会談と内容を把握しておこう(by問題集)
  • 1939年8月 独ソ不可侵条約
  • 1939年9月 第二次世界大戦勃発。
    • ドイツがポーランドに侵攻。イギリス・フランスが宣戦布告。
  • 1940年6月 イタリア参戦。ドイツ優勢に便乗した。 が、役立たずだった。
  • 1941年6月 独ソ戦開始。
    • ソ連のバルカン半島制圧が引き金。ドイツが不可侵条約破棄。
  • 1943年11月 テヘラン会談。英・米・ソで北フランス上陸の協議。
  • 1945年2月 ヤルタ会談。英・米・ソでドイツ処理、ソ連の対日参戦を協議⇒決定。
  • 1945年5月 ドイツが無条件降伏。
  • 1945年7月 ポツダム会談。英・米・ソでドイツの管理問題、日本の降伏、戦後日本の管理方針を協議。
  • 1945年8月 原爆投下。日本降伏。戦争の終結。

ドイツの暴走…の入り口

1933年1月、ドイツでナチスが政権を獲得。
ワイマール憲法(1919)の民主共和政は消えていく。

1930年代、ドイツ国民の国内外に対する不満は強くなった。
⇒第一次世界大戦による不況、失業、賠償金問題、屈辱的なヴェルサイユ条約

ヒトラーは、民衆の不満を吸収し、政権の座についた。
(不況、失業は軍事分野で大量に雇用することで解消。)
⇒1933年3月には全権委任法を制定、独裁体制を敷いた。

イタリアにも独裁体制が。

一方でイタリアにも独裁体制が。
第一次世界大戦後の経済混乱がきっかけ。民衆の不満は社会党・共産党に向いた。

1922年、反共産グループが政権獲得の武装デモを起こす(ローマ進軍)
指導者はムッリーニ。国王は社会混乱の収束を彼に期待、政権を任せた。

ムッソリーニは「ファシズム(全体主義)」を掲げた。
ファシズムの特徴は、反共産主義と異常な国家主義にある( ex)ナチス )

ドイツ、覚醒

1936年、ヒトラーはロカルノ条約を破棄、ラインラント進駐を行う。
英仏の反発が予想される、危険な賭けだった。
…が、英仏からは何の反応もなく、ヒトラーはこれに味をしめ、東進を開始。

1938年、オーストリア併合。
続けて、ヒトラーはチェコに手を出すが、チェコが反発。
イギリス・フランスが仲介に入る。(1938年9月・ミュンヘン会議)
結果、ドイツ人が住むズデーデン地方をドイツ領とすることで合意。
イギリス・フランスはチェコを犠牲にし、侵略者を宥めることでヨーロッパの平和を維持しようとした(宥和政策)

しかし、これはヴェルサイユ条約を英仏が自分から潰すハメに。

英仏、沈黙

ヒトラーが反共産主義を掲げていたことはソ連と、自国内の革命運動を警戒する英仏にとって好都合だった。
そのせいで、ドイツが調子に乗っちゃった(´・∀・`)ノ

ドイツ、暴走

1939年3月、ヒトラーはチェコを併合。スロヴァキアを保護国に。
⇒チェコスロヴァキアの解体。

この勢いでヒトラーはポーランドを目指した。この時も、英仏は黙ったまま。
英仏に不信感を持ったスターリンは1939年8月、独ソ不可侵条約を結ぶ。
反ファシズムのソ連とファシズムのドイツが条約を結び、世界は驚いた。

第二次世界大戦、勃発

その9日後、ドイツはポーランドに侵攻。英仏は遂にマジギレ。
イギリス・フランスはドイツに対し宣戦布告。

しかし、勢いに乗っていたドイツは、1940年に次々とヨーロッパ各国を制圧。
ついにはフランスも制圧してしまう。
イギリスは、新首相チャーチルが徹底抗戦の構えを見せる。

1941年6月、ドイツ軍がソ連に侵攻。独ソ戦が始まる米英両国はソ連の支援。

1941年7月、日本軍が東南アジアの侵攻を決意。ヴェトナムを占領する。

1941年8月、米大統領ルーズベルトと英首相チャーチルは大西洋憲章を発表。
領土の不拡大、国際平和維持機構の再建に合意。(大西洋会談)

1941年12月、ヴェトナムを占領していた日本がイギリス領への上陸と同時にハワイ真珠湾を攻撃。
日本VS米英両国の戦いの幕が上がる。

1942年1月、ワシントンで連合国が結成。戦争は26カ国VS日独伊の戦い。
「民主主義VSファシズム」だと言われた。
⇒連合国=UnitedNations 戦後も続く「国際連合」だ。今では日独伊も居る。

1943年、アメリカから武器貸与を受けたソ連はスターリングラードの戦いで勝利。
各地でドイツ軍を撃破、東ヨーロッパの制圧へ向かう。

1943年9月、イタリアが降伏。裏切ったドイツが北から攻め込んだことで、
イタリアで反ファシズム運動が高まった。連合国と組んでドイツと戦うことに。

1945年2月、ソ連のクリミア半島で、米英ソによるヤルタ会談が開かれる。
会談の内容は冷戦の起点となった。
米→ソ連の対日参戦要求
ソ→千島・樺太の占領、大連の租借権などを要求

1945年4月、米ソは東西よりドイツを挟撃。ドイツは翌5月に降伏する。
残る「敵国」は日本のみ。

一方、アメリカではルーズベルトが4月に病死。後任はトルーマン。
ヤルタ会談の中身を知ったトルーマンはプンスカ。
トルーマン「ソ連、ちょっと調子に乗りすぎ」

1945年7月、ポツダム会談が開かれる。
トルーマンはソ連に対して強い態度を取った。
対日戦争にソ連は要らない。日本はアメリカだけで占領する。

そして、日本無条件降伏のポツダム宣言が米英中の三国によって発表される。
アメリカは、ソ連無しで日本を倒す自信があった。
ニューメキシコ州での原爆実験成功の知らせが、トルーマンに届いていたからだった。

1945年8月6日、8月9日と原爆が投下される。

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾
日本は敗戦し、第二次世界大戦は終結した。
最終更新:2008年06月05日 22:04