世の中には、図書館が好きな人間が意外と多い。殊に女性においては、その傾向が顕著なようだ。タダで本が読めるから。或いは一人の時間に浸れるから。理由は様々だが、年寄りを除けば平日の図書館は、殆ど女性ばかりだ。少女は、地球上においてこの空間を、密かに気に入っていた。
照明を眩く反射する程の黄金色の髪をゆるやかになびかせて、少女は本棚の前に立ち尽くしていた。『ウィトルウィウス人体図に見る生体比率概論』今適当に思いついたような脈絡の無いタイトルのその本は、少女の身長と比較して随分高い段に置かれていた。別に、取れない事は無い。髪を伸ばしてやれば良いだけの事だ。しかし、人目がある。この星では手で物をとらねば、奇異な眼で見られる。試みに背伸びしてみるが、手はギリギリ届かなかった。さりとて、腕の組成を組み替えて、ダルシムみたいに伸ばすわけにもいかない。仕方ない、踏み台を持って来よう……。溜息交じりにそう考えていると、背後から頭上を通って、別の者の手が、目的の本を取り上げたのが見えた。「あ……」「ほらよ。これが取りたかったんだろ?」やや見上げたその先には、忌々しい顔が仏頂面で見下ろしてきているのが見えた。「結城リト……」「今日は地球の事をお勉強か? 金色の闇」リトは周囲におかしな目で見られないように、少女の通り名を小声で呟いた。「ったく面倒ったら無ぇよなぁ。 人前で堂々と『金色の闇』なんて呼ぶわけにいかねぇんだもん」比較的人の少ないテーブルに腰掛けて、二人は会話した。もっとも会話と言うより、リトの方が一方的に話しかけているような印象さえある。金色の闇も一応返答はするが、気のない、適当な相槌に過ぎない。リトとしても、正直この少女と仲睦まじく話したいと思っていない。基本的に、苦手な相手なのだ。しかし鉢合わせた以上は、無視して通すわけにもいかない。一応知人なのだ。リトは少女の読みふけっている本……先程リトが取ってやった本の背表紙を見つめて、感心するやら呆れるやら、複雑な声で呟く。「また難しそうな本読んで、まぁ……」しかし、少女は何も言葉を返さなかった。イエス・ノーで答えられるような簡単な会話なら乗ってやらないでもないが、わざわざこちらから話を広げてやろうとも思わない。結果、居心地の悪い沈黙が訪れる。
少女はひとしきり黙して読書を続けていたが、いつまで経っても目の前のリトが帰る気配が無いので、思い切って自分から口を開いてみた。「いつになったら帰るんですか。……と言うか 何の用事があって、休日でもないのに図書館に?」少女の方から話題を振ってきたので、リトは水を得た魚のようにここぞとばかりに話に食いついた。「今日は休校日なんだよ。代休つってな。 ララはうちの親父の仕事を、面白がって手伝いに行ってる。 一人で家に居ても暇だから、適当にブラつきに来たんだ」「……そうですか。 単なる暇潰しに付き合うつもりはありませんから、 さっさと目の前から消えてくれませんか?」せっかくリトが会話を広げてやったのに、少女はやる気の無い返事を返した。どうせだからリトと一緒に遊びに行ってやろうか、などと考えてやる程、少女は社交的でもなければ、リトに好感も持っていなかった。「愛想が無ぇなぁ、お前って。まぁララ程底抜けに陽気でも困るけど」「人を殺す仕事をしているのに、愛想がある方が不気味でしょう?」そう言われてみればそうだ。陽気に笑いながら他人を手にかける殺人鬼を想像してみて、リトは寒気を覚えた。
大人のレディのように静謐な眼差し。対照的に幼い顔立ちと容姿。金で作られた細工物のような流麗な長髪。黒は女を美しく見せるというのもあながち嘘ではないようだ、黒衣をまとって書物を読みふけるその姿は、深窓の令嬢のようですらあった。気を抜くと、思わず見とれてしまう。「……何、ジロジロ見てるんですか」「え、あ……いや、悪ぃ。何でも無い」「……えっちぃ事考えてたんじゃないでしょうね?」「ば、馬鹿っ! お前相手にそんな危険な真似が出来るかよ」再び、気まずい沈黙。リトはもう帰ろうかとさえ思ったが、さりとてどう言って席を立てば良いかもわからない。じゃ、俺はこれで……とでも言っておくのが無難かもしれないが、そもそも別れの挨拶を交わす程仲が良いわけでもない。しかし何の挨拶も無しに席を立つのも気がひける。やはり知人であればこそ、何がしかの言葉をかけるのが当たり前だろう。だが、じゃあ何と声をかければ良いのかと問われると、返答に困る。結局そうしてリトは、いつまでも席を立つタイミングを逸し続けていた。それに、この端麗な容姿をもう少し眺めていたい、という気持ちも、正直あった。
チラチラと相手の方を見やり、時々視線が合うと、慌てて目を伏せる。お互いに言葉もろくに発する事なく、無為に一時間程過ごしていった。少女は読んでいた本をパタンと閉じると、おもむろに席を立った。「もう読み終わったのか?」「いいえ。続きは明日にします。もうそろそろ閉館ですから」そう言ってそそくさと歩いて行く後を、リトがついて行く。何でいちいちついて来るんですか……そう言いつつ本棚に本を戻そうとした時、理由がわかった。そして悔しい事に、リトがついて来てくれていなければ、また面倒になるところだった。「届かないんだろ? 貸せよ」「……」馬鹿にされたような、気を遣われたような。悔しいような、有難いような。これでは、あまり無下に突き放す事も出来ないではないか。「……どうも」しばらくの後、少女はようやっとそれだけ口にした。ごく自然ななりゆきで、二人は並んで図書館を出て行った。
「……いつまでついて来るんですか」「いや、つーか……俺ん家そっちなんだもん。別について回ってるわけじゃねぇよ」夕暮れの川原沿い。周囲の建物が妙に暗く見える。影に吸い込まれそうだ。ノスタルジーを呼び起こす風景に、何となく胸のあたりが苦しくなってくる。それはリトばかりでなく、異星人の少女にも同様らしかった。元々暗い表情が、心なしか昼間より更に暗く見える。物思いにふけっているのかもしれない。それは、不覚にも心を射抜かれてしまうような、美しい横顔だった。「……あなたは、私の顔を見るのが趣味なんですか? 結城リト。 図書館でも、ずっと人の顔ばかり無言で眺めてきて……」「いや、え……あ、ごめん」夕日の色を映しこんだその髪は、黄昏色に染まっていた。案外『金色の闇』という通り名には、夜の暗闇よりも今のこの黄昏の方に、近いニュアンスがこめられているのかもしれなかった。「なぁ、金色の闇」「何ですか、結城リト」「……いやごめん、何でも無い」「……? 不気味な人ですね。それに、何でも謝り過ぎです」リト自身、何を言おうとしていたのか、自分でもわからなかった。不気味と罵られても、反論出来ない。
途中、鯛焼きを売っている露店を見かけた。季節柄、こういう温かい食べ物が欲しくなる。そう言えば来月は、クリスマス・イヴが控えていただろうか?今年は誰と過ごすんだろうな……ララか、或いは春奈ちゃんか。もしくは妹と二人で? まさかね。そんな事になるぐらいなら、一人の方がまだマシだ。そんな事を呆然と考えていると、少女の目線が露店に向いた。「買ってやろうか?」少女はすかさず頷いた。現金な女だ。こういう時だけ素直なのだから。だがリトの財布の中には、生憎鯛焼き一個買える程度の小銭しか入っていなかった。千円札を崩せば二人分買えるのだが、鯛焼きのために札を崩すのも気がひける。少女は少女で、今日は財布を持ち合わせて来ていないようだった。「参ったな。一個しか買えねーわ」勿論リトとしては、少女の分だけ買ってやって、自分が我慢する事に吝かではない。だが、この少女はどうにも遠慮してきそうな気がする。一緒に食べるのでもなければ、彼女がリトに鯛焼きを奢ってもらう理由は無いのだ。じゃあ買わずに通り過ぎれば良いではないか、という簡単な話なのだが、この少女の鯛焼きを見つめる目を前にして、そういうわけにもいかない。「……半分コしよっか?」リトの問いかけに、少女はこくりと頷いた。少し顔を赤くして首を下に傾ける仕草が、妙に可愛らしい。うちの妹もこのくらい可愛ければ……と思いつつ結局妹など、どれ程可愛くても鬱陶しいだけに違いないと思い直す。
「毎度ありー」初老の鯛焼き売りの男から鯛焼きを一つ購入して、二人は土手の方へと降りて行った。綺麗に半分に割ってやりたいところだが、形状の問題から難しい。とりあえず割ってみて、餡子の多く入っている方を少女に渡してやろうとリトは思った。が、その前に鯛焼きがきっちり半分に割れた。というか、裂けた。「……んなっ!?」鯛焼きの口の部分から尾の部分まで、直線を描いて光が一閃する。真っ二つになった鯛焼きの向こう側で、少女は自分の髪の毛の先を、ハンカチで拭っていた。「これで丁度半分ですね」「お、お前なぁっ! 誰かが見てたらどうすんだよ!」「誰にも見えませんよ。地球人の動体視力で捉えられる程、遅いつもりはありません」少女はリトの手から、鯛焼きの片割れを取り上げて答えた。確かに、彼女の特性を知っている者でなければ、今の瞬間何が起こったのか理解出来なかったろう。性格と言い、その速さと言い、まるでどっかの格ゲーに出てくるミ○ア=レイジのような女だ。
男と女では、大抵の場合男の方が先に食べ終わるのが常だ。まして口の小さい少女の事だ。リトが鯛焼きをものの数秒で食べ終わっても尚、少女はまだ半分も食べ切っていなかった。「早いですね、結城リト……」「いちいちフルネームで呼ぶなよ、気色悪ぃなぁ。 ……まぁ、お前にリトって呼ばれるのは、もっと気色悪いけど」「だったらあなたも、私の事を『金色の闇』などと無粋な名前で呼ばないで下さい」言われてリトは、考え込んでしまった。それこそ、じゃあ何と呼べば良いのだと問いたくなる。……ヤミちゃん?まさかね。苦笑いとも自嘲ともつかない表情で、溜息を浅くこぼす。「だったら、本名教えろよ。教えてもらえないものを、呼べるわけ無ぇじゃんか」牽制するようにそう言うと、少女はひとしきり黙り込んだ。
本名など。久しく呼ばれた事は無かった。本名が、必要になった事も無かった。通り名さえあれば、それで不都合は無かった。彼女に目をかけるララでさえ、勝手にヤミちゃんなどとあだ名をつけて呼ぶくらいで誰も彼女を、本当の名で呼ぼうとした者はいなかった。「私……私の本名……」その言葉の続きを待つリトの間抜けな表情が、今の少女には恨めしく思えた。皆からちゃんと名前で呼んでもらえる者に。どんな名前なのかすら、気にしてもらえない者の孤独など。「理解出来る筈が……」思わず口にしてしまった呟きは、運悪くリトの耳にしっかり届いてしまったようだ。「何の話してんだ、お前?」「……何でもありません」少女は再び、先程の美しくも暗い、儚げな表情に戻った。
「リト」「結城君」少年の名を呼ぶ、ララや蜜柑や春奈の声が、少女の頭の中でフラッシュバックし続ける。態度に違いはあれ、皆親しげに、リトの名を呼ぶ。対して、自分はどうだ?「金色の闇」「金色の闇」「金色の闇」依頼を持ちかけてくる者達や、自分を恐れるターゲットや、目の前の少年や……。無数の声の、その全てが、少女を無機質な呼び方でしか扱わない。ララの『ヤミちゃん』という呼び名さえも、その亜流に過ぎない。金色の闇、金色の闇、コンジキノヤミ、コンジキノヤミ、コンジキノ……。
……いや。例外が、いる。少なくとも、今隣で自分を見つめてくる、この間抜け面の少年。彼だけは、今、こんな私の名前を、気にとめてくれた。本当の名前を教えて欲しいと、言ってくれた。そう思った時少女の中の、少年を見上げる気持ちに、揺らぎが生まれた。
油断していたのかもしれない。或いはこういうのを、心を開く、と言うのだろうか?それとも、気を許す、と?どちらにしろ、ガードが下がった事に変わりは無い。並んで鯛焼きを食べていたために、距離が近過ぎたのも一因だろう。ふとしたキッカケで、容易く心の壁が瓦解する事は、往々にしてある。丁度、そういうタイミングだったのだろう。少女はいつの間にか、リトの腕に軽く凭れ掛かって、嗚咽を漏らしていた。指先が、軽くリトの袖の皺を摘んでいる。行かないで。指は、そう懇願するようですらあった。「なっ……ちょ、おい? マジどうしたんだよ?」だが、少女は答えない。口をきつく結びながら、それでも抑えきれない泣き声が漏れ出るくらいで、一言も何かを喋ろうとはしない。だが、涙は言葉以上に雄弁だった。黙って彼女を抱きしめている内に、何故彼女が涙したのか、その理由がリトにも何となく伝わってきたのだ。触れ合う事は、言葉以上に相互理解を深めていた。
少女が落ち着く頃には、もうすっかり空は濃い紺色になっていた。少女の綺麗な髪が輝きを損なうのは、勿体無いような気がした。「あのさ……」黙りこくる少女を尚もその左胸に抱きとめながら、リトは口を開いた。「こういう言い方すると、説教臭くて気分悪いかもしんないけど…… 自分の名前をちゃんと呼んでほしいなら、 先にお前の方から、相手の名前をちゃんと呼んでやるべきだと思う」リトの言っている意味が、少女には一瞬わからなかった。相手の名前なら、ちゃんと呼んでいるつもりが、少女にはあったからだ。しかし、まるで意味合いが違う。その事に気づいた時、少女は泣きはらして赤くなった顔を、もう少しだけ赤くした。「……リト」それは、泣き始めてから今までで、やっと彼女が発した初めての言葉だった。「……って、呼んで欲しいんですか?」「いや、その……別に、そこまでは。結城で良いよ、結城で」いきなりファーストネームを呼ばれて、リトは困惑した。慕うララの事でさえ、プリンセスとしか呼ばないこの少女が。事もあろうにリトの事をそんな風に呼ぶとは、誰が予想しただろうか?
こういう時、童貞は辛いものがある。ただハグしているだけで、簡単に硬くなってくる。空気読めよ、俺の息子。恨めしげに、下半身にそう念じる。周囲が暗いのと、上半身しか密着していないので、やり過ごせるかと思ったのだが、ふと少女が下に目線を向けた瞬間、あっさりとバレてしまった。「……この、膨らみは」「やっ、あっ! いや、その……ごめん」「……えっちぃのは嫌いです。結城リト」「あっ、テメェ! またそんな呼び方しやがって……」少女はリトから離れると、彼女にしては珍しい事に、少しだけ微笑んだ。そうして、またすぐに無表情を繕い、言葉を発した。
「あなたが私の事を本当の名前で呼んでくれたら、 私もあなたの事、また下の名前で呼んであげます」リトはしばらく押し黙ったが、やがて意を決したように口を開いた。「……お前の名前、教えてくれよ」少女は、口を小さく開いて答えた。「一度しか言いませんから、よく聞いて下さいね? 私の名前は……」
奇しくも来月には、クリスマス・イヴが控えていた。
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