(えーと、確かこの辺りよね……) 目の前には見覚えのある景色が広がっていた。しかしそこから自信は生まれない。やはり、自信が無いのに届け物なんて止めておけば良かったのかもしれない。 今更ながら後悔し、唯は小さくため息をついた。 鞄の中に入った二枚のプリント。六時間目に配られた宿題のプリントだ。それを届ける事が唯のここに居る理由だった。 さかのぼる事数時間前。昼休みが始まってすぐ、ララさんと結城君は二人してどこかへ行ってしまった。 どこに行ったかは分からない。ただ、意気揚々とした様子のララさんに対し、結城君がララさんに襟首を掴まれ無理矢理引っ張られながら「助けてくれー!」などと叫んでいた事から、いい事ではないという事は容易に理解できる。 あの娘が転校してきてから、私もよくトラブルに巻き込まれる。けれど私など、まだましな方だ。一番の被害者は、ララさんの一番近くの人間、結城リト。 トラブルに巻き込まれた後の彼のやつれた表情には毎度同情させられる。(あ、あれだ) それらしき建物を見つけ、唯はその建物に走り寄る。表札を確認すると、表札には結城の二文字。間違いない。 ようやく目的地についたと安心した唯は、一息つくとチャイムを鳴らした。「はーい、今出ます!」 ドアの向こうから聞こえた声は女性のもの。少なくともララさんのものとは違う。誰だろうか。まさか結城君の彼女?色々思考を巡らせるが、考えれば考える程不安が募るばかり。 扉の向こうから出てきたのが、小学生くらいの女の子だった事に安心した。 この子には見覚えがある。結城君の妹で、名前は確か……「美柑ちゃん……だったかしら。結城君か、ララさんはいないの?」 美柑は一瞬呆けた表情を浮かべたけれど、すぐに記憶の存在と一致したのだろう。次の瞬間、晴れやかな笑顔を浮かべて言った。「あぁ、リトとララさんのお友達ですね。今はまだ二人とも帰ってきてませんけど、何かあったんですか?」「ええ、昼休みに二人してどこかへ行ったっきり、帰って来ないのよ」「そうなんですか」 私の説明に、美柑はふぅと呆れたようなため息をつく。最早このようなトラブル日常茶飯事なのだろう。 呆れこそすれ、驚くや心配するなどの感情はもうないようだ。「あの、とりあえず上がって待っていてください。二人とも、多分もうすぐ返って来ますので」 その言葉に驚いたのは私の方。私はプリントを届けに来ただけだ。家に上がる気なんて更々……いや、少しは興味あるけど……でもやはり、家にあがる訳にはいかない。「いいのよそんな、私はただプリントを届けに来ただけで、そんなに気を使ってくれなくても」「わざわざ家にまで来てもらったのに、何のお構いもしないで返すなんて失礼です。ゆっくりしていってください。飲み物とお菓子くらいしか出せませんが」 そこまで言われてはお邪魔しない方が失礼だ。お言葉に甘えて家にあがる事にする。 美柑は私をリビングに通してソファーに座らせてすぐにキッチンへと向かった。早速飲み物とお菓子を用意しに行ったのだろう。 手持ちぶさたになり、辺りをキョロキョロと見回す。綺麗に片付いていて、居心地がいい。ここには一度来た事がある。 あの時も、ララさんの事でトラブルに巻き込まれたんだったな。確かあれは……「お待たせしました」 過去に思考を飛ばしていたところに美柑の声。その声の方向に視線を向けると、お盆にジュースとお菓子を乗せた美柑の姿。「ありがとう。ごめんね、何も手伝えなくて」「いいえ、お客さまはゆっくりしていてください」 そう言いながら、てきぱきと準備をする。テーブルに並べられるジュースにお菓子。 本当に出来た子だと感心する。「あの、お名前は?」「あぁ、古手川唯よ。唯でいいわ」「はい、唯さん。あの……いつもリトが迷惑をかけてしまって、すみません」「え?」 先程までの笑顔が消え、代わりに浮かんだ落ち込んだ表情に困惑する。「リトの学校での素行はよく知りませんが、酷いんでしょう?人畜無害そうな顔をして実は有害生物ですから、アイツ」 人畜無害そうな有害生物。確かに結城君はその条件に当てはまる。 今まで何度心を許しかけ、今まで何度それを裏切られた事か。 でもそれはそれ。美柑の責任ではないのだから、美柑が謝る事ではない。 私は俯きかげんの美柑の頭を撫でる。それに驚いたのか、美柑は顔を上げ、目を丸くした。「どうしてあなたが謝るの?悪いのは全部結城君よ。あなたは何も悪くないわ。それにね、結城君にはいいところだってあって、決して悪いばかりじゃないの。たまにはかっこよかったりするし……」 そう。結城君は悪い人ではない。弱いくせに不良や怪物から私を守ってくれたり、いいところだってたくさんある。 結城君は優しくて、素敵な人。結城君は酷い人なんかじゃない。「そっか、唯さんは……」「え?何?」「いいえ。なんでもありません」 美柑の表情は、もう落ち込んだものではなかった。その代わり、なんだろう。笑顔なのだけれど、不自然というか、含みのあるような笑顔。 何かを知って、それに喜んでいるような。「唯さん?」「あっ、いいえ。なんでもないわ」 疑うのは良くないわよね。とにかく、美柑ちゃんの笑顔が戻ったのだから、それで良かったとしなきゃ。 それから色々な話をした。美柑は学校の様子を知りたがったし、私は家での結城君の様子を知りたがった。ダメな兄をもつ妹という境遇でも話が弾んだ。とても楽しい時間が過ぎていく。 気付けば、私が結城君の家にあがってから三十分近くの時間が経過していた。すぐに帰るつもりが、ついつい長居してしまったらしい。二人はまだ帰って来ない。「二人とも、帰って来ませんね」「そうね。今頃何してるのかしら」 探しに行きたくとも、どこに行ったのか分からない。ララさんは宇宙人なのだ。宇宙にまで行かれてしまってはそれこそ探しようがない。 待つだけというのは歯がゆい。なくなったお菓子を見て、私は小さくため息をついた。「そうだ!唯さん、リトの部屋、見たくありませんか!」「へっ?」 それは美柑ちゃんの突然の思いつき。あまりにも突拍子のない事ですっとんきょうな声をあげてしまった。*****「ゆっくり見ていて構いませんよ。もう少ししたら、飲み物とかお菓子持ってきます」 その言葉と共に背後の扉が閉められる。私はその背中にかけられた声に反応する事もできず、その場にただ立ち尽くしていた。「結局来ちゃった……」 ここが結城君の部屋らしい。もっと不潔な感じだと思っていたけれど、思っていたよりも清潔で綺麗。整理整頓もきちんとされていて、私の愚兄の部屋とは似ても似つかない。 部屋全体を見回す視線は一ヶ所に留まる。結城君の勉強机。教科書や辞書が整頓されて並んでいる。少しだけ散らばった消しカスが生活感を感じさせた。 結城君は、いつもここで勉強してるんだ。 授業中の真剣な横顔を思い出す。きっとここで勉強する時も、あんな真剣な表情をしているんだろうな。 次に視線が向かったのは本棚。漫画本がところ狭しと並んでいる。本屋に行くと良く目にするタイトルや、全く見覚えのないタイトルまで様々だ。 結城君、こんな本読むんだ。一冊手に取って、パラパラとめくってみる。どうやらバトルものの様だ。こういうのが面白いのかな?男の子の趣味は理解できないけど、機会があれば読んでみようかな。 漫画本を本棚に戻し、もう一度辺りを見回すと、視線がある一点に止まった。まるで縫い付けられたかのようにそこから目が話せなくなる。 視線の先には、結城君のものなのだろうベッド。 試しに座ってみる。柔らかくて座り心地がいい。寝心地も良さそうだ。 結城君はいつもここで寝てるんだ。少し布団に寄っていたしわを正す。布団に手を当てると、結城君がここから離れて随分経つというのに、優しい体温を感じた気がした。 ここが結城君の生活の場所。生活の基盤。結城君の空間。机、椅子に、本に、鉛筆の一本にまで、色々な場所に結城君を感じては、胸が温かくなる。 いつ生まれたのかしれないこの気持ちに戸惑うばかりの私だったけれど、この想いはこんな幸せな気持ちを与えてくれる。「これはなんだろ?」 次に手に取ったのは目覚まし時計。それに、シールのようなものが貼られていた。「これ……」 目覚まし時計に貼られていたのはプリクラ。疲れきった表情の結城君に対し、満面の笑顔のララさんが二人で写っている。とても二人らしい写真だ。 そうだ。そういえば、ララさんと結城君は同居しているんだ。 美柑ちゃんが言っていた。今でも、三日に一度はララさんが結城君の部屋で一緒に寝ている、と。 もしかして結城君……ララさんと……。「そんな筈ないっ!」 思わず声に出して否定してしまった。全く、何を考えているのよ私は。ハレンチだわ。 頭を思いきり振り、不浄極まりない考えを追い払う。 思考がようやく落ち着いた頃、私はベッドに大の字に寝転んだ。「全く、私、何してるんだろ……」 結城君の一挙一動に怒ったり、喜んだり、ドキドキしたり。結城君の事で一喜一憂してしまう私は私らしくない。本当にどうにかしてしまったんじゃなかろうかと思うくらい。 こんな感情初めてで、どう付き合えばいいのか分からない。 私はいつだって、問題をすぐに解決してきた。宿題は出された当日にやったし、分からない問題があれば先生に聞いたり参考書を見たりして理解する努力をした。 委員会やクラス決めにも率先して参加して、早期の解決に積極的に取り組んだ。 でも、この問題は難しすぎる。どの参考書を読めば解決法が載っているのか、どんな先生に聞けば答えを教えてくれるのかすら分からない。 解決法の分からない問題程、難しいものはない。 その時、扉の開く音がした。美柑がお菓子とお茶を持ってくると言っていた事も同時に思い出す。きっと美柑ちゃんだろう。「あっ、美柑ちゃ……」「古手川?」 しかし、そこにいたのは美柑ではなかった。そこにいたのは結城君。手にはお菓子と飲み物の乗ったお盆を持っていて、呆然とした表情を浮かべている。 先程までずっと思考を支配していた相手が目の前にいる。それだけで恥ずかしさが込み上げる。鼓動が速まり、顔が紅潮する。 紅く染まった顔を見られたくないとか、急に込み上げた恥ずかしさを紛れさせるとか、一瞬の間に色々な考えが脳内で巡り巡って、気付けば私は結城君に枕を投げつけていた。「きゃあーっ!」「ぶっ!」 その枕は結城君が手に持っていたお盆に命中し、お盆の中の物が散らばる。お菓子は小袋入りの物だったから床に散らばってもそんなに被害はなかったけれど、結城君の顔には、コップの中身が思いきりかかってしまった。「あ……」*****「ご……ごめんなさい……私……」「まぁ、終わった事だし、もういいよ。理由は聞かないでおく」 片付けが一通り終わった後の二人きりの空間で、私はいたたまれない思いでいた。 明らかに私のせいで結城君に迷惑をかけてしまった。結城君はもういいというけれど、私は何度謝っても謝り足りない。「本当にごめんなさい……」「もういいって。だからさ、そんなに落ち込んだ顔するなよ。らしくないぞ」 分かってる。今の私は私らしくない。私はいつも勝ち気で、間違った事を間違っているとはっきり指摘する。しかし、だからこそ、私は私自身の間違いをなかなか許せない。「でも……」「本当にもういいからさ、そういえばどうしてここにきたんだよ。帰ってきたら、美柑が客がいるからって言って菓子と飲み物が乗った盆持たされてさ。そんで来てみたら古手川で。びっくりしたよ」 その言葉に、ようやくここに来た理由を思い出す。私が今日ここに来た理由を戸惑いながらも説明し二人分のプリントを渡すと、結城君は笑ってお礼を言ってくれた。 その仕草に鼓動が速まると同時に、不思議と気が晴れる思いがして私はやっと結城君の前で笑顔を浮かべる事ができた。 それからの時間は楽しいものだった。お互いに気を許して色々な話をした。実は、異性の部屋に訪問するなんて小学生の時以来の事だったのだけれど、こんなに気兼ねなく話せたのはきっと相手が結城君だから。 結城君の笑顔が目の前にある。私だけに向ける笑顔。私が話を始めれば真剣に聞いてくれて、要所要所で相槌を打ってくれる。話が弾んで、漫画本を貸してもらう約束まで取りつけてしまった。 ふいに視線を逸らした時、ある物が目に入った。それは、ララさんと結城君のプリクラが貼ってある目覚まし時計。それを見て浮かんだ疑問を素直にぶつける。「ねぇ、どうしてこんなところにプリクラなんて貼ってるの?」 ああ、と結城君は納得したように呟く。「朝起きたら、まず目覚まし時計止めるだろ。そんときに必ず時計を見るじゃんか。だからララが『朝一番にリトに私を見てほしい』なんて事言ってそこに貼ったってわけ」 あいつも変な事考えるよな、と、結城君は笑う。私はララさんの乙女の部分を垣間見て、少し戸惑っていた。 そっか。ララさん、結城君の事が好きなんだよね。そんなこと皆知ってる。ララさんの行動、言動の随所に結城君を想う気持ちがにじみ出ている。 それらが空回りしている感は否めないけれど、彼女は真っ直ぐに好きな人に気持ちを示している。ひねくれ者の私とは正反対。 プリクラに写るララさんはとても幸せそうで、見ているこっちまで笑顔になってしまう。好きな人と好きな時間を過ごせると、こんな表情ができるのかな。なんだか……「……羨ましいな」「え?」 ボソリと呟くような声だったけれど、この狭い空間。結城君には聞こえてしまったよう。 私は失言を口走った口をおさえるけれど、もう手遅れ。「羨ましい?」「ちっ、違うわよっ!別に、羨ましいとか、そんな……」 慌てて弁解するけれど、いい言葉が出て来ない。羞恥にまた顔が紅く染まる。私の言動に不思議そうな顔をしてなにやら考えていた結城君は、納得したように頷いて言った。「プリクラ好きなのか?」「別にっ…そんな事っ…!」 プリクラに興味なんてない。ただ、結城君と写ってるララさんがなんだか羨ましくて……。なんて、こんな事、言える筈ない。 言ったら笑われちゃうのが関の山だもの。 それ以上の弁解も出来ず、私は黙りこむ。その様子に、結城君は勝手に解釈して納得したようだった。「じゃあ、今度一緒にプリクラ撮ろうな」「えっ!?」 それって、もしかしてデートの誘い?そんな、いきなりそんな事言われても、どう答えたらいいか……。「そういえば古手川も入れて遊びに行く事、あまりなかったからな。今度皆で遊びに行こう。猿山にララに、春菜ちゃんも入れたいな。それから……」「ち、違う!そうじゃないの!私は二人で……!」 指を折りながら考え事をする結城君に、思いきり声を荒げて否定してしまった。次の瞬間、しまったと両手で口をおさえる。結城君は面食らった顔をして私を見つめていた。「こ…古手川?」 いきなり声を荒げて叫ばれたのだ。戸惑うのは当たり前だ。けれど戸惑っているのは私も同じ。 咄嗟に言ってしまった本心。結城君はその続きを求めている。もう後戻りはできない。言うしかない。言うしかないんだ。「ふ…二人で…」「二人で?」 心臓の音がうるさい。顔が熱い。結城君の顔が真っ直ぐ見れない。口がカラカラに乾く。これが勇気を振り絞るという事? 不良に注意する時より、全校集会で壇上に上がる時よりも緊張する。「二人でプリクラ撮りたいって言ってるの!」 結局口をついて出たのは、本心とは違う事。全くの……という程ではないけれど、でまかせ。「ああ、そうだな。二人で撮ろう」 結城君は私の言葉に納得したようだった。そしてもう一度、遊びに行く計画を組み立てる。 あー、もう!私のバカ!こんな事が言いたいんじゃないのに。本当は二人きりでお出掛けしたかった。二人きりで待ち合わせして、お買い物して、映画を見て、ご飯を食べて。 けどそんな大胆な事言えなくて、誤魔化してしまった。素直になれない自分が心底嫌になる。「古手川」「ん?何よ」「楽しみだなっ」 私の心中なんて全然分かっていないような、気楽な笑顔。それは心底楽しそうな笑顔で、顔と胸が熱くなる。 そうよ。別に悲観する事はない。二人きりではないにしろ、一緒に遊びに行く約束は取りつけたも同然。 今までトラブルに巻き込まれるという形で皆と一緒に行動するという事はあったけれど、考えて見れば普通に皆と出かける事は少なかった。 おめかししていこう。服も新調しなきゃ。結城君、どんな服が好みなのかな?色々な事を考える。それが凄く幸せ。 それよりもまずは……「ええ、凄く楽しみね」 にっこり笑って結城君に言う。そう。少しずつでも、素直になる事から始めよう。 方程式のない難問があるなら、その方程式すら自分の力で見つけてしまえばいい。 参考書がなくたって、教えてくれる先生がいなくたって構わない。 素直になれる方程式、いつか自分の力で解き明かしてみせる。―End―
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