志演義』は、
それまでの「蜀=善玉、魏=悪玉」とする民間の説話や講談などの流れを汲んで書かれた通俗歴史小説である。
……ここまで書けば言わんとする事が分かるかもしれないが、
「典韋=悪来」とする事で「曹操=紂王」と、暗にほのめかしてるようにも見えるのだ。
悪来自体も、上記のように怪力であると同時に悪人とも伝えられており、その名をあだ名にするのは、
現代で例えるなら「まるで[[ナッパ]]みたいだ!」「[[ザーボン]]の再来のようだ!」的なイメージである。
我々の視点からすれば少なくとも褒め言葉ではないだろう。
とはいえ、士大夫(インテリ層)である羅貫中が大衆向けの通俗小説として、
正史における典韋の事跡をある程度貶めつつも華やかに書き出すための材として歴史書から悪来を引用したのは、
学の無い庶民だけでなく、学のある士大夫にも受ける、
つまり「分かりやすい話でありつつ、故事を用いる事でインテリの知識披露にもうってつけ」
という話の作り方であり、良くも悪くも広い層に話を広げるのに役立ったと思われる。
羅貫中の知識の引き出しの多さと例えの妙な上手さが窺える。
&i(){(以上、ニコニコ大百科: 「典韋」について語るスレより一部引用・改変)}
----
//タグ管理用スペース(タグを変更した時は内容をこちらにコピペ上書きしてください)
//半裸,中国人,ヒゲ,筋肉
#image(left,DianWei-sango-face.gif,float,title=こっちみんな)
&sizex(7){&font(b,i,brown){「んぁあ!!」}}
#clear
#image(left,DianWei.gif-win.gif,float,title=うおぉおおおぉおおああぁぁぁ!!!)
&b(){典韋}(てんい、ピンイン: Dian Wei(ディェン・ウェイ)? - 197年)は、
中国の後漢末に曹操に仕えた人物。陳留郡已吾の人。字(あざな)は伝わっていない。
#clear
主に曹操の護衛として活躍した武将だが、その護衛期間はわずか3年ほどであり三国志初期に戦死してしまった。
そのため活躍場面は少ないのだが、個人戦闘力では[[許褚]]や[[呂布]]などと共に「三国志で一番」とまで言われている。
この三者では呂布より典韋と許褚の方がワンランク上か?というところだが典韋は早死にしてしまっただけでなく、
親衛隊は役職上呂布ほど前線に出ない事もあり、はっきりと誰が最強だったかははっきりと決められない。
しかし後の世でエピソードが追加、誇張されて伝えられる武将は少なくないが、
典韋と許褚はその必要が無いくらい最初から強者だったと伝えられていた。
最初は張邈に仕え、誰も持ち上げられることができなかった牙門の旗を片手で持ちあげた。
[[夏侯惇]]に見出され配下となり、たびたび戦功を挙げ、司馬となった。
堂々とした体格で力もずば抜けて強く、「大双戟」や「短戟」という武器を愛用していた。
ちなみに彼の持っていた大双戟は八十斤(約20kg)もある一種のハルバードであり、
槍の側面に二つの刃が付いているからとも、それを両手に一本ずつ持って振り回していたからとも。
また若い頃、知り合いの劉氏のために町の顔役である李永とその妻を殺し、
白昼堂々市場を歩いたが誰も捕まえるどころか、近づく事すらなかったという。
こんな男がいる限り曹操の暗殺なんてまず無理な話であり、曹操陣営には裏切り者が少なかったという。
しかし張繍征伐に参加し、降伏した張繍が謀反を起こした時、曹操を逃がすべく部下と共に死にもの狂いで戦い、殉職。
この時の典韋は恐ろしい強さであり、手に握る大双戟を振るう度に敵の矛はバキバキ折れ、
(恐らくは出血と負傷により)大双戟が持てなくなるや、敵の矛にも怯まず腰の剣で大暴れしたという。
#image(Dian_Wei_Qing_illustration.jpg,left,float,width=200)
そして、ついに部下を全員失い全身至る所に傷を負い、
体から血を噴き出しながらも敵に突進し、敵兵二人を両脇に挟んで絞め殺した。
更に突進して数人を殺し、相手が近づけずに居る中、
敵を睨み付け、大声で罵倒しながら息絶えたと、正史に残る。
冷静になって考えてみると、典韋は瀕死の状態でありながら、
自分を殺しに死に物狂いで襲ってきた兵士&b(){二人}を、
&b(){それぞれ片方の腕で、二人まとめて絞め殺した}事になる。
これは&b(){成人男子を低く見積もっても子供扱い出来る程の腕力}が無ければ不可能であり、
典韋が三国時代最強の候補に挙げられる理由の一つである。
まぁ腕っぷしだけで単純に強さが決まるわけでもないが……。
#clear
なお、張繍が謀反を起こした原因は、彼の伯父(?)の未亡人に目をつけた曹操が、無理矢理自分の愛人にしてしまい、
その事を張繍が恨んでいると知った曹操は張繍を暗殺しようとしたが、逆に張繍にバレてしまい反逆されてしまった、というもの。
しかも、この戦では曹操の甥(曹安民)に&b(){長男}(曹昂)まで戦死しており、
先に亡くなっていた長男の生母に代わり長男を養育していた曹操の正室(丁夫人)は、余りの成り行きに激怒、曹操と&b(){離婚}してしまった。
曹操本人は&b(){息子より典韋の死を悲しんでいた}。自重しろ人材コレクター。
ちなみにこの後、曹操は本妻の下に謝りに向かった。これは当時としてはかなり珍しい事だったりする。&s(){結局許してもらえなかったけどね}
『三国志演義』においては、当初は張邈の配下であったが他の者と衝突して殺人を犯して山中に逃亡。
虎を追いかけていたところを夏侯惇に見出され推挙されるという形で曹操に仕えている。
その怪力から曹操に「古の悪来&link_anchor(*1){*1}のようである」と言われている。
また黄巾の残党を捕らえようとしたところに[[許褚]]が現れて身柄を争っている。
そして最期にして最大の見せ場である宛城の脱出では、張繍側の策によって愛用の双戟を盗まれたものの、
敵から武器を奪ったり素手で蹴散らす事で活躍し、曹操を逃がす事に成功。
典韋本人は弓兵部隊の一斉射撃を受けるという、壮絶な死を遂げた。
『[[三國無双>真・三國無双]]』シリーズでは3D格闘ゲームだった初代からの古参であり、シリーズを通して&s(){ハゲ}[[スキンヘッド>アースクェイク]]で厳つい。
強面な顔つきや粗暴な口調、シリーズを通して[[世紀末]]な服装とは裏腹に忠節を人一倍重んじる人物である。
史実の都合上、残念ながらストーリーにおいて彼が登場できる戦場は少なめ(一部作品では条件付で本来の死後の年代の戦場に参戦する事はある)。
ちなみに使用武器に関してだが、何故かなかなか双戟を持たせてもらえなかった
(まあ、『4』までは孫堅の武器である古錠刀を周瑜が使用していたり劉備が双剣使いじゃなかったりしたので…)。
『4』までは[[ハンドアックス>デス=アダー]]と[[ガントレット>ナインハルト・ズィーガー]]を装備しており、
大きくシステムやキャラ武器が変更された『5』では、何故か[[鉄球>チャン・コーハン]]を装備する事になった。
ちなみに『4』では[[馬超]]と同郷ながら後に魏に仕えて[[関羽]]と死闘を繰り広げた龐徳が双戟を装備している。『5』では何故か[[張遼]]が双戟使いに…。
『6』以降では相変わらず斧が得意武器ではあるものの、武器を自由に持ち替えられるようになったが、
双戟は双''鉞''に変更された(鉞は斧のことであり、戟とは別物)。DLCや後の作品では短戟が追加されたのでようやく史実通りに出来る…のかもしれない。
----
**格闘ゲームにおける典韋
1993年に台湾の「熊猫軟體股扮有限公司(Panda Entertainment)」によって制作されたPCゲーム、
『[[SangoFighter>SANGO FIGHTER]](正式名『三國志 武將爭霸』)』、および1995年に発売された続編の『SangoFighter2(『武將爭覇2』)』に登場。
----
***MUGENにおける典韋
『武將爭覇2』の韓国語版を元に、General Chicken氏が製作したものが存在。
海外サイト「Mugen Storehouse」内の「Old Mugen Storehouse」というコーナーにて氏の他の武将達とセットで代理公開されていたが、
サーバーに問題が発生したらしく、現在は正規入手不可。
//なお、公開場所は「Old Mugen Storehouse」というコーナーなのだが、ハングル表記のサイト故に少々分かりにくいので注意。
//検索すればすぐ分かるとは思いますが
半裸であるのと掛声その他諸々の理由で&b(){非常に暑苦しい}キャラ。
[[サイ>ラファエロ]]の様な武器…に見えるが、恐らくは前述の双戟を両手に持ち、それを振り回して攻撃するキャラクターで、
かなりの長いリーチを持つ。[[そりゃあ戟持ってるから仕方ないしな。>○○だからしょうがない]]
両手を広げ飛びあがる[[必殺技]]に至っては&b(){画面の約半分を覆う}。そりゃあ戟(ry
何気に[[運送技>ニコMUGENの二次創作ネタ#運送技]]も持っている。
通常のバトルはもちろん、タッグなどの乱戦時にも非常に厄介な存在となるだろう。
#image(DianWei-双戟の舞い.gif,title=俺の美しき舞をとくと見よ!!)
// そういう理由なので、ファイル名を変更しておきました。
***出場大会
-[[色々なキャラで色々する大会]](耐久バトルアタッカー)
#list_by_tagsearch_cache([大会],[典韋],sort=hiduke,100)
''削除済み''
#list_by_tagsearch_cache([削除済み大会],[典韋],sort=hiduke,100)
#co{
''更新停止中''
#list_by_tagsearch_cache([更新停止中大会],[典韋],sort=hiduke,100)
}
''凍結''
#list_by_tagsearch_cache([凍結大会],[典韋],sort=hiduke,100)
//***出演ストーリー
----
&aname(*1,option=nolink){&color(red){*1}}
悪来(あくらい/おらい)は殷末時代の官僚。殷の紂王に仕えた。
暴君紂王の下で讒言などの傍若無人な振る舞いをした事から諸侯に嫌われ、殷周革命が促進。
悪来も牧野の戦いで周軍に討たれた。
怪力の持ち主としても知られており、後年『三国志演義』における典韋のあだ名に使われた。
ここでもう一度確認してほしいのが上記の悪来の経歴。
簡単に言えば「暴君の太鼓を持つ佞臣」「忠義を尽くして戦死」「怪力」で、
後ろ二つは典韋にも当てはまるのが分かりやすいが、注目してほしいのは最初の「暴君の太鼓を持つ佞臣」。
[[徐晃]]の[[脚注*2>徐晃#*2]]に詳しいが、羅貫中が著したとされる『三国志演義』は、
それまでの「蜀=善玉、魏=悪玉」とする民間の説話や講談などの流れを汲んで書かれた通俗歴史小説である。
……ここまで書けば言わんとする事が分かるかもしれないが、
「典韋=悪来」とする事で「曹操=紂王」と、暗にほのめかしてるようにも見えるのだ。
悪来自体も、上記のように怪力であると同時に悪人とも伝えられており、その名をあだ名にするのは、
現代で例えるなら「まるで[[ナッパ]]みたいだ!」「[[ザーボン]]の再来のようだ!」的なイメージである。
我々の視点からすれば少なくとも褒め言葉ではないだろう。
とはいえ、士大夫(インテリ層)である羅貫中が大衆向けの通俗小説として、
正史における典韋の事跡をある程度貶めつつも華やかに書き出すための材として歴史書から悪来を引用したのは、
学の無い庶民だけでなく、学のある士大夫にも受ける、
つまり「分かりやすい話でありつつ、故事を用いる事でインテリの知識披露にもうってつけ」
という話の作り方であり、良くも悪くも広い層に話を広げるのに役立ったと思われる。
羅貫中の知識の引き出しの多さと例えの妙な上手さが窺える。
&i(){(以上、ニコニコ大百科: 「典韋」について語るスレより一部引用・改変)}
----
//タグ管理用スペース(タグを変更した時は内容をこちらにコピペ上書きしてください)
//得物には諸説ありますが、MUGENキャラに倣って二刀流という事で
//武将,半裸,二刀流,中国人,ヒゲ,筋肉