沖田 総司(おきた そうじ、天保15年(1844年)? - 慶応4年5月30日(1868年7月19日)
幕末に活躍した剣士であり、新選組一番隊組長。
幼名は惣次郎。本姓は 藤原家を称した。諱は春政、後に房良。
陸奥国白河藩の足軽の長男として江戸に生まれる。
9歳頃から、江戸市谷にあった天然理心流の道場・試衛館(近藤周助)の内弟子となり、剣才を発揮、若くして試衛館塾頭を務める。
同門には後の新選組の中核メンバーとなる近藤勇、土方歳三がいた。
その後、文久3年(1863年)の浪士組結成に参加して上洛する。浪士組分裂後は近藤らと共に京都に残留し、新選組を結成。
新選組近藤派として新選組初代局長・芹沢鴨の暗殺
(実は近藤勇は二代目局長であり、『クイズミリオネア』の最終問題で「新選組初代局長は誰」と出題された事もある。
挑戦者が歴女だったらしく瞬殺されたけど)、
新選組一番隊組長として大坂西町奉行所与力・内山彦次郎の暗殺、等の重要な任務をこなしたとされる。
しかし、 当時では不治の病である肺結核を発症(時期については諸説あり)、夭折する。
後世の創作と入り混じっているためその最期についても判別が付かない所はあるものの、
「新選組本隊と別れて江戸で療養中、近藤斬首の報を聞き、失意の中で黒猫を切ろうと狂乱し、そのまま死んだ」とされる事が多い。
ただこれについても近藤斬首の報を知らなかったとする説もあるため、やはり確かなものではない。
その剣の腕は、否定的見解はあるものの、おおむね肯定的な評価で占められている。
同じ新選組隊士の永倉新八は「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と弟子に語ったとされる。
そんな沖田の代名詞とも言える剣技に「三段突き」がある。
アニメや漫画等の創作では必殺技として必ずと言っていいほど登場するが、実際にはどんな技であったのか、そもそも史実なのかも不明。
(一般人が持つの幕末志士のイメージの大半が、
司馬遼太郎氏の 歴史小説『竜馬が行く(坂本龍馬)』『 萌えよ剣燃えよ剣(新選組/土方歳三)』等による 創作である)。
有名な池田屋事件にも近藤率いる第一隊として突入、二十人からの不逞浪士と交戦したが、沖田は早々に戦線離脱している。
吐血したとされる事が多いが、時期的にこの頃から結核を発症していたらとっくに死んでいるため、熱中症だと言われている。
そして同じく突入した永倉新八は手を切られて戦線離脱、藤堂平助もうっかり鉢金を外したら額を割られて戦線離脱しており、
結局土方隊が駆け付けるまで 近藤勇が一人で大暴れしてとにかくどうにかなんとかしたというのが事の顛末である。 ・・・・すごい虎徹だ。
一方、沖田の愛刀であった「加州清光」はこの池田屋事件で折れて破損、破棄してしまっており、
その代わりとして調達したのが名刀「 菊一文字則宗」である、とされている。
しかし菊一文字は大名ですらおいそれと所有できない国宝級の逸品であるため、
これは後世の創作か、仮に持っていたとしても十中八九偽物であったろうとする説が強い。
ただ伝えられる入手経緯は「京都の豪商が沖田を気に入って無償で譲り渡した」というものなので、
それが事実だとすれば、沖田が菊一文字や、それに匹敵する名刀を所持していても不思議ではないのかもしれない。
なおこの菊一文字は沖田も流石にめったに抜かず、死後は何処かの神社に奉納されたと伝えられている。
他、沖田の愛刀としては「大和守安定」も挙げられるが、いずれも現存はしていない。
「 病弱の天才剣士」と言うイメージから「 薄幸の美少女」ならぬ「薄幸の美青年」という描かれ方をされる事も多い沖田だが、
当時作られたと言う「新選組色男番付」では沖田は上位どころか名前さえ載っていない……つまり平均以下と言う評価である
(ちなみに横綱は土方歳三。本人が親族に宛てた「もてすぎて困る」と言う手紙も残っている)。
そもそも総司の容貌は後世には残っていない。
現在総司の肖像画とされているものは、姉ミツが孫の要を「総司にどこか似ている」と称した事から、
要をモデルに昭和4年(1929年)に描かれた想像図であって、本人を見て描いたわけではない
(上野の西郷隆盛像にも似たような話がある。
更に古い人物の肖像画だと別人説が大量に出て来ており、歴史教科書も新版を出す度に肖像画を消したり注釈を付ける事も)。
その肖像画でもヒラメ顔……早い話が不細工寄りであり、菩提寺に聖地巡礼として訪れた歴女達を絶句させ続けているそうだが、
繰り返しだがそもそも当人のものではない肖像画なので、これを指して沖田総司がヒラメ顔という方もおかしい事には留意されたし。
沖田家では総司の容姿について「色の白い、小さい男だった」という風に伝わっていると言う。
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