「ふぅ…… 昨日は親父の漫画の手伝いが、ハードだったからな~」
午後の授業が終わって、身体のだるいのを感じたリトは、保健室へ行った。
「すぐ元気になる、いい薬ない?」
「滋養強壮なら、こんなのがあるわ」
少しは学習しろ、と言いたいが、まぁ、それほど疲れていたということだろう。
******
「おつかれさまでした!」
という元気な声とともに、妹カフェの通用口が開いて、飛び出してきたのは、
髪をツイン・テールに結び、アンダー・フレームの眼鏡をかけた、沢田未央。
制服を着ているところを見ると、学校帰りに、直でシフトに入っていたらしい。
「さ~て、と……」
夕暮れの街を見回してから、視線を落とし、手首を反らして、腕時計を見る。
「ん~、寄ってこーかな、ひさしぶりに!」
「お~、よしよし、こっちおいで~」
と言いながら、未央は黒猫を一匹抱きあげると、満面の笑顔で頬ずりをした。
あたりを見れば猫だらけ、ペルシャ猫やシャム猫や、アメリカン・ショートヘア、
銀のコラットや、白足のバーマンが、わがもの顔で歩いている、猫カフェの床。
カフェで稼いだお金を、カフェに落としていこうなんて、ずいぶん粋なようだが、
特に気取るでもない未央は、猫の足をもてあそびながら、陽気に呼びかけた。
「猫ちゃ~ん、元気ィ?」
猫は、“ああ、はいはい、元気ですよ” というような顔をして、未央を見ている。
「にゃあ、って言ってみ?」
「……にゃあ!」
という男の声がうしろから飛んできて、振り返ると、制服姿のリトが立っている。
「へ? 結城? 何で?」
その質問には答えずに、リトは未央の肩に手をかけると、にっこりと微笑んだ。
「猫好きとは、知らなかったな……」
肩の上の手に、チラと目をやってから、未央はリトを見上げて、微笑を返した。
「こーゆートコ、結城も来るんだ? ちょっと意外かも……」
「ショウ・ウィンドウ越しに、キミの美しい笑顔が見えたから」
「美しい…… って、あんた何か悪いモノでも…… キャッ!」
膝の上の猫が粗相をして、未央の制服のスカートが、ぐっしょりと濡れていた。
若い店員は平謝りで、すぐにクリーニングをいたします、とか何とか言った。
持ってきた替えのスカートは、店の制服らしく、猫っぽい尻尾がついている。
「うーん、さすがにコレは、ちょっとな~」
「いや、カワイイじゃないか、キミなら似合う」
元来、コスプレに抵抗のない未央は、首をかしげながらも、控え室へ入った。
しばらくして、出てきたのを見ると――――
制服のブレザーに、猫の尻尾という取り合わせが、奇抜に映るはずなのに、
実際には、細い脚を引き立たせ、ツイン・テールと絶妙な調和を見せていた。
「ベスト! グレイト!! コングラッチュレィション!!!」
派手なジェスチャーで絶賛するリトを無視しながら、満更でもなさそうな未央。
店員にスカートを渡すと、2時間ほどお待ち願えますか、と呑気なことを言う。
「しょーがない、待つしかないかぁ……」
「暇つぶしなら、ボクにつきあってくれ!」
「えっ? ちょ、ちょっと! 結城!?」
リトはあわてる未央の肩をつかんで、強引に店の外まで押し出してしまった。
夜の街を、猫の尻尾を垂らした少女が、ジゴロもどきの少年に肩を抱かれて、
口論しながら歩いていく、という光景は、あまり見かけないものには違いない。
街の人々は、好奇に満ちた目を隠さなくて、未央の頬は真赤に染まっている。
「あのさ~、結城……」
「ん? 何だい、ハニー?」
「私に何か、ウラミでもあるわけ?」
「愛してくれない、キミのつれなさに……」
例によって、あさってのほうを向いたリトの答えに、未央は突然、立ち止まる。
「どうしたんだい?」
「歩き回るの、もうヤ!」
リトは意外そうな顔をして、未央の目を覗きこみ、ひじにふれ、腕をからめた。
「じゃあ、休んでいこう」
「どこで?」
「ホテルで」
「じょ、冗談でしょ!」
「おや、怖いのかい?」
「なっ…… あ、あのね~」
安い挑発だったが、未央の心は乱れて、ネンネと思われるのは恥ずかしいし、
リトなんかにバカにされるのはヤだし、里紗が知ったら、大笑いされかねない。
決然と顔をあげると、未央は頬を染めたまま、レンズ越しにキッ、とリトを見た。
「……い、いいよ、休むだけならっ!」
昔の赤線のあたりは、今はホテル街になっていて、派手な看板が目を引く。
堂々と歩いていくリトの半歩うしろには、堂々と見せようと必死の未央の姿。
赤い灯、青い灯が、夜露に濡れて、声を殺して黙々と、影を落として粛々と、
一帯をぐるりと回ってから、ホテル・ウッチーとかいう、大看板の下で止まる。
入口の前に立ち、横目で問いかけるリトに、未央は唇を噛んで、うなずいた。
二人は入っていく。
「申し訳ありませんが、制服でのご利用は……」
出てきた。
前方を向いたまま、未央は、ん~っと肩をすくめてから、一気に力を抜いた。
「あ~、もう! 恥ずかしかったっ」
「ハッハッハ、うっかりしていたね」
「笑いごとじゃないでしょーがっ!」
と未央は怒って、リトのとぼけた顔をひっかく真似をしたが、目は笑っていた。
「とにかく、フリダシに戻った~、ってことで、ね?」
空々しいほど明るい声で、未央は宣言すると、くるりと踵を返し、去ろうとした。
「いや、そうでもないさ…… あれを見てごらん」
と言って、リトの指さした先には、板塀に白い看板があって、墨痕あざやかに、
― ご商談 3500円 ―
木造の二階家は年季の入った、とうの昔に絶滅したはずの、連れこみ旅館だ。
「いらっしゃいまし!」
格子戸を開けたとたん、いがらっぽい女声が奥から飛んで、足音が響いてくる。
パッ、と顔を出した年寄りの仲居が、愛想笑いを浮かべて、丁寧に頭を下げる。
べったりとした闇の中に、木目だけが鮮やかで、未央は腰が引けてしまったが、
無様なこともできないから、靴を脱いで、尻尾を押さえながら猫のように上がる。
仲居のうしろにひっついて、やたらときしむ廊下を行き、鉄砲階段をのぼったら、
長い渡りのつきあたり、うやうやしくふすまの開けられた先は、窓のない四畳半。
「う、わぁ……」
部屋のほとんどの部分を、白いふとんが占めていて、硬そうな枕がふたつ並び、
枕もとには、赤いびいどろの笠をかぶせた電気スタンドや、お茶の盆が置かれ、
ふとんの足のほうには、ダイヤルのない黒電話と、浴衣の入った乱れ箱がある。
仲居は、リトから部屋代を受け取ると、すごいスピードで電気ポットを持ってきて、
「ごゆるりと……」
と言って、ふすまを閉めていき、足音が遠ざかって、四畳半は静寂につつまれた。
「とりあえず…… 脱いだら?」
「え、えっ!?」
「ブレザー、しわになるだろう?」
「あっ…… あ、そうだね……」
あわててボタンを外した未央が、肩先からすべらせたのを、リトが受け取る。
衣紋掛けに吊るして、鴨居に下げると、リトはふとんの上へあぐらをかいた。
「ハニー、座ったら?」
ちょこん…… と端っこに座った未央は、所在なげに視線を宙へさまよわせ、
リトと目が合ったりすると、急いで腕時計を見たり、畳をむしったりするのが、
実に古風で、そんな振舞いが本性なのか、場所のせいなのか判然としない。
リトは緑茶の筒を取って、急須に葉を入れ、電気ポットを手元に引き寄せる。
給湯口から熱湯が噴き、しらじらと湯気が立って、部屋の温度まで上がった。
「ねえ、ハニー、ボクは……」
「その、ハニーっての、やめて」
「じゃあ…… ミオ……」
「お、お茶! 出過ぎちゃうっ!」
リトは苦笑しながら、急須をかたむけて、ふたつの湯呑にお茶を注ぎ入れた。
それから、中腰のまま一歩動いて、ふとんから降り、未央の身体に近づいて、
ぴったりと寄り添うように手を取り、湯呑を持たせてやったのだが、次の瞬間。
ねずみが部屋を走った。
「キャッ!」
ばしゃっ……
「あつっ!」
「だいじょうぶかい?」
「う゛~」
「やたらと濡れる日だね」
乱れ箱の浴衣の下から、リトがちり紙を取ってやると、未央は懸命に拭いた。
「ねずみ、きらいなんだ?」
「わ、悪い?」
「猫のくせに、おかしいね」
そう言って、リトはごろんと横になり、スカートのうしろから伸びた尻尾の先を、
指でつまみあげて、なでたり、こすったりした挙句、かがみこんで、口づけた。
「うしろで、何してるの……」
リトは微笑んで、尻尾を離すと、スカートにくるまれた尻を、ちょいとつついた。
「浴衣にでも、着替えたら?」
リトは浴衣を手渡して、返事も待たずに、立ちあがって、電灯のひもを引いた。
闇につつまれて、澄みわたった空気の中、静かな衣擦れの音が聞こえ出した。
「いいよ……」
電気スタンドのスイッチをひねると、赤一色の光の中に、未央が立っていた。
古い地染まりの浴衣に、兵児帯を幅広に巻いて、内股に膝がしらを合わせ、
一方の手を衿に、もう一方を遊ばせて、うなじのおくれ毛の乱れているのが、
妙に色っぽく、頼りなげに見えて、膝を折って座るさまも、なかなかのものだ。
「メガネ、してなきゃいけないの?」
「えっ? べつに、そんなこと……」
「ちょっと、外した顔も見てみたいね」
リトは、赤く照っているレンズに手を伸ばし、フレームを支えて、そっと外した。
「いいね…… ミオ、カワイイよ……」
と言ったリトの声が、おそろしく優しかったので、未央は踏みとどまって考えた。
今日のリトは、どうかしている。
(どーせ、御門先生に一服盛られたとか……)
ならば、何があっても、あやまちで済むのかもしれないが、しかし、だからって、
「ひっ!」
ねずみが飛びこんだ。
「とってとってとってェ~!!」
「よしきた!」
リトの手が突っこまれ、ねずみは逃げていったが、手のほうが出ようとしない。
乱れるまま、うしろから抱えこまれた形で、あやういあたりに指がふれていた。
「は、はなしてよ……」
「はなしません」
「ひ、ひっかくよ!?」
リトは笑って、一方の手で未央の手首をとらえ、引き寄せて、爪の先を噛んだ。
振り返って、よろめき、あごを反らした未央の鼻に、リトの鼻がすりつけられて、
からみあった二人の手が、首のほうへ流れていき、白いのどを指がくすぐった。
「ねえ、ミオ……」
「何……?」
「にゃ、にゃあ……」
唇が近づくと、未央はまつ毛をふるわせ、目をつむって、リトの首に腕を回した。
コチコチという腕時計の音が、耳もとで大きく響いて、リトは目をパチクリさせた。
「……あれ!? 何やってんだ、オレ!?」
効き目が切れたのだ。
一瞬のうちに状況を把握した未央は、精一杯の力で、リトの身体を突き飛ばす。
「いてっ! さ、沢田!?」
「ひどいわ、こんな……!」
「えっ!?」
「とぼける気? あんなことしといて」
「へ!? あ、あんなこと、って……」
涙にうるんだ目でリトを見たと思ったら、よよよよ…… と泣き崩れる未央。
「お酒に慣れない私を、無理に酔わせて……」
「え?」
「ヤだと言うのを、言葉巧みに連れこんで……」
「おいおい」
「獣のように押し倒し、折って畳んで裏返し……」
「な…… 違うだろ! 猫カフェでスカートが……」
袖から顔をあげて、キョトン、としてから、未央は探るようにリトを見つめた。
「記憶あるの?」
「あるよ!」
「なーんだ、つまんない!」
眼鏡をひろって、鼻に乗っけると、未央は立ちあがって、ひもを引っぱった。
パッ、と部屋が明るくなって、毒気の抜けた感じで、ふとんの上へ寝そべる。
ひじをついて、くだけた調子で無駄話をしていると、修学旅行の夜のようで、
ころころと無邪気に笑いこける未央の、きれいな前歯を、リトは眺めていた。
しばらくすると、黒電話が鳴ったので、リトは部屋を出て、下へ降りていった。
玄関先に佇んでいると、着替えた未央が追いついてきて、一緒に靴を履き、
格子戸に手を伸ばしたのが同時で、思わず二人、まじめな顔で相手を見た。
「人に会わないといいね」
「怖いこと言うなよ……」
表へ出ると、道の向かい側に、たい焼きの夜店が立っていて、屋台の前に、
ヤミがいた。
「――――結城リト……」
ゴゴゴゴゴ…… と不協和音が響いて、ヤミの顔の上半分が影に覆われた。
(ちょっと、結城! あんた、ヤミヤミに何かした?)
(う、うん…… 実は、おまえに会う前に、少し……)
ヤミの金色の刃が襲いかかり、二人の間で風を切って、板塀に突き刺さる。
「うわっ!!」
リトは飛びあがって一目散に逃げていき、ヤミは、トランスしながら後を追う。
遠ざかる二人を、未央は呆然と見送っていたが、やがて、ふくみ笑いをして、
「にゃあ……」
と一声つぶやくと、くるりと踵を返して、尻尾をゆらしながら、夜の街を去った。
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