EU、発足

1952年、フランス外相シューマンの呼びかけで「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」が発足。
1957年、ヨーロッパ経済共同体
1958年、ヨーロッパ原子力共同体が発足。

この3つの共同体が統合され、
1967年、EC(ヨーロッパ共同体)ができた。

  • 「国家は違えど、経済的なつながりをもとに巨大な市場を作ろう!」

1980年代、EC加盟国が12ヵ国になると、各国の通貨を廃止してヨーロッパ単一通貨を作ろう。
ヨーロッパ議会を設立して政治統合を図ろうとする考えが出た。

1992年、マーストリヒト条約(ヨーロッパ連合条約)にてECはEUになった。

第一段階として、中央銀行を設立。1999年までに単一通貨「Euro」を発行することに。

1995年、オーストリア、フィンランド、スウェーデンが加盟。
2004年、さらに加盟国が増加。全ヨーロッパを包み込む規模に発展。

プラハの春

1968、チェコスロヴァキアで「共産党行動綱領」が発表される。
社会経済改革を一気に推し進めるプランだった。

指導者トプチェクによるこの改革はプラハの春と呼ばれ、
言論、出版、報道の自由を始めとする民主改革となって現れた。

ところが、東ドイツとポーランドの両指導者は影響の波及を恐れ、
ソ連共産党書記長ブレジネフに「プラハの春」を中止させるよう迫った。

1956年、スターリン批判がフルシチョフによって出された時、
東欧で民主化運動が盛り上がった。このとき、ソ連軍はハンガリーに侵攻。
首相を連行の後、殺害するという事件があった。(ハンガリー事件)

トプチェクはこのハンガリー事件から10年経ち、時代も変わった。
ソ連軍は来ないだろうと予測していた。

しかし、人の夢とは儚いモノ。
1968年8月20日、14万5000のワルシャワ条約機構軍がチェコ全土に侵入。
首都プラハはあっという間に陥落する。
⇒ソ連軍はトプチェクを連行。直後、「プラハの春」中止が出される。

チェコ侵攻は、ソ連が東欧の民族的自由と民主主義を認めないことを再確認させる事件となった。

ブレジネフは社会主義全体の利益は一民族国家のそれよりも優先させるべきという制限主権論を説き、侵攻への批判をかわそうとした。

ヴェトナム戦争

一方で、アメリカも1964年のトンキン湾事件をきっかけに、
統一運動から内戦へ発展したヴェトナム戦争に介入。

ヴェトナムは1954年のジュネーヴ休戦協定で北緯17度線で南北に分断した国。
首都サイゴンの南政府はアメリカの反共産支援外交に支援されてきた。

1960年、共産指導者ホー・チ・ミンが指導する北ヴェトナムとひとつになろうとする運動が南ヴェトナムの民衆で高まった。
その動きを南ヴェトナム政府が弾圧。内戦へと発展した。
最終更新:2007年04月15日 13:44