最初は綾で、次は凛、最後は運転手だった。たちの悪い風邪に、付き人が次々と倒れていった結果、今日、天条院沙姫は、一人で学校へ行くことになった。「心配は無用ですわ、ゆっくり休養なさい」そう伝えるように言い置いて、沙姫は意気揚々と屋敷の門を出たが、小鳥のように軽やかに、とはいかなかったのは、ドレスのせいである。丈の長いドレスに白いパラソル、という装いは、彼女のお気に入りで、長いまつ毛や、大きな目、縦に巻いた金髪が、よく映えるのであった。以前にも、この衣裳で登校したことがあったが、今日それを選んだのは、あるいは、他の生徒の間に埋もれるのを嫌った、彼女のプライドの表れか。何にせよ、仰々しいドレスが現れても、クラスメイトは驚かなかったし、先生たちは匙を投げていたし、下級生の風紀委員と出くわすこともなかった。午前の授業が終わり、昼休みには購買部でメロンパンを買ってみたりして、午後の授業ともなれば、すっかり寛いで、やがて終業のチャイムが鳴った。「ホーホホホ! 何てことありませんわ!」沙姫は、誰に聞かせるともなく、満足そうな高笑いを響かせた。初めてのお使いをやり遂げた子供のような、無邪気な笑顔だった。そして、学校の門を後にした。と、ここで終われば、本当に何てことなかったのである。しかし、不幸にして沙姫は、天気予報を見る習慣を持っていなかった。シトシト………… ザ――――――――――――――――――――――――ッ!「もう、最悪ですわ……」沙姫は、歩道に沿って植えられた、街路樹の下に立っていた。葉をすり抜けて落ちてくる雨つぶが、パラソルを叩いて震わせる。灰色の塀が続いている、お屋敷街の旧道。5分後には、パラソルだけでなく、沙姫の肩も怒りで震えていた。(晴れ女クイーンと呼ばれた、この私が、こんな目に遭うなんて!)その時、雨の音にまぎれて、自動車のエンジン音が聞こえてきた。黄色いタクシーが、空車のランプも鮮やかに、こっちへ向かってくる。沙姫の目が輝いた。流しのタクシーには慣れていないが、そんなことは言っていられない。喜び勇んで、街路樹の下から飛び出して―――― そのまま、飛び出し過ぎた。キキ――――――――――――――――――――――――ッ!「きゃっ!」パパパ――――――――――――――――――――――――ッ!クラクション。パラソルが宙を舞う。タクシーが走り去る。へたり込む白い影。そして―――― 雨の音が戻ってきた。沙姫は、身じろぎもせずに座り込んだまま、雨に打たれていた。ひどい運転手だ、というような考えは、不思議と頭に浮かばなかった。水しぶきを浴びたドレスの胸が、じんわりと滲んでいるのが感じられる。湿り気は、手袋とストッキングを通して、下のほうからも這い上がってくる。大きな目から涙がこぼれた。その時である。「……天条院センパイ?」見ると、彩南高校の制服―――― 結城リトが、傘を持って立っていた。リトは学校の帰り、父親に頼まれた画材を買いに、隣町へ足を延ばして、目当てのものは見つけられず、その代わりに、沙姫を見つけたのである。とりあえず、濡れ鼠の沙姫を助け起こして、相合傘で歩き出したものの、沙姫の屋敷は遠く、リトの家はさらに遠く、どうにもならない状況で、タクシーを拾おうとしたら、沙姫が嫌がって、本当にどうにもならない。「……あそこで休みましょう」沙姫がパラソルの先で指したのは、雨に煙る小さな洋館だった。近づいてみると、門柱に銀のプレートが嵌め込まれている。飾り文字のアルファベットで、レストランという一語が読めた。「店の中では、結城、と呼びます」「へ?」「よろしくって?」「あ、はい、別にいいですけど……」木製のノッカーを叩くと、扉が開いて、黒服を着た男が頭を下げた。「しばらくね」「お久しゅうございます」「支配人を」「かしこまりました」やがて、銀色の髪をなでつけた男が出てきて、慇懃な挨拶をした。「今日は突然のお越しで」「散歩の途中で、この雨でしょう」「災難でございましたね」「肝心の付き人は、頼りにならないし」そう言って沙姫は、リトのほうを見た。その目には、何か必死なものが感じられた。「……申し訳ございません、沙姫様」と言って、リトが頭を下げると、沙姫の目に安堵の色が浮かんだ。「いいのよ、結城、慣れないうちですものね」銀髪の支配人の案内で、いくつかの廊下を通り過ぎた。そして、支配人が自ら開けてくれたドアには、横文字が刻まれていて、小さな文字だったが、かろうじて、プライベート・ルーム、と読めた。白い壁紙に、色の褪せた金模様、木の出た部分も白く塗られていて、茶色とも緑色ともつかない厚地のカーテンが、床まで下がっていた。テーブルや椅子、彫刻の施された木製の衝立も、上等なものなのだろう。正面の壁には、小さな暖炉が切られていて、火が赤々と燃えていた。支配人が下がると、入れ替わりに、黒服を着た女が入ってきて、柔らかそうなタオルと、緋色のガウンを、リトに差し出した。「あ、どうも……」リトが受けとると、女は一礼して下がり、ドアが閉められた。静まりかえった部屋に、暖炉の燃える音だけが聞こえていた。「悪いと思ってますわ、付き人扱いして」「いや、別にいいですよ」「話を合わせてくれて、感謝しますわ」「格好がつかないですよね、付き人がいないと」「……」――――そうではない。付き人以外の男と、こんな部屋に入るのが問題なのである。老舗のレストランはホテル並みに口が堅い、と言われているけれども、人の口に戸は立てられず、どんな噂が立つか、わかったものではない。沙姫は小さくため息をついて、それからリトの目を見た。「私、着替えますわ」「あ、はい」「どうぞ、ご自由になさって」そう言って沙姫は、ドアの近くに置かれた車付きの台を指さした。コニャックの瓶や、水差し、グラスなどが、台の上に並べられていた。「あの、オレは酒は……」「紅茶でも頼みましょうか」「あ、いや、結構です」「そう……」沙姫は、タオルとガウンを受けとって、衝立の陰に消えた。リトは手近の椅子に座って、ぐっと背もたれに身体をあずけた。高い天井を伝わって、かすかに衣擦れの音が聞こえてくる。しばらくして、衝立から細い腕が伸びて、手招きをした。「……何ですか?」「外れませんの」「何がですか?」「つまり、その、コルセットが……」「……」「……」「女の人を呼びましょうか?」「メイドを? 付き人がいるのに?」「そ、そんなこと言ったって……」多少の押し問答のあと、リトは観念して椅子から立ち上がった。(着替えを手伝ってもらうのに、慣れてるんだろうな……)うつむいて衝立の陰に入ると、暗い床の上に白いものがあった。脱ぎ捨てられたドレスと、ペチコートと、何か柔らかそうなもの。あわてて目を上げると、白いストッキングに包まれた脚があって、その上にガーターの皺が見え、下穿きが提灯のように膨らんでいる。そして、肌着を押しつけるように腰に巻かれた、革のコルセット。その上に胸の半分が見え、縦に巻いた金髪が垂れ下がっていて、金髪を辿っていくと―――― 案に相違して、真赤に染まった頬が。「……何をジロジロ見てるんですの!」「す、すいません!」あわてて目を背けると、沙姫はくるりと背中を見せて、コルセットの脇のところに、小さな結び目が六つあった。平静を装って、一番下の結び目に手を伸ばし、ほどきにかかったが、こま結びに見えたのは、何かもっと複雑な結び方で、一向にほどけない。結び目に爪の先を掛けて、引っ掻こうとした手が、つるりと滑った。「キャアッ!」「わっ、ご、ごめんなさい!」沙姫はかすかに身震いして、困惑したような表情でリトを見た。「……し、信頼してますわよ、結城!」「ハ、ハイ、ご安心ください、沙姫様!」で、結局のところ、リトはちゃんと信頼に応えたのである。四苦八苦の末、コルセットが外れると、リトは衝立の外へ出た。しばらくすると、沙姫は緋色のガウンに身を包んで現れて、その腕の中には、脱いだ衣裳のひと揃いが抱えられていた。暖炉の前に、椅子を二つ横倒しにして、衣裳を並べて干すと、その物干し台の隣りに、膝を抱えるようにして座り込んだ。「お掛けになったら?」「あ、はい」と言っても、椅子を取られてしまったから、床に座るしかなくて、暖炉の前、物干し台をよけて、つまり、沙姫の隣りで膝を抱えた。パチッ… パチッ… と薪の音がして、炎がゆらめいている。炎に照り映えて、沙姫の端正な横顔が、ほの赤く染まっていた。緋色のガウンもますます赤く、そこから突き出た足の先に、影が宿る。椅子の上で、ドレスや肌着が同じ色に染まっている―――― 下穿きも。沙姫の両腕が、頭のほうへ持ち上がって、ガウンの袖が二の腕を滑った。それから、金色のお団子がゆれて、ふわりと落ちかかるように髪が広がる。同時に、雨のような甘いような、湿った匂いが漂ってきた。沙姫は椅子の端からタオルを取って、ほどけた髪をそっと拭きはじめたが、視線に気がついたのか、手を止めて、不思議そうにリトの顔を見た。「何ですの?」「あ、いや、何でも」「おっしゃいな」「その、髪を下ろしたトコ……」「初めて見る?」「……いや、キレイだな、って」沙姫は、たしなめるように微笑んで、それから大きく息を吸い込んだ。「ホーホホホ!」とってつけたような高笑いを響かせてから、また髪を拭きはじめる。「……髪を結ばない女が、お好き?」「そ、そういうわけでは……」「ララも、結んでませんわね……」髪を拭き終えると、沙姫はふたたび膝を抱えて、炎を見つめた。「綾と凛は……」「え?」「ケダモノと呼びますわ、あなたを」「あはは……」「私も、そう思ってますけど……」これまでの行状を考えれば、無理もない話である。「でも、誤解だったかもしれませんわ」沙姫は、覗き込むようにしてリトの目を見た。「いつも発情してる、というわけでもないし」「は、発情って……」「少なくとも、女の子に化けた時なんて、ね」「へ? あ、いや、アレはですね……」「……今日のあなたは、紳士的でしてよ?」そう言って、沙姫はニッコリと微笑んだ。(か、かわいい!)リトはドギマギして、あわてて言葉を探した。「ほ、ほら、今日は忠実な付き人ですから!」「そうですわね……」「だから、変なことになるわけないですよ!」「……地球ではね」「へ?」「もし、あの方とララが……」呆気にとられて沙姫の目を覗き込むと、瞳の奥に、何か――――沙姫の白い指先が、すうっと泳ぐように、リトの頬へ伸びてきた。「……天条院センパイ?」その言葉に、沙姫はハッとしたように手を引っ込めた。「ごめんなさい! 今のは忘れて!」「は、はあ……」「私ったら、こんな考え方、卑しいわ!」沙姫は、暖炉のほうへ向き直ると、両手で頭を抱えた。火が燃えつきて、熾になる頃には、雨が止んでいた。沙姫の衣裳は、まだ少し湿っていたが、かまわずに着込んでしまった。コルセットの紐をしめろ、と言われなかったので、リトはホッとした。あんなに細い腰なのだから、軽く結んだだけでも変わらないのだろう。支配人を呼び、挨拶を受け、ハイヤーを呼ぶのを断って、部屋を出る。黒服を着たボーイから、パラソルを受けとって、店の外へ出た。雨あがりのアスファルトが、街灯に照らされて鈍く光っていた。夜風がひんやりとして、ひとつブルッと震えると、二人は歩き出した。「あれ? 夜でも日傘を差すんですか?」「だって、髪がクシャクシャですもの」「こんな時間に、誰もいないでしょう……」二人は肩を並べて、静まりかえった、夜のお屋敷街を歩いていく。くしゅん!小さなクシャミをして、沙姫は立ち止まった。「風邪引いちゃいました?」「私、手袋ですから……」「え?」「手を貸してくださる?」リトは笑って、沙姫のおでこに手のひらを当てた。「……ちょっと、熱っぽいかな」「やっぱり……」「無理もないですよ」「その前に、綾と凛に伝染されてたかも」「ああ、なるほど」「そうだとしたら、あなたも危なくてよ」そんなことを話しながら、二人は歩いて、沙姫の屋敷の辻まで来た。「今日は、本当にありがとう」「いいえ、どういたしまして」「それでは、ごきげんよう……」そう言って、沙姫は、屋敷の門のほうへ去っていった。闇の中、クルクルと回りながら小さくなっていく、白いパラソル。その光景を、リトは身じろぎもせずに、見つめ続けていた。
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