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>ガラフの世界と繋がっちった! アジア諸国は、東西の軍事ブロックを批判することで 国際社会でのし上がろうとした。 1953年、独立間もないインドのネルー首相は、東西どちらの軍事同盟にも属さないという 積極的名「非同盟」外交を展開。 第五福竜丸事件(日本の漁船が米の水爆実験に巻き込まれた) その翌月、コロンボ会議が開かれる。 セイロン(現スリランカ)の首都コロンボにインド・ビルマ・インドネシア・パキスタン等の首脳が終結。世界平和を呼びかけた。 次いでネルーは6月に中国の首相と会談。平和共存を含む平和五原則を発表。 1955年4月にはインドネシアのバンドンで東西陣営の緊張緩和を求める史上初のアジア・アフリカ諸国会議(&color(#F33){バンドン会議})が開かれた。 参加国はオブザーバとして参加した日本を含め、29カ国を数えた。 バンドン会議は、東西冷戦関係だけでなく、アフリカ植民地支配国にも衝撃を与える物になった。 植民地主義はクソクラエじゃ!という決議もなされた。 >-1957年、旧イギリス領地のガーナが独立を達成。指導者はエンクルマ。 >-1960年、カメルーンを皮切りに17の国が独立。 >これらのことから、1960年はアフリカの年と言われる。 **第三世界、台頭 アジア・アフリカの国々をフランス革命時の第三身分に例えて、第三世界の台頭と表現。 西側の先進資本主義国を第一世界、東側の社会主義国を第二世界と。 その第三世界の国々が国際政治をリードし始めた。 ネルー、スカルノの外交路線に、ティトーやエジプト大統領ナセルも積極的に参加。 1961年には第1回非同盟諸国首脳会議がベオグラードで開催。 第三世界の外交は世界から注目を浴びる。 米ソ両国はこれに焦りを感じた。 バンドン会議直後の1955年7月、米英仏ソ4国首脳はジュネーヴで会談を持ち、 東西対話の重要性について話し合った。 **KK時代 「ネルーが行こうとバンドン会議が世界を動かした」 1956年2月、ソ連共産党大会でフルシチョフは「平和共存」を外交路線とした。 沸き起こる第三世界の声を無視できなくなっていた。 米の共和党大統領アイゼンハウアーもこれに応える。 1959年、フルシチョフの訪米が実現。会談が持たれた。 これをきっかけに米ソは対立から共存への道をとるようになる。 60年代、アメリカ民主党大統領ケネディはこの路線を引き継いだ。 KennedyとKhrushchovでKK時代だお。 **キューバ危機 このKK時代は綱渡りの3年間だった。 1962年10月、アメリカの偵察機がキューバを空撮。 ソコに写っていたのは、建設中のソ連ミサイル基地だった。 キューバでは、1959年にカストロを指導者とする革命政府が誕生(キューバ革命) その後、ソ連と同盟関係を結んでいた。 ミサイル基地建設はアメリカの反キューバ政策に対抗する措置。 これにケネディが講義。 最悪の場合、米ソは核弾頭を搭載したミサイルで攻撃しあうのではないかと思われた。 ケネディは、アメリカがキューバを攻撃すれば、ソ連はベルリンに侵攻すると予測。 まさに世界全面戦争の危機だった。 結局、フルシチョフがキューバからミサイル基地を撤去することで米ソ関係は回復した。 10月16日~28日の13日間。この危機をキューバ危機という。 ホワイトハウスとクレムリンを直接結ぶホットライン協定や、部分的核実験停止条約の締結などはこのときの産物。 1963年11月、ケネディの暗殺によってKK時代は終わりを告げる。 **中ソ 社会主義同士で同盟を結んでいた中ソはどうなったのか。 スターリン死後に採用されたフルシチョフの平和共存路線や国際情勢の認識、革命のあり方を巡って中ソの関係は悪化していた。 朝鮮戦争で熱戦を展開した中国にしてみれば、アメリカは「侵略者」以外の何者でもなく、キューバのミサイル基地を撤去してまでアメリカと平和共存するのは許せなかった。 こうしたことを背景に毛沢東は「大躍進」の掛け声の下人民公社政策を推進。 行政、生産、教育、軍事を単位とするコミューン建設運動だったが大失敗。 1500万を超える餓死者を出した。(中国ざまぁwwwwwwwwwww) 責任を取らされた毛沢東は国家主席の座を劉少奇に譲るが、 権力欲旺盛な毛沢東は%color(#F33){プロレタリア文化大革命}を起こし、言論、思想、人権の弾圧。独裁など諸悪の時代を作り出した。 1969年、中ソ国境戦争。 毛沢東は「敵の敵は味方」とアメリカに接近。 共和党大統領ニクソンはキッシンジャーを補佐官に登用し、米中の関係改善を図った。 >1971年、国連の中国代表権を台湾の中華民国から北京の中華人共和国にする。 >1972年2月、大統領が訪中。米中国交正常化に向けて「上海コミュニケ」を発表。 >1972年6月、田中角栄も訪中。 >1978年、日中平和友好条約 >1979年、米中国交正常化。 >1980年、中ソ友好同盟相互援助条約は解消 日ー米ー中 のラインはこのときに出来た。
>ガラフの世界と繋がっちった! アジア諸国は、東西の軍事ブロックを批判することで 国際社会でのし上がろうとした。 1953年、独立間もないインドのネルー首相は、東西どちらの軍事同盟にも属さないという 積極的名「非同盟」外交を展開。 第五福竜丸事件(日本の漁船が米の水爆実験に巻き込まれた) その翌月、コロンボ会議が開かれる。 セイロン(現スリランカ)の首都コロンボにインド・ビルマ・インドネシア・パキスタン等の首脳が終結。世界平和を呼びかけた。 次いでネルーは6月に中国の首相と会談。平和共存を含む平和五原則を発表。 1955年4月にはインドネシアのバンドンで東西陣営の緊張緩和を求める史上初のアジア・アフリカ諸国会議(&color(#F33){バンドン会議})が開かれた。 参加国はオブザーバとして参加した日本を含め、29カ国を数えた。 バンドン会議は、東西冷戦関係だけでなく、アフリカ植民地支配国にも衝撃を与える物になった。 植民地主義はクソクラエじゃ!という決議もなされた。 >-1957年、旧イギリス領地のガーナが独立を達成。指導者はエンクルマ。 >-1960年、カメルーンを皮切りに17の国が独立。 >これらのことから、1960年はアフリカの年と言われる。 **第三世界、台頭 アジア・アフリカの国々をフランス革命時の第三身分に例えて、第三世界の台頭と表現。 西側の先進資本主義国を第一世界、東側の社会主義国を第二世界と。 その第三世界の国々が国際政治をリードし始めた。 ネルー、スカルノの外交路線に、ティトーやエジプト大統領ナセルも積極的に参加。 1961年には第1回非同盟諸国首脳会議がベオグラードで開催。 第三世界の外交は世界から注目を浴びる。 米ソ両国はこれに焦りを感じた。 バンドン会議直後の1955年7月、米英仏ソ4国首脳はジュネーヴで会談を持ち、 東西対話の重要性について話し合った。 **KK時代 「ネルーが行こうとバンドン会議が世界を動かした」 1956年2月、ソ連共産党大会でフルシチョフは「平和共存」を外交路線とした。 沸き起こる第三世界の声を無視できなくなっていた。 米の共和党大統領アイゼンハウアーもこれに応える。 1959年、フルシチョフの訪米が実現。会談が持たれた。 これをきっかけに米ソは対立から共存への道をとるようになる。 60年代、アメリカ民主党大統領ケネディはこの路線を引き継いだ。 KennedyとKhrushchovでKK時代だお。 **キューバ危機 このKK時代は綱渡りの3年間だった。 1962年10月、アメリカの偵察機がキューバを空撮。 ソコに写っていたのは、建設中のソ連ミサイル基地だった。 キューバでは、1959年にカストロを指導者とする革命政府が誕生(キューバ革命) その後、ソ連と同盟関係を結んでいた。 ミサイル基地建設はアメリカの反キューバ政策に対抗する措置。 これにケネディが講義。 最悪の場合、米ソは核弾頭を搭載したミサイルで攻撃しあうのではないかと思われた。 ケネディは、アメリカがキューバを攻撃すれば、ソ連はベルリンに侵攻すると予測。 まさに世界全面戦争の危機だった。 結局、フルシチョフがキューバからミサイル基地を撤去することで米ソ関係は回復した。 10月16日~28日の13日間。この危機をキューバ危機という。 ホワイトハウスとクレムリンを直接結ぶホットライン協定や、部分的核実験停止条約の締結などはこのときの産物。 1963年11月、ケネディの暗殺によってKK時代は終わりを告げる。 **中ソ 社会主義同士で同盟を結んでいた中ソはどうなったのか。 スターリン死後に採用されたフルシチョフの平和共存路線や国際情勢の認識、革命のあり方を巡って中ソの関係は悪化していた。 朝鮮戦争で熱戦を展開した中国にしてみれば、アメリカは「侵略者」以外の何者でもなく、キューバのミサイル基地を撤去してまでアメリカと平和共存するのは許せなかった。 こうしたことを背景に毛沢東は「大躍進」の掛け声の下人民公社政策を推進。 行政、生産、教育、軍事を単位とするコミューン建設運動だったが大失敗。 1500万を超える餓死者を出した。(中国ざまぁwwwwwwwwwww) 責任を取らされた毛沢東は国家主席の座を劉少奇に譲るが、 権力欲旺盛な毛沢東は&color(#F33){プロレタリア文化大革命}を起こし、言論、思想、人権の弾圧。独裁など諸悪の時代を作り出した。 1969年、中ソ国境戦争。 毛沢東は「敵の敵は味方」とアメリカに接近。 共和党大統領ニクソンはキッシンジャーを補佐官に登用し、米中の関係改善を図った。 >1971年、国連の中国代表権を台湾の中華民国から北京の中華人共和国にする。 >1972年2月、大統領が訪中。米中国交正常化に向けて「上海コミュニケ」を発表。 >1972年6月、田中角栄も訪中。 >1978年、日中平和友好条約 >1979年、米中国交正常化。 >1980年、中ソ友好同盟相互援助条約は解消 日ー米ー中 のラインはこのときに出来た。

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