たそがれは逢魔が刻、という。べつに妙なものに出くわさなくても、魔が刺す、ということはあって、それが物憂い秋ならば、なおさらのことである。すでに日も暮れかかって、放課後の教室はオレンジ色に染まっていた。無人の机がズラリと並んでいる中に、ポツンと黒い影がひとつ。机に覆い被さるように、ぐったりとしている―――― 結城リトである。「はあ……」静まり返った空間に、ため息が溶けていく。リトは疲れていた。ララの妹たちが家に転がり込んできてから、心の休まる時がない。学校だけでなく、家でもあんな調子が続くのでは、たまったものではない。彼とても健全な男子であるから、四六時中、桃色の空気に包まれていると、危うく自制を失いそうになることもあるわけで、つまり、疲れるのである。そして今、ララを先に帰して、ひとりでボンヤリしているリトであった。そもそも、彼の日常に女の子が関わるようになったのは、最近の話で、トラブルに慣れてきたとは言いながら、根本のところは純情なままである。つまり、まともに女の子とつきあった経験がないのであるから、色気ばかりが供給されて、はけ口のない状態というのは、これは困る。リトは机に突っ伏したまま、もぞもぞと身体を動かした。廊下のほうに、足音が聞こえたかと思うと、ガラッと扉の開く音――――「あれ? 結城じゃん」のっそりと顔を上げると、テニス・ウェアに包まれた胸が歩いてくる。視線を上げると、ウェーブのかかった髪――――淡いベージュ色だったはずだが、夕暮れの光の中で、焦茶色に見えた。「籾岡か……」「何やってんの?」「べつに…… 籾岡は?」「部活。 終わったトコ」そう言って、リサは、リトの足元にスポーツ・バッグを放り出した。(そうか、籾岡もテニス部だったな……)ラケットの袋を肩から外して、となりの机に置くと、その机の上にヒョイと飛び乗るようにして、腰かける。(どうして、わざわざ、となりに座るんだ……)もともと、籾岡里紗は人懐っこいほうで、女子に対するスキンシップなど、常軌を逸しているが、女子がいなければ、話し相手は男子でもかまわない。リトもそれを知らないではなかったが、今は女子と話すのが疎ましかった。「元気ないじゃん」「そうか?」「ララちぃに振られたとか?」「あのな……」リサは、アハハと楽しそうに笑って、ぐっと伸びをした。リトは再び机に倒れ込んだが、顔はリサのほうに向けたままだった。スコートから伸びた太ももが、目の前にチラチラした。いつもなら、真っ赤になって取り乱しているところである。ところが、今日はそんな光景を目にしても、血液が這い上がってこない。ボンヤリと視線を上げると、リサが悪戯っぽくニヤニヤと笑っていた。(ああ、いつもの籾岡だ……)頭に浮かんだのは、それだけで、そのままリサのほうを見ていた。リサは不思議そうな顔をして、それから、大きく脚を組み替えた。アンダー・スコートがチラリと見えた。リトは身じろぎもせずに、リサの太ももの奥を睨んでいた。「ちょ、ちょっと、結城ィ?」「ん?」「いつまで、見てるワケ?」リサの頬が、かすかに赤く染まっていた。それで、リトも自分の置かれた状況に気がついた。宵闇せまる教室に、女の子と二人きり。からかったのを、真面目に受け取った―――― と思われている。まずい。 これはまずい。「ご、ごめん……」あわてて顔を背けて、反対側―――― 窓のほうを見る。窓ガラスに映ったリサの顔が、ニヤ~ッと崩れた。いつものリトに戻ったので、安心したのだろうか。「ちょうどいいや、そのまま、そっち向いてて」そう言ってリサは、ユニフォームのシャツの裾を、一気にたくし上げた。(なっ……)叫び声を上げそうになるのを、リトは必死でこらえた。窓ガラスに白いお腹が映って、それから、黒いブラジャーが目を奪う。「ん、ん~ん……」艶めかしい声と共に、シャツの襟が広がっていって、二の腕が持ち上がると、腋の下があらわになった。ひょいと頭が現れて、乱れた髪が、わさわさと揺れる。リサは、丸めたシャツを放り投げると、ふうっと息を吐き出して、こっちを見た。「ハイ、ここまで~」「へっ?」「コーフンしたァ?」細めた目に、弓を伏せたような眉、ニ~ッと笑っている口元――――自分のペースに引き込んだと見るや、すぐにリベンジとは、天晴れである。リトは真っ赤になって、席を蹴立てるように立ち上がった。「トイレ?」「バカ! オレは帰るよ!」そう叫んで、カバンをひっつかむ。リサを見ないようにして、荒々しく足を踏み出す。踏み出した先に、リサのスポーツ・バッグがあった。ガタ――――ン!!一瞬、何が起こったのかわからなかった。目の前の景色が、ガラリと変転する。机の天板を額縁のようにして、ふわあっと広がった髪。大きく見ひらかれた目、細い首すじ、むきだしの華奢な肩。黒いブラジャーのふくらみの上に、自分の手が乗っていた。――――柔らかい。柔らかいと言えば、こっちの脚がもつれたままのところに、からむように押しつけられた脚も、信じられないほど柔らかい。香水と、汗の匂いが混じり合って、むせ返るような空気。二人は身じろぎもせずにいた。遠く、チャイムが鳴り出す。キーン…… コーン…… カーン…… コーン……「……結城?」たぶん、リトの目つきが尋常ではなかったのだろう。リサの声は、かすかに震えていた。リトの手が、ぎゅっと縮むように、リサの胸に食い入る。「痛ッ!」ブラジャーの肩紐がねじれて、浮き上がる。リトは、その白い肩へ覆い被さっていった。「キャッ!」咬みつくように唇を寄せると、しっとりと汗ばんでいる。――――しょっぱい。「私に八つ当たりしないでよ!」その言葉で、リトはハッと我に返った。一瞬、腰が引ける。リサはパッと持ち上げるように、リトの身体を横に払いのけると、机の反対側に、転がり落ちるようにして逃れた。なるほど、力自慢のスポーツ・ウーマンである。向こう側で、机から落ちかかっているリト。こっち側で、椅子に身を預けるようにして、ひざまずいているリサ。二人とも激しく息を弾ませて、ものを言わなかった。やがて、リサはふらふらと立ち上がり、ずれたブラジャーを直した。屈み込んで、シャツを拾い上げると、手早く着込む。「あのサ、結城ィ……」「えっ、な、なに?」「そーとー溜まってんねェ」リサは乾いた笑い声を立ててから、ふいに生真面目な表情を浮かべて、ぐっと覗き込むようにして、リトの目を見つめた。「そんな扱い、私だってショックだな~」そう言って身を屈めると、リトの踏んづけたスポーツ・バッグを拾う。「あ、いや、籾岡、オレは……」ヒュッ、と喉元にラケットを突きつけられて、リトは黙った。「私、帰るから、悪いけど自分で処理して」「しょ、処理って……」「もしくは、家に帰ってララちぃに頼めば?」「バ、バカ!」ウヒョヒョ、と笑って去っていくリサは、いつものリサのようであった。遠ざかる足音も消えて、ふと気づけば、窓の外は闇に沈んでいた。次の朝、リトとララは、いつものように学校の門をくぐった。「どーしたの、リト、元気ないね」「いや、そんなことないって……」「そお?」ララは、いまいち納得がいかない様子で、首をかしげている。実際、リトの目の下には、ひどい隈ができているのであった。ホールの下駄箱の前で、籾岡里紗と沢田未央が追いついてきた。「あっ、リサミオだ、おっはよー!」「ヤッホー、ララちぃ!」「ん~、ララちぃ、今朝もノーブラですか~?」さっそくララの胸を揉みにかかる、リサミオであった。「きゃっ、あはは、くすぐったいよぉ!」ララの嬌声と、ミオのはしゃぎ声にまぎれて、リサの小声が飛んでくる。(結城ィ、隈なんか作っちゃって、昨夜はお盛んだったようだねェ)(バ、バカ、何言ってんだ、何もしてないよ、オレは!)(てゆーか、あんた今、私の顔見て、逃げようとしませんでしたァ?)(うっ!)(根性ナシ!)ミオが、気配に感づいたのか、こっちを覗き込んでくる。「リサ、結城と何話してんの?」「ナイショ!」「うひょー、アヤシイなー」「私と結城が? 冗談でしょ!」リサミオとララは、じゃれあったまま、転がるように廊下を歩いていった。ひとり残されたリトは、ふうっと息を吐き出して、それから、微笑んだ。いつもと変わらない、平穏な日常――――リトは、ララたちの後を追うように、ゆっくりと廊下を歩き出した。ところで、リトは気づかなかったけれども、ひとつ、いつもと違った点があった。それは、リサの制服の胸元に、ちゃんとリボンが結ばれていたということである。秋の空に、始業のチャイムが鳴った。キーン―――― コーン―――― カーン―――― コーン――――
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