きっかけはいつだって些細に思える。しかし考えれば考えるほど、運命めいて思えてくるものだ。その日も、校門を出るまでは何の変哲もない日常の中の一日にすぎなかった。ピンク色の髪には特徴的な髪飾り。スカートから覗くのは尻尾の形をしたアクセサリ。そんな地球における違和感など、吹き飛ばして余りあるヴァイタリティと美貌。すれ違えば誰もが振り返る。そんな女の子と同居している。男なら誰もが羨むリトの日常。しかしその日、ララの足は結城家へと向かわなかった。「おい、ララ。どこに行くんだよ?」「ん? 春菜ん家!」見上げた空と同じような、カラッとした様子で言う。「な、なんだって!? 聞いてないぞ!」「ほぇ? そうだっけ?」動揺しまくりのリトとまるでケロッとしているララ。見事なまでのコントラスト。「リトも行くでしょ?」さも当然とララが訊いてくる。「お、俺はいいよ……」リトの声のトーンが下がった。しかしララが耳を貸すわけもなく。「リトも行くの! 春菜のお家へレッツゴー!!」「ちょっと! 待てってララ、止まれーーー!!」粉塵を上げながらピンク色の髪の少女は猛スピードで走っていった。地面に対して100度の角度に浮き上がった、少年の手を引いて。少し前までのリトなら、口では拒んでいても春菜の家には行ってみたい気持ちで一杯だっただろう。しかし今は、そんな気持ちにはなれなかった。ララと春菜、春菜とララ。春菜への想いは、少しも色褪せてなどいないつもりだ。しかし自分の中で、ララの存在が日増しに大きくなっていくのを感じている。もし人が誰かを想う気持ちに限界量があるのなら、今の自分の心はどちらがより多く占めているのだろう。そんなことは分からなかった。しかしそんなことを考える自分を切り捨てることもできなかった。何気ない、しかし退屈とは無縁の日常の中を泳いでいく。対岸がいつまでも見えてこないことを、願いながら。
春菜は意外なほどあっさりとリトを自室へと導いた。女の子特有の、甘い匂いが鼻を衝く。「散らかっててごめんね」もちろんこれは社交辞令だ。春菜の性格上、来訪者を(ましてや異性を)散らかった部屋に入れるわけがない。しかし春菜の謙遜は彼女が持つ透明感ゆえか、不快感を与えない。前回は状況が状況だったので、初めて見るに等しいその部屋。春菜の部屋にいるという事実が閉塞感を薄れさせ、リトの心臓を弾ませた。あちこちに視線を泳がせていたかと思えば、突如としてカーペットの一点を見つめて動かなくなる。「あ! このぬいぐるみ喋るんだー! カワイイッ」「小学生の頃に買って貰ったの」頭に美がつく少女二人の楽しげな会話も耳に入らない。その挙動不審ぶりは、春菜がお茶を入れに部屋を出た際にペケは愚かララにまで突っ込まれたほどだった。そんなこんなで、春菜の部屋を訪ねて30分程が過ぎた頃。ララの電話、もとい通信機が鳴った。「はーい。ララでーす! あ、モモ? どうしたの?パパから通信? こっちに送れないの? ……うん、うん。わかった。すぐに行くね」ララが通話口に言葉を吹き込むたびに、リトの表情は困惑の度合いを深めていった。そんな様子には気づかず、いつもの明るい調子でララが言う。「ごめーん! ちょっと急用。帰らなくちゃ」「だ、大丈夫なのか?」リトは若干声が上ずっている。まるで縋るように自分の鞄に手を伸ばしたリトを見て、春菜の胸がチクリと痛む。「大丈夫! ちょっとパパと話をするだけだから。じゃあ春菜、ありがとう!!」屈託なく言うやいなや、一目散にララは去っていった。想い人と恋敵を、6畳にも満たない部屋に残して。「……結局あいつの目的ってなんだったんだ……?」「あ、ララさんに漫画を貸してあげるつもりだったの。結城くん、渡してくれる?」「あ、ああ。構わないけど……」会話が切れ、部屋に沈黙が訪れる。それはぎこちなくて息苦しい時間。胸が躍るのではなく、締め付けられるような時間。二人とともにそこにいたのが、ララだからこそ生まれた時間。「「あの」」同時に発せられ、重なる二人の声。「な、なあに?」春菜の声は心なしか震えていた。「あ、いや……。漫画、受けとってもいい、か?」「う、うん」少し慌てた様子で機敏に立ち上がる春菜。リトに背を向ける形で本棚に手を伸ばしている。しかしその動作は、少しずつ鈍っていく。リトの言葉が、拒絶の意思に思えて。(結城くん……)胸が苦しいのは春菜だって同じ。ララとリトとの間での、板挟み。片方が同姓で片方が異性というのも珍しいが、春菜にとってララは大切な存在だ。ララにはいつも笑顔でいて欲しいと、心から思える。だけど。(わたしは……)こんなに苦しいのに、リトと離れたくはない。一緒にいたい。一秒でも長く。傍にいたい。一ミリでも近く。なのに。(あなたのことが……)想いを伝えることは、できない。「あ、の……これ」「あ、ああ! ありがと」ぎこちない微笑み。いつものリトではない微笑み。「じゃあ俺、行くな! お邪魔しました!」リトは引きつった笑顔のまま、鞄を両手で抱えて春菜の部屋を出た。口調だけは、努めて明るくして。「結城くん……」春菜の呟きは、部屋を出た途端に早くなった想い人の足音に掻き消された。
マンションを飛び出し、右に左にいくつか路地を曲がって、リトはようやく足を緩めた。(ハァ、ハァ……何やってんだ、俺は)まさに逃亡、逃避だ。大好きな女の子を前にしても、晴れることのない雲からの。(どうすりゃいいんだっての……)雑踏の中をリトは歩く。あてもなく、途方に暮れながら。二人の少女の顔が、交互に浮かんでは消えた。夕日が空を鮮やかに染めるまで歩き続けても、思考は一向に収束する気配を見せなかった。そんなリトを、見つめている目があった。(あの男の子って、たしか写真の……)春菜の姉、西連寺秋穂。その聡明な頭脳が、額に汗を浮かべ狼狽した少年を見て一つの仮説を打ち出す。いや、仮説というよりただの直感だ。(よしっ。可愛い妹のために一肌脱いじゃおうかな!)秋穂の口元が引き締まる。思い過ごしならそれはそれでよし。しかし時々春菜の様子がおかしいことは分かっていた。妹には、いい初恋をしてもらいたい。
「ただいま、春菜」「…………」呼びかけても反応がない。唇に手を当て、物思いに耽っている。テーブルの上には3つ置かれたコップ。部屋の隅で退屈そうにしているマロン。(いつもは閉まっている玄関も鍵が開きっぱなしだったし)秋穂は自らの直感が正しかったことを確信し、そのうえでいつもどおりに振舞う。同じベッドの上に腰掛けても、未だ気づかない妹に向けて。「はーるーなーっ! ただいま」「……お、お姉ちゃん!?」ようやく春菜が秋穂の存在に気づく。「お、おかえりなさい」心の中にふわりと広がる安心感が、春菜にいつもどおりの「おかえりなさい」を言わせた。「うんうん。それが聞きたかったの」満足げに微笑む秋穂。いつだって自分の味方でいてくれると信じられる、親愛なる姉。「今日はどうしたの? いつもは戻る前に電話くれるのに」「ん、ごめーん。忘れてた」ペロリと舌を出す秋穂。何気ない姉妹の会話。淀むことのないテンポ。それが、春菜にいつもの自分を取り戻させていく。「晩御飯の用意するね」立ち上がり、自室を出ようとする春菜。その背中に、秋穂が言葉を投げかけた。「何かあった?」いきなり真剣になった声色。心臓が痺れるような感覚に、春菜は小さく息を零した。「な、何かって……?」左手でドアノブを掴んだまま固まってしまう。「結城くんと」その単語に、今度は背中が震える。動揺を隠しながらゆっくりと振り返り告げる。「そんな、大した事じゃないの。ただ、ちょっと考え事してただけだから」声が震えそうになるのを必死に抑える。しかし今日の秋穂には、誤魔化しは通用しそうになかった。あまりにも穏やかな姉の微笑みによって、春菜はそれを察した。「春菜……わたしにまで隠さないでよ」いつもの姉とは何か違う。サバサバした感じがなかった。からかいの要素がなかった。「結城くんが、好きなのよね?」だからその直球に、春菜は首を縦に振ることで答えることができた。「もしかして、今日……」秋穂の脳裏に予想していなかった要素が浮かび上がる。奥手な妹の、告白。しかし春菜は、今度は首を横に振ることで応じた。そして今度は、秋穂の胸が震えた。いつもやせ我慢をする妹が、負担になるまいとする妹が、強がりの笑顔を作れなかった。何が春菜を、こんなにも苦しませるのか。「春菜……」自分はこんなにも、恋愛に悩んだことがあっただろうか。どう言葉をかけたらいいのか、秋穂には分からなかった。だから、姉らしくないかもしれないけれど、背伸びはせずに。「私はきっと、今春菜が抱えているような気持ちを知らないんだと思う」少し申し訳なさそうに見返してくる視線。妹だからだとか家族だからなどという気持ちでは、もはやない。この気を遣いすぎる、優しすぎる少女の、力になってあげたい。「でも、私が春菜のことを負担に思うなんて、絶対にないからね」秋穂の、まるで同い年の親友に向けたかのような真っ直ぐな言葉。春菜の瞳から、涙が溢れた。心の奥底の部屋に、閉じ込めてしまった想い。しっかりと鍵をかけても、今日のように時々溢れ出してしまう想い。誰にも見せずに持ち続けていくことを、受け入れたはずの想い。初めて、この恋を応援してくれる人ができた。扉がほんの少しだけ、でも確かに、開く。「怖いの……」涙に濡れ、掠れたか細い声。秋穂は自然と立ち上がっていた。「結城くんに、告白するのが?」また春菜の首が横に振られる。秋穂は春菜の元へと歩み寄って、その小さな手を優しく握った。温かい秋穂の体温が、春菜へと伝わっていく。「今の関係を壊すのが……怖いの。結城くんと、ララさんと、わたしの……」ララさん……。春菜の口から良く聞く、もうひとつの人名。明るく活発、天真爛漫で無邪気。「わたしが告白したら、今の関係が崩れちゃう……。そんなことは、できないの」秋穂の頭が高速で回転する。恐らくはララもリトのことが好きなのだろう。つまりは三角関係。それも、かなり特殊な三角関係。春菜の話からすると、ララは春菜を大切な親友としてしか見ていない。一方春菜の方も、ララに対して負けたくないという気持ちなどもっていない。それどころか秋穂には、感じるところがあった。(春菜は、ララさんには敵わないと諦めてしまっている……。ううん、諦めようとしている……)ララが大好きだから。だから春菜は、一歩引いてしまっている。妹らしいといえばそれまでだ。でも、秋穂は納得できなかった。「それで、春菜は身を引こうとしているの?」「っ!」声を出すことができなかった。首をどちらにも振ることができなかった。「ララさんを傷つけたくないから? 自分が傷つきたくないから?」秋穂の話す速度は変わらない。しかしそこに、熱情が混じり始めていた。「今の関係は、居心地がいいかもしれない。でも、その関係に終わりが来たとき……」秋穂はそこで言葉を切った。春菜にも、続きは分かっていた。今まで何度となく考えた末に、いつも決まって描かれる結末。その時リトの隣に、きっと自分は……いない。「それでいいの?」感情を落ち着かせるためか、深呼吸した後で秋穂が問うた。間近に聞く穏やかな姉の言葉が、春菜の頭を駆け巡る。(それで、いいの……?)今まで何度となくした自問。その全てで、いいと思おうとした。結論は、未だ出せていない。「いい訳ないよね?」そのとおりだった。いい訳などないのだ。諦められるはずがないのだから。だから、こんなにも切なくて、こんなにも苦しくて。涙が、でちゃうんだ……。春菜の本当の想いが、溢れ出す。「ララさんの恋を応援したいって、思ってた……」その気持ちは、決して嘘や誤魔化しじゃない。自分にはないものをたくさん持っているララに、憧れた。それ以上に親しみを感じていた。素直で裏表がなくて、自分と同じ人に好意を寄せた彼女に。しかし、結論はとっくに出ていたのだ。かつて同じように問われたとき、自分は答えていたのだ。よくないと。「だけど、私は……」扉は、もはや開かれた。春菜の中でリトへの想いが溢れ、奔流となる。「私は、結城くんが「ストップ!!」春菜の激情を、秋穂が大声を出して止めた。涙で頬を濡らしながら、きょとんとしてしまった春菜。そんな妹が愛しくて、秋穂は抱きしめたい衝動に襲われた。しかし、耐えた。「お、ねえちゃん?」そうするのは、自分ではなくあってほしいから。だから、いつもの笑顔を見せる。「ふふっ。春菜ったら、私に告白してどうするのよ」「え? ぁ……」からかうときのちょっとだけイジワルな笑顔を。「すごい勢いだったわねぇ。その勢いなら、結城くんもイチコロよ?」真っ赤になり、固まってしまう春菜。「お、おねえちゃんっ!!」ぽかぽかと胸を叩いてくる、可愛い妹。姉として、最後に背中を押してあげなくては。「ほら春菜、さっさと着替えて」「へ?」春菜はまだ制服のままだった。帰宅後着替える前にリトとララがやってきて、彼らが帰ってからは何も手につかなかったから。困惑している春菜をよそに、秋穂は箪笥やクロゼットを開けて片っ端から春菜の服をベッドに並べていた。そのファッションショーが終わるまでには、小一時間もの時間がかかった。「お姉ちゃん」玄関先、秋穂のコーディネートで着替えた春菜。「ん?」「伝えてくるね」穏やかに笑って、春菜は言った。不安や葛藤はまだ胸の中で渦巻いているだろうけれど、曇りのない笑顔だった。だから秋穂も、同じように笑顔で返した。「大丈夫。きっとうまくいくよ」「……うん」春菜は真剣な表情になって、唇を結んで頷いた。「行ってきます」決意に満ちた表情で玄関を出て行く妹を、秋穂は目を細めてみていた。(ちょっと、羨ましいな……)いつのまにか親友ができて。自分はまだ味わったことがないほどの、恋心を抱えて。今から大好きな人にありったけの想い告げに向かう妹。秋穂は瞳を閉じた。「頑張れ、春菜……」
春菜は結城家へと歩いていた。あまり履きなれていないパンプスが地面と音を立てる。姉とともに選んだのはクリーム色のフリルブラウスと白と黒のチェック柄のミニスカート。大きなベルトがアクセントだ。普段の春菜よりちょっとだけ大人っぽく、大胆に。ミニスカートに細い美脚が映え、優しい色合いのブラウスが柔らかな印象を醸し出す。髪の毛は、いつものように前髪を2つのピンで留めたスタイル。髪型も変えていったら? と秋穂は言ったが、それはやめた。リトの目にはもちろん可愛く映りたいけれど、それ以上にありのままの自分をぶつけたいから。(こんな時間に、結城くん驚くよね)リトはどう反応するのだろうか。きっと困惑し、オロオロしながらも突き帰すことはしないだろう。(結城くんのことだから、ご飯食べていけって言うかな?)表情に笑顔が浮かぶ。春菜は不思議と落ち着いていた。それは目的がはっきりしているからだろう。リトに、自分の気持ちを伝える。ただ、それだけ。その"先"のことなど、何も考えていなかった。初めて好きになった人に、ずっと閉じ込めていた想いを知ってもらいたい。想いを告げたい。そうすれば変化が起こることはわかっているけれど、怖れることはもう止めた。(だってきっと、私だって変われるはずだよね?)春菜がもっとも嫌だったこと、怖れていたことは、いつまでも自分だけが変われずにいることだったのかもしれない。でも、本当はもう変わり始めているのだ。想いを伝えると決心した、その時から。結城家のインタフォンを鳴らす。指が震えることはなかった。掌に汗をかくこともなかった。じっと、スピーカーから流れてくるはずの声を待つ。「ったく。おせーぞ、みか……」声が届いたのはスピーカー越しではなく、今開け放たれた玄関前からだった。顔をこちらに向け、絶句しているリト。「こんばんは」(なんでこんな時間に春菜ちゃんが……)春菜の挨拶にも、リトは頭が混乱して何も返せない。しかし視線だけは外さなかった。外せなかった。ただそこに立っているだけなのに、春菜があまりにも可愛くて。甘く痺れていく胸には、最近常に痛みが伴う。「ごめんね。こんな時間に」「あ、いや。全然っ」いつもどおりの優しい口調に、リトが少し調子を取り戻す。両手を開いて前に突き出す、オーバーリアクション。「美柑のやつ、まだ帰ってこなくてさ。腹減ったよ。ハハ……」左手で後頭部を掻く、照れ隠しの仕草。「ちょっとだけ、お話できないかな?」真っ直ぐに自分を見つめて放たれる春菜の言葉。その度に、ときめいてきた。好きになっていった。なのに今は、どうしてこんなに逃げ出したい気持ちになるんだろう。「夜のお散歩。30分だけでいいの」拒めなかった。春菜の瞳はあまりに澄んでいて抗うことなどできなかった。「星が綺麗ね」「え……あ、うん」隣を歩く春菜が夜空に向けて右手を伸ばす。「こうやって手を伸ばせば、届きそうなのにな」星明りに照らされた春菜の横顔は神秘的ですらあった。(手を伸ばせば届きそうなのに、か……)すぐ隣に、春菜がいる。満天の星空の下、二人きりで歩く。これ以上ないほどのシチュエーションなのに、リトは手を伸ばせない。二人は遊具などない、豊かな緑だけが取り得の公園へと足を踏み入れた。「…………」「…………」互いに何も言葉を発せないまま、数時間にも思える数分が過ぎる。道幅が広くなったことで、二人の間隔も少し広がっていた。「結城くん」沈黙を破ったのは、やはりというか春菜だった。「聞いて欲しいことがあるの」春菜はいつもよりも凛として見えた。予感は、リトにだってある。しかし春菜があまりにも大人びて見えて、リトには現実感が湧かなかった。「私ね……ララさんが好きなの」「……へっ?」告白を予想していなかったわけではなかった。しかし。まさか相手がララとは。リトとしてはどう応じていいかわからず、立ち尽くすだけだった。春菜は瞳を閉じ、ゆっくりと噛み締めるように続けた。「だから、応援したいって思ってた……。結城くんを振り向かせたいっていう、ララさんを」切なさと寂しさに歪んでいくリトの顔。春菜が、ララを応援したいと言った。その部分だけに、リトは大きく大きく動揺した。それが過去形であったことにすら気づけないほどに。「でも私、やっぱりダメだった……。ララさんのことどんどん好きになっていくのに、ダメだったの」春菜の言葉はリトの耳を素通りした。リトは強迫観念に襲われていた。今すぐ春菜に想いを伝えなければ、全てが終わってしまう。そんなのは嫌だった。今にも溢れそうなこの気持ちを、伝えられもせずに終わるなど耐えられなかった。しかし、それを表現することができない。言葉でも、態度でも。体全体が震え、唇は洗濯ばさみでも付けられたかのように開いてはくれなかった。受身に慣れきった自分自身は、そんなに急に目覚めてはくれなかった。「さ、西連寺。お、れ……」おれという言葉だけが、リトの脳内を埋め尽くしていく。その先はどうしても形にならない。「だってね……」対照的に春菜の声は揺らぐことなく響いていた。「だって、結城くんのこともどんどん好きになっていったから……」ララを応援しようとした。自分は身を引こうとした。だけど初めてそう考えたときには、結局そうしきれなかった。リトへの想いを、断ち切ることなどできなかったから。そして春菜には、繋がりを断ち切ることなどもっとできなかった。だから、ララの傍にいた。リトの傍にいた。それからの、あっという間の様で長い長い日々。ララを応援したい気持ちがどんなに膨らんでも、それ以上にリトへの想いが膨らんでしまった。絶対に終わりの来ないイタチごっこのようなもの。「結城くんが、好きです」もう一度、春菜が告げた。その声は目に見えない何かに守られながら、リトの最奥に吸い込まれていった。リトは無言のままだった。春菜の気持ちが、自分に向いていないと感じたことによる揺らぎ。気持ちを伝えなければという焦燥。自分の中にある春菜への気持ちを再確認し、その大きさを知り、受けた衝撃。それだけでも今にも倒れそうなほどだったのに。春菜の想いに、ゆっくりと包まれた。そしてあっという間に、侵入された。声など発することができるわけがなかった。そんなリトを見つめる春菜の瞳は、少しずつ潤んでいった。常に前向きでいろ。悩むくらいなら行動しろ。ずっと心に留めて来た、大切な言葉。でもこの恋だけは、そうできなかった。失ってしまうかもしれないものが大きすぎて、そこにばかり目が行ってしまった。そんな自分を、やっと断ち切れた。結城リト。大好きなその人に、想いを告げることができた。しかし瞳が潤んだのは、満足感からではなかった。リトにフラれることを、怖れているわけでもなかった。(私って……勝手だ)ただ、思ってしまっただけ。(私って……欲張りだ)ただ、気づいてしまっただけ。リトの瞳はずっと春菜を映していた。漸く、僅かに平静さを取り戻した脳が、春菜の潤んだ瞳を認識する。「西連寺……?」告白を受けた後の第一声が、相手の名字の疑問形とは。しかしそこには、滲み出てくるような温かさがあった。何の見返りも求めずに、何の裏もなく、本気で相手を思いやることができる優しい少年。「私は、自分の都合しか考えてなくて……。結城くんが困ること、分かってたのに。ララさんを裏切ることになるって、分かってたのに」リトの優しさを感じれば感じるほど、春菜の声は震えていく。「でも、好きって伝えたかったの。どうしても、あなたに伝えたかった……」もう、公園に足を踏み入れたときの春菜の声ではなかった。今、瞳を伏せているのは想いを壊さないように、そっと紡ぐためではない。「伝えられればそれだけでいいって思ってたのに……。わたし……」噛み締められた唇。震えるほどに握り締められた両手。春菜が本当に望んでいたこと。「結城くんが……好きなの。もう、どうしようもないくらい。一緒にいるだけで、どんどん強く、どんどん深く、抑えられなくなっていくの」恋愛なんて、勝手じゃなければ始まらないのに。欲張りになれることは、素敵なことなのに。「ごめんね……。ごめんなさい、結城くん……」春菜は最後まで、涙を零さなかった。(どうして、そんなに……)そんなに他人のことばかり考えなくていいのに。自分を犠牲にしてまで、思いやらなくていいのに。リトの胸は張り裂けそうだった。できれば今の関係がずっと続いて欲しいと思っていた。そんなことはありえない。分かっていたこと。いつか必ず、選択のときは来る。その時に俺は、どちらかを選べるのだろうか。いや、そもそもこんな俺に選ぶ権利などあるのだろうか。そんなことばかり考えていた自分が、弱くて小さくて、どうしようもなく情けなかった。でも、そんなこともどうでもよかった。春菜を受け入れたかった。抱きしめてあげたかった。できること全てをしてあげたかった。その髪に触れたかった。唇を啜りたかった。春菜の全てが欲しかった。今。すぐに。でも、それはリトの流儀ではないから。「俺は、謝ってなんか欲しくないよ?」抱きしめるにしたって、手順ってものがある。春菜の誠実さに、想いに、己の全てを賭けて応えるんだ。ただし、言葉はできる限り短く。「ありがとう」リトは微笑んだ。あまりにも切なくて愛おしくて、そうしなければ自分が先に泣いてしまいそうだった。そんなリトを見て、春菜の瞳の中の雫が表面張力を打ち破った。「誓うよ」まるで大画面スクリーンの中から響いてくるようなリトの声。温かくコーティングされたかのような、微かにノイズの混じった声。春菜の耳には、そう聞こえていた。「俺はずっと、キミが好きでした」誰にでも、何にでも、胸を張って言える。「これからも、キミが大好きだ」この気持ちが揺らぐことはないと、確信している。「そして、ずっとキミを守り続ける……。キミだけを見ている。もう離さない」決意に満ちた瞳だった。愛情に溢れた瞳だった。「そう、誓います」大きな瞳から溢れ出した透明な液体は、鼻頭と口元を覆っている春菜の両手を濡らしていく。春菜が投げたボールを、リトはフラつきながらもしっかりと受け止めた。そして構えてもいなかった春菜のグローブに、優しくボールを返した。たった一往復に、どれほどの時間がかかったのだろう。たった一往復で、どれだけの想いを交換できたのだろう。「……ぁ」リトは春菜を抱きしめた。抱きしめたかったから。でもそれは、欲望とは程遠い感情からだった。きっと大丈夫。不器用さを分け合って、支えあって、助け合って。二人なら、やっていける。春菜に伝えたかった。「謝らないよ?」「……えっ?」腕の中で、春菜が小さく震えた。「俺、勝手に誓い立てちゃったけど。勝手に抱きしめてるけど。でも、謝らないよ……?」春菜の両腕が、リトの背に回された。「私を、受け入れてくれるの……?」きつく抱きしめられると、柔らかく包んでいたリトの腕にも力が篭る。春菜の事以外、何も考えることはなかった。「もう、強がらなくてもいいから……。俺がずっと、そばにいるから。俺にはキミが……必要なんだ」もう、大丈夫だよ。痛いほどに優しいリトの気持ちが伝わってくる。春菜は涙を零しながら、長くて温かい、幸せに満ちた吐息を漏らした。どうして、想いを伝えるだけで満足できるなどと思えたのだろう。ずっと知っていた、リトの優しさ。それが今、自分だけに向けられている。想像よりもずっと硬い身体。お日様のような香り。包まれていた。愛されていた。(私、変わっちゃう。こんな幸せ、知っちゃったら……)もう、離れられない。これ以上好きになったら、自分がどうなってしまうのか想像もつかない。怖い。だから春菜は、リトの身体をそっと押した。離れるためではなく、より深く重なるために。リトの両手が、春菜の背から肩へと移る。潤み揺れる対の泉が、斜め上に、しかし真っ直ぐにリトを見つめた。リトの手がゆっくりと、左右対称に動く。その両手がこの上なく繊細に春菜の頬に触れた。慈しむように。愛でるように。涙のラインをそっと指でなぞった。あまりにも優しいリトの表情に、心臓が止まってしまいそうだった。春菜は3つ数えて、瞳を閉じた。そっと爪先立って、顔の高さを合わせた。ゆっくりと、重なる唇。触れ合うだけのキス。真っ白な頭と、痺れるような甘い感触。悦びの涙が、今度はリトの手を濡らしていった。唇が離れると、春菜はリトに身体を預けた。そしてずっと、そのままでいた。相手の鼓動を聞きながら、唇の余韻を反芻しながら。木々がそよぐ柔らかな音の中で、二人はいつまでも抱き合い続けた。「あ、あの、あのさ」春菜の家への、帰り道。リトがそれまで以上に詰まりながら話しかける。「な、なあに……?」春菜の方も、スムーズに返せない。二人は永遠にも近い誓いを刻んだ。しかし二人のやり取りは、照れすらも入り込めないほどの初々しさに満ちている。「は、春菜ちゃんって……呼んでもいい?」リトが顔を真っ赤にして告げる。数瞬キョトンとした春菜の顔も、同じ色に染まっていく。「あ、いや! その、俺の頭の中だと西連寺はいつも春菜ちゃんで……。って、何言ってんだろ俺。ごめん!」そのまま固まってしまうリト。そんな出来立ての恋人に、春菜の胸は愛しさで一杯になる。昨日までは、こんなとき常に切なさが伴った。だけど、今は。「結城くん……謝っちゃダメだよ?」満開の笑顔が咲いた。リトの胸をマグニチュード8クラスの振動が襲った。可愛い。可愛すぎる。「結城くん」それは、話を続けるための呼びかけではない。リトはゴクリと一つ唾を飲み込んだ。「春菜ちゃん」同時に息を吐き出す。そして、顔を見合わせて笑う。傍から見たら、完全なバカップルだ。だけど二人にとっては、ものすごく大切で大きな一歩だった。そして今度は春菜が。「その代わり、ね?」恥ずかしそうにポソポソと、小さな声で。だけど、それでもちゃんと言う。「明日も……一緒に帰りたい」だって、もうすれ違わないと決めたから。リトは最高の笑顔で頷いた。これからはどんな小さなことでも、分け合えるように。二人の想いが一度でも多く、互いの心を往復するように―――
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