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「天条院沙姫の帰宅」(2008/10/12 (日) 15:34:12) の最新版変更点
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<p><br />
最初は綾で、次は凛、最後は運転手だった。<br /><br />
たちの悪い風邪に、付き人が次々と倒れていった結果、<br />
今日、天条院沙姫は、一人で学校へ行くことになった。<br /><br />
「心配は無用ですわ、ゆっくり休養なさい」<br /><br />
そう伝えるように言い置いて、沙姫は意気揚々と屋敷の門を出たが、<br />
小鳥のように軽やかに、とはいかなかったのは、ドレスのせいである。<br /><br />
丈の長いドレスに白いパラソル、という装いは、彼女のお気に入りで、<br />
長いまつ毛や、大きな目、縦に巻いた金髪が、よく映えるのであった。<br /><br />
以前にも、この衣裳で登校したことがあったが、今日それを選んだのは、<br />
あるいは、他の生徒の間に埋もれるのを嫌った、彼女のプライドの表れか。<br /><br />
何にせよ、仰々しいドレスが現れても、クラスメイトは驚かなかったし、<br />
先生たちは匙を投げていたし、下級生の風紀委員と出くわすこともなかった。<br /><br />
午前の授業が終わり、昼休みには購買部でメロンパンを買ってみたりして、<br />
午後の授業ともなれば、すっかり寛いで、やがて終業のチャイムが鳴った。<br /><br />
「ホーホホホ! 何てことありませんわ!」<br /><br />
沙姫は、誰に聞かせるともなく、満足そうな高笑いを響かせた。<br />
初めてのお使いをやり遂げた子供のような、無邪気な笑顔だった。<br /><br />
そして、学校の門を後にした。<br /><br />
と、ここで終われば、本当に何てことなかったのである。<br />
しかし、不幸にして沙姫は、天気予報を見る習慣を持っていなかった。<br /><br />
シトシト………… ザ――――――――――――――――――――――――ッ!<br /><br /><br /><br />
「もう、最悪ですわ……」<br /><br />
沙姫は、歩道に沿って植えられた、街路樹の下に立っていた。<br />
葉をすり抜けて落ちてくる雨つぶが、パラソルを叩いて震わせる。<br /><br />
灰色の塀が続いている、お屋敷街の旧道。<br /><br />
5分後には、パラソルだけでなく、沙姫の肩も怒りで震えていた。<br /><br />
(晴れ女クイーンと呼ばれた、この私が、こんな目に遭うなんて!)<br /><br />
その時、雨の音にまぎれて、自動車のエンジン音が聞こえてきた。<br />
黄色いタクシーが、空車のランプも鮮やかに、こっちへ向かってくる。<br /><br />
沙姫の目が輝いた。<br /><br />
流しのタクシーには慣れていないが、そんなことは言っていられない。<br />
喜び勇んで、街路樹の下から飛び出して―――― そのまま、飛び出し過ぎた。<br /><br />
キキ――――――――――――――――――――――――ッ!<br /><br />
「きゃっ!」<br /><br />
パパパ――――――――――――――――――――――――ッ!<br /><br />
クラクション。<br />
パラソルが宙を舞う。<br />
タクシーが走り去る。<br />
へたり込む白い影。<br /><br />
そして―――― 雨の音が戻ってきた。<br /><br />
沙姫は、身じろぎもせずに座り込んだまま、雨に打たれていた。<br /><br />
ひどい運転手だ、というような考えは、不思議と頭に浮かばなかった。<br />
水しぶきを浴びたドレスの胸が、じんわりと滲んでいるのが感じられる。<br />
湿り気は、手袋とストッキングを通して、下のほうからも這い上がってくる。<br /><br />
大きな目から涙がこぼれた。<br /><br />
その時である。<br /><br />
「……天条院センパイ?」<br /><br />
見ると、彩南高校の制服―――― 結城リトが、傘を持って立っていた。<br /><br /><br /><br />
リトは学校の帰り、父親に頼まれた画材を買いに、隣町へ足を延ばして、<br />
目当てのものは見つけられず、その代わりに、沙姫を見つけたのである。<br /><br />
とりあえず、濡れ鼠の沙姫を助け起こして、相合傘で歩き出したものの、<br />
沙姫の屋敷は遠く、リトの家はさらに遠く、どうにもならない状況で、<br />
タクシーを拾おうとしたら、沙姫が嫌がって、本当にどうにもならない。<br /><br />
「……あそこで休みましょう」<br /><br />
沙姫がパラソルの先で指したのは、雨に煙る小さな洋館だった。<br /><br />
近づいてみると、門柱に銀のプレートが嵌め込まれている。<br />
飾り文字のアルファベットで、レストランという一語が読めた。<br /><br />
「店の中では、結城、と呼びます」<br />
「へ?」<br />
「よろしくって?」<br />
「あ、はい、別にいいですけど……」<br /><br />
木製のノッカーを叩くと、扉が開いて、黒服を着た男が頭を下げた。<br /><br />
「しばらくね」<br />
「お久しゅうございます」<br />
「支配人を」<br />
「かしこまりました」<br /><br />
やがて、銀色の髪をなでつけた男が出てきて、慇懃な挨拶をした。<br /><br />
「今日は突然のお越しで」<br />
「散歩の途中で、この雨でしょう」<br />
「災難でございましたね」<br />
「肝心の付き人は、頼りにならないし」<br /><br />
そう言って沙姫は、リトのほうを見た。<br />
その目には、何か必死なものが感じられた。<br /><br />
「……申し訳ございません、沙姫様」<br /><br />
と言って、リトが頭を下げると、沙姫の目に安堵の色が浮かんだ。<br /><br />
「いいのよ、結城、慣れないうちですものね」<br /><br />
銀髪の支配人の案内で、いくつかの廊下を通り過ぎた。<br /><br />
そして、支配人が自ら開けてくれたドアには、横文字が刻まれていて、<br />
小さな文字だったが、かろうじて、プライベート・ルーム、と読めた。<br /><br /><br /><br />
白い壁紙に、色の褪せた金模様、木の出た部分も白く塗られていて、<br />
茶色とも緑色ともつかない厚地のカーテンが、床まで下がっていた。<br /><br />
テーブルや椅子、彫刻の施された木製の衝立も、上等なものなのだろう。<br />
正面の壁には、小さな暖炉が切られていて、火が赤々と燃えていた。<br /><br />
支配人が下がると、入れ替わりに、黒服を着た女が入ってきて、<br />
柔らかそうなタオルと、緋色のガウンを、リトに差し出した。<br /><br />
「あ、どうも……」<br /><br />
リトが受けとると、女は一礼して下がり、ドアが閉められた。<br />
静まりかえった部屋に、暖炉の燃える音だけが聞こえていた。<br /><br />
「悪いと思ってますわ、付き人扱いして」<br />
「いや、別にいいですよ」<br />
「話を合わせてくれて、感謝しますわ」<br />
「格好がつかないですよね、付き人がいないと」<br />
「……」<br /><br />
――――そうではない。<br /><br />
付き人以外の男と、こんな部屋に入るのが問題なのである。<br /><br />
老舗のレストランはホテル並みに口が堅い、と言われているけれども、<br />
人の口に戸は立てられず、どんな噂が立つか、わかったものではない。<br /><br />
沙姫は小さくため息をついて、それからリトの目を見た。<br /><br />
「私、着替えますわ」<br />
「あ、はい」<br />
「どうぞ、ご自由になさって」<br /><br />
そう言って沙姫は、ドアの近くに置かれた車付きの台を指さした。<br />
コニャックの瓶や、水差し、グラスなどが、台の上に並べられていた。<br /><br />
「あの、オレは酒は……」<br />
「紅茶でも頼みましょうか」<br />
「あ、いや、結構です」<br />
「そう……」<br /><br />
沙姫は、タオルとガウンを受けとって、衝立の陰に消えた。<br /><br />
リトは手近の椅子に座って、ぐっと背もたれに身体をあずけた。<br />
高い天井を伝わって、かすかに衣擦れの音が聞こえてくる。<br /><br />
しばらくして、衝立から細い腕が伸びて、手招きをした。<br /><br /><br /><br />
「……何ですか?」<br />
「外れませんの」<br />
「何がですか?」<br />
「つまり、その、コルセットが……」<br />
「……」<br />
「……」<br />
「女の人を呼びましょうか?」<br />
「メイドを? 付き人がいるのに?」<br />
「そ、そんなこと言ったって……」<br /><br />
多少の押し問答のあと、リトは観念して椅子から立ち上がった。<br /><br />
(着替えを手伝ってもらうのに、慣れてるんだろうな……)<br /><br />
うつむいて衝立の陰に入ると、暗い床の上に白いものがあった。<br />
脱ぎ捨てられたドレスと、ペチコートと、何か柔らかそうなもの。<br /><br />
あわてて目を上げると、白いストッキングに包まれた脚があって、<br />
その上にガーターの皺が見え、下穿きが提灯のように膨らんでいる。<br /><br />
そして、肌着を押しつけるように腰に巻かれた、革のコルセット。<br /><br />
その上に胸の半分が見え、縦に巻いた金髪が垂れ下がっていて、<br />
金髪を辿っていくと―――― 案に相違して、真赤に染まった頬が。<br /><br />
「……何をジロジロ見てるんですの!」<br />
「す、すいません!」<br /><br />
あわてて目を背けると、沙姫はくるりと背中を見せて、<br />
コルセットの脇のところに、小さな結び目が六つあった。<br /><br />
平静を装って、一番下の結び目に手を伸ばし、ほどきにかかったが、<br />
こま結びに見えたのは、何かもっと複雑な結び方で、一向にほどけない。<br /><br />
結び目に爪の先を掛けて、引っ掻こうとした手が、つるりと滑った。<br /><br />
「キャアッ!」<br />
「わっ、ご、ごめんなさい!」<br /><br />
沙姫はかすかに身震いして、困惑したような表情でリトを見た。<br /><br />
「……し、信頼してますわよ、結城!」<br />
「ハ、ハイ、ご安心ください、沙姫様!」<br /><br /><br /><br />
で、結局のところ、リトはちゃんと信頼に応えたのである。<br /><br />
四苦八苦の末、コルセットが外れると、リトは衝立の外へ出た。<br /><br />
しばらくすると、沙姫は緋色のガウンに身を包んで現れて、<br />
その腕の中には、脱いだ衣裳のひと揃いが抱えられていた。<br /><br />
暖炉の前に、椅子を二つ横倒しにして、衣裳を並べて干すと、<br />
その物干し台の隣りに、膝を抱えるようにして座り込んだ。<br /><br />
「お掛けになったら?」<br />
「あ、はい」<br /><br />
と言っても、椅子を取られてしまったから、床に座るしかなくて、<br />
暖炉の前、物干し台をよけて、つまり、沙姫の隣りで膝を抱えた。<br /><br />
パチッ… パチッ… と薪の音がして、炎がゆらめいている。<br /><br />
炎に照り映えて、沙姫の端正な横顔が、ほの赤く染まっていた。<br />
緋色のガウンもますます赤く、そこから突き出た足の先に、影が宿る。<br /><br />
椅子の上で、ドレスや肌着が同じ色に染まっている―――― 下穿きも。<br /><br />
沙姫の両腕が、頭のほうへ持ち上がって、ガウンの袖が二の腕を滑った。<br />
それから、金色のお団子がゆれて、ふわりと落ちかかるように髪が広がる。<br /><br />
同時に、雨のような甘いような、湿った匂いが漂ってきた。<br /><br />
沙姫は椅子の端からタオルを取って、ほどけた髪をそっと拭きはじめたが、<br />
視線に気がついたのか、手を止めて、不思議そうにリトの顔を見た。<br /><br />
「何ですの?」<br />
「あ、いや、何でも」<br />
「おっしゃいな」<br />
「その、髪を下ろしたトコ……」<br />
「初めて見る?」<br />
「……いや、キレイだな、って」<br /><br />
沙姫は、たしなめるように微笑んで、それから大きく息を吸い込んだ。<br /><br />
「ホーホホホ!」<br /><br />
とってつけたような高笑いを響かせてから、また髪を拭きはじめる。<br /><br />
「……髪を結ばない女が、お好き?」<br />
「そ、そういうわけでは……」<br />
「ララも、結んでませんわね……」<br /><br /><br /><br />
髪を拭き終えると、沙姫はふたたび膝を抱えて、炎を見つめた。<br /><br />
「綾と凛は……」<br />
「え?」<br />
「ケダモノと呼びますわ、あなたを」<br />
「あはは……」<br />
「私も、そう思ってますけど……」<br /><br />
これまでの行状を考えれば、無理もない話である。<br /><br />
「でも、誤解だったかもしれませんわ」<br /><br />
沙姫は、覗き込むようにしてリトの目を見た。<br /><br />
「いつも発情してる、というわけでもないし」<br />
「は、発情って……」<br />
「少なくとも、女の子に化けた時なんて、ね」<br />
「へ? あ、いや、アレはですね……」<br />
「……今日のあなたは、紳士的でしてよ?」<br /><br />
そう言って、沙姫はニッコリと微笑んだ。<br /><br />
(か、かわいい!)<br /><br />
リトはドギマギして、あわてて言葉を探した。<br /><br />
「ほ、ほら、今日は忠実な付き人ですから!」<br />
「そうですわね……」<br />
「だから、変なことになるわけないですよ!」<br />
「……地球ではね」<br />
「へ?」<br />
「もし、あの方とララが……」<br /><br />
呆気にとられて沙姫の目を覗き込むと、瞳の奥に、何か――――<br />
沙姫の白い指先が、すうっと泳ぐように、リトの頬へ伸びてきた。<br /><br />
「……天条院センパイ?」<br /><br />
その言葉に、沙姫はハッとしたように手を引っ込めた。<br /><br />
「ごめんなさい! 今のは忘れて!」<br />
「は、はあ……」<br />
「私ったら、こんな考え方、卑しいわ!」<br /><br />
沙姫は、暖炉のほうへ向き直ると、両手で頭を抱えた。<br /><br /><br /><br />
火が燃えつきて、熾になる頃には、雨が止んでいた。<br /><br />
沙姫の衣裳は、まだ少し湿っていたが、かまわずに着込んでしまった。<br />
コルセットの紐をしめろ、と言われなかったので、リトはホッとした。<br /><br />
あんなに細い腰なのだから、軽く結んだだけでも変わらないのだろう。<br /><br />
支配人を呼び、挨拶を受け、ハイヤーを呼ぶのを断って、部屋を出る。<br />
黒服を着たボーイから、パラソルを受けとって、店の外へ出た。<br /><br />
雨あがりのアスファルトが、街灯に照らされて鈍く光っていた。<br />
夜風がひんやりとして、ひとつブルッと震えると、二人は歩き出した。<br /><br />
「あれ? 夜でも日傘を差すんですか?」<br />
「だって、髪がクシャクシャですもの」<br />
「こんな時間に、誰もいないでしょう……」<br /><br />
二人は肩を並べて、静まりかえった、夜のお屋敷街を歩いていく。<br /><br />
くしゅん!<br /><br />
小さなクシャミをして、沙姫は立ち止まった。<br /><br />
「風邪引いちゃいました?」<br />
「私、手袋ですから……」<br />
「え?」<br />
「手を貸してくださる?」<br /><br />
リトは笑って、沙姫のおでこに手のひらを当てた。<br /><br />
「……ちょっと、熱っぽいかな」<br />
「やっぱり……」<br />
「無理もないですよ」<br />
「その前に、綾と凛に伝染されてたかも」<br />
「ああ、なるほど」<br />
「そうだとしたら、あなたも危なくてよ」<br /><br />
そんなことを話しながら、二人は歩いて、沙姫の屋敷の辻まで来た。<br /><br />
「今日は、本当にありがとう」<br />
「いいえ、どういたしまして」<br />
「それでは、ごきげんよう……」<br /><br />
そう言って、沙姫は、屋敷の門のほうへ去っていった。<br /><br />
闇の中、クルクルと回りながら小さくなっていく、白いパラソル。<br />
その光景を、リトは身じろぎもせずに、見つめ続けていた。</p>