リトが複数の女性を伴侶にして、将来の家庭をシミュレーションするという体感ゲーム。そんな衝撃のゲームが開始されてから一夜が過ぎた。「…朝か…」唯は目を覚ました。鏡を見ずとも目が腫れているのがわかる。『だいぶ泣いたからなぁ…』「唯?もう起きてるか?」唯の兄、遊が唯の部屋のドアをノックした。「あ!待って!今着替えてるからっ!」唯は大急ぎでクローゼットを漁り出した。唯は大急ぎで着替えるとできるだけ平然を装って部屋から出た。「もう10時だぜ?夏休みでも規則正しい生活をしてるお前が珍しいな。何かあったのかか?」「まあ、私でもたまには寝坊することもあるわよ」唯は笑顔を作ってそう言ったが、遊は唯の目が腫れていることにすぐに気づいた。『こいつがここまで泣くなんて、きっとアイツ絡みだな…』そして唯についいつものノリで話しかけてしまった。「目が腫れてるな。リトの奴と喧嘩でもしたのか?」「なっ…!これは別に…。その…昨日の夜友達から借りた小説を読んでちょっと泣いちゃっただけよっ…!別に結城君なんか…結城君…なんか…」唯の口からリトの名前が出てくるとともに唯の声は小さくなっていく。そして声の代わりに彼女の目から大粒の涙がこぼれた。「…うっ…私…どうして…」その様子を見た遊は唯にかける言葉をなくす。「唯…。悪かったよ。不用意にあいつの名前なんか出しちまって…。母さんに顔見られたくないなら部屋にいろよ。朝飯持って行ってやるからさ」遊はそういうと唯に背を向けて階段を下りて行った。
唯は部屋に戻ると昨日の夜自分のケータイが鳴っていたのを思い出した。「そういえば、昨日の電話、誰だったのかしら…」着信の相手を確認する。「西連寺さん…」唯は一度深呼吸して心を落ち着かせてから春菜に電話をかけた。一回のコールの後春菜が電話に出る。まるで自分からの電話を待ち構えていたように。「古手川さん?昨日は大丈夫だった?」どうやら彼女は自分のことを心配して電話をかけてくれたらしい。「なんのこと?」唯は春菜が自分のことを心配してくれているのがわかっていたが、つい強がってとぼけてしまった。「だって、結城君があんなことになって…」「ああ…。まあ破廉恥な人だとは思ってたけど、あそこまでとは思わなかったわ。私はあのゲームには付き合いきれないし、やりたい人だけで勝手にしてればいいのよ」 唯の言葉の後、重苦しい沈黙の時間が流れた。そして…「嘘だ」春菜のその言葉にはいつもの穏やかさは無かった。短いが、それでいてその言葉は唯の心のど真ん中に突き刺さった。「強がらなくていいのに」春菜には唯の気持ちがわかっていた。本当はリトのことが好きで好きで仕方ない。たとえリトが他の女性と関係を持ったとしても、そう簡単に気持ちは変えられない。 春菜にわからなかったことは唯の気持ちのやり場だった。いや、そもそも想いをぶつけられる場所などあるのだろうか?きっと唯の気持ちは自分と同じで、春菜にとってもリトがゲームの中とはいえ何人もの女性と交わっていった事実はショックだった。 「…強がってなんかないわよ…。でも、心配してくれてありがとう、西連寺さん」唯は弱々しく礼を言うと電話を切った。 「あっ…古手川さ…」電話の向こうからするツーツーという音が春菜の耳にやけに残った。 「…マロン。散歩行こっか」春菜と秋穂の愛犬、マロンは先ほどから深刻な様子だった春菜をじっと見つめていたが、春菜が散歩に行こうと言うと尻尾をふって喜んだ。 春菜がマンションを出ると、そこには予期せぬ人物の姿があった。「…結城君…?」目を丸くする春菜の前にはリトが立っていた。「西連寺…。マロンの散歩に行くのか?」「え?…うん…」「そっか…。邪魔しちゃ悪いよな。じゃあ俺はこれで…」リトはバツの悪そうな顔をするとその場から立ち去ろうとした。しかし後から春菜に声を掛けられて立ち止まる。「待って、結城君。よかったら一緒に行かない?」二人並んで歩くリトと春菜。しかしお互いに声をかけづらい空気が漂っており、二人は黙りこんでいた。マロンも主人の様子を察してか、いつもよりかなりゆっくりと歩いていた。春菜はチラチラとリトの様子を窺うが、リトは春菜と視線が合うとすぐに目をそらしてしまった。こうなることはわかっていたはずなのに、春菜はどうしてもリトと一緒にいたかった。本当は昨日の件のことをリトがどう思っているのかが知りたい。昨日の件はモモにいきなりハーレム生活を送ってみろと言われ、かつ御門が悪ノリしたためリトもつい魔がさしただけかもしれない。それに、なにより気になったのはリトが自分のことをどう思っているのか。自分があのゲームの参加者に選ばれた以上、リトが少しでも自分のことを気にかけているのではないかという淡い期待もあった。「…西連寺」リトの声が沈黙を破り、二人の空気がさらに張り詰めたものに変わった。「昨日はごめん…」ふと出てきたリトの謝罪の言葉。それは春菜の想いを少しだけ裏切った。「いきなり目の前であんなことしちゃって…、その…なんつーか…驚かせちゃったよな…?」きっと自分の目の前で御門、ララ、モモ、ルン、里紗と交わったことを言っているのだろう。ああ、やっぱり結城君は優しいから謝りに来ただけで、別に私のことが特別どうこうってわけじゃないんだ…。春菜の心の中にふとそんな考えがよぎった。春菜はリトの方を悲しそうな目で見た。二人はいつの間にか歩みを止めており、周囲から一切の音が消える。リトには春菜の言葉、そして春菜にはリトの言葉しかもう届かない。 「…西連寺、俺、昨日のことが終わってから、すっげー後悔したんだ…」リトが言葉を続けるものの、静寂はまだ解けない。「だって、俺、初恋の相手に想いも伝えないままあんなことしちゃったから…」結城君の初恋の相手…?「何を今更って思うかもしれないけど、俺の初恋の相手って…」そのとき音もなく風が吹いた。「西連寺、君なんだ」え…?今何て…「そして…その初恋の相手のこと、今でも好きです」少しだけ風の音が聞こえた。春菜の目からポロリと涙がこぼれた。冷たい静寂が熱い雫で溶かされていく。「西連寺…?ご…ごめん!いきなりこんなこと言ったってダメだよな…?」春菜の涙を目の当たりにしたリトは慌てふためく。「…違うの…。私だって結城君のこと好きだから…」涙声のまま春菜がリトに想いを伝える。「私だって結城君のそばにいたいです…。もう二度と遠くから見てるだけにはなりたくないの…」そのときリトが春菜の手を取った。少しためらいがちに、それでもきっと、それが今の彼の精一杯なのだろう。「結城君…」春菜は顔を上げる。涙で視界はぼやけていたが、手に伝わる感触が彼が自分のすぐそばにいることを教えてくれる。春菜がリトの手を握り返すと、リトの手からためらいが消えた。そのまま春菜を抱きしめる。「結城君…」春菜はリトの背中に手を回す。「キス…して?」「…うん…」そのまま二人の唇が重なる。優しいキスが二人を二人だけの世界に引きずり込んだ。唇が離れると、春菜はふとリトに尋ねた。「結城君…。キスは何回目?」「現実の世界じゃ、初めてだよ。相手が春菜ちゃんでよかった」つい春菜と下の名前で呼んでしまったことにリトははっとする。その様子を春菜はにこにこと笑って眺めていた。「いいの。もうよそよそしいのは嫌だもん」「これからも一緒にいてね、リトくん」「うん…。でも、春菜ちゃんはいいの?俺、今のままだと…」「他にも女の子がいること?まあ、全く気にならない言ったら嘘だけど、皆大好きな人と一緒がいいのはどこの国でも、たとえ宇宙人でも変わらないんだから、仕方ないよ」
ここで春菜ははっと思いだした。自分が外出した真の目的を。「リトくん…。古手川さんに会ってくれない?」「古手川…?でも、俺が会いに行っても怒らせるだけなんじゃ…」「リトくん!私、本当は古手川さんに会いに行くつもりで外に出たの。今古手川さんはボロボロなの…。だって…」その先の言葉を春菜は呑み込む。ここから先は唯自身が伝えるべきことだから。「…よくわかんねーけど、とにかく古手川に会ってくればいいんだな?行ってくる!」リトはそのまま唯の家に向かって駆け出した。春菜は少し寂しそうな顔でリトの後ろ姿を目で追った。「もう少し、一緒にいればよかったかな…」結ばれた余韻に浸る間もなく、彼は泣いている彼女の元へ行ってしまった。でもいいんだ。ああやって泣いてる人がいたらついその人のところに行ってしまう。そんな彼の優しさに私は惚れてしまったのだから。「さ、行こう。マロン」「バウッ」今まで沈黙を貫いていた愛犬は待ってましたとばかりに尻尾を振った。
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