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女心と秋の空、というが、朝の早いうちは、空も落ち着いているもので、
澄んだ青空の下、始業の一時間前、校舎には生徒の声は聞こえなかった。

校舎の一階では、黒髪の美少女―――― お静が、保健室の窓を開ける。

先生が朝寝坊だから、勤勉な助手が部屋を開けることになるのだろう。

もっとも、お静の屈託のない笑顔を見ると、この役を楽しんでいるようで、
世間と関わることの少なかった彼女は、働くことが面白いのかもしれない。

ともあれ、お静は床の掃除を済ませると、窓辺に椅子を引っ張っていって、
ちょこんと座ると、ミニ・スカートの膝の上で、持ってきた包みを開いた。

丸いおむすびが二つ、真っ白に輝いていて、お静の目もきらきらと輝いた。

実際、彼女の食べ物に対する執着というのは、並々ならぬものがあるようで、
荒んだ世に生まれ、荒んだ時代に生きたことを思えば、無理もない話である。

おむすびをパクつきながら、お静は顔を上げて、ふと遠い目をした――――

四百年ほど昔のこと、村雨静は、庄屋の一人娘として、この地に生を享けた。

幕府の開かれる前のことで、戦は絶えず、凶作が続いて、ひどい有様になって、
人は飢えて死んでいき、その亡骸を野犬が荒らし、その野犬を人が喰っていた。

お静の家は庄屋だから、ずいぶんマシだったが、娘盛りになっても痩せていた。

ある朝―――― やはり、こんな秋晴れの日に、お静は一人で森へ入った。

美しい小さな森だったが、昔から、お化けが出る、という言い伝えがあって、
誰も足を踏み入れないので、木の実などが手付かずで残っているはずだった。

お静も最初のうちは、お化けに出くわしたらどうしよ、と震えていたのだが、
秋の実りを目の前にして、そんな恐れなどは、どこかへ吹き飛んでしまった。

手近の木に走り寄ると、着物の裾が乱れるのもかまわず、不恰好によじ登って、
無数の木の実を食べ散らかした嬉しさ、懐に詰め込んで、家路を辿る誇らしさ。

しかし、これが元で、家に帰った彼女は、腹痛を起こして世を去ったのである。

年を享くること十七、幸薄き生涯なり―――― と、それで終わるはずだった。

しかし、お静の魂は、身体を抜け出て、成仏せずに、この世に漂うことになって、
早い話が、お化けに出くわす代わりに、自分がお化けになってしまったのである。

そして、長い年月を過ごすうち、色々な人生を垣間見ることになった――――

 

 

 

 

 

 

 


そうですね…… 長いあいだ、幽霊として生きて、いろいろなものを見ました。
たいていは忘れてしまいましたが、どうしても忘れられないこともありますよ。

あれは…… そう、文政七年、徳川の世もうしろのほうの、冬のことでした。

そのころは、このあたりも、大山街道の宿場として、たいへん栄えていました。
商いをするかたは、たいそう羽振りがよく、一方で、ふところの寒いかたも……

私の生まれた家は、そのころ長屋になっていて、私はそのあたりにいましたが、
そこの店子に、ひとりのお侍さんがいて、結城梨之助さま、というお名前でした。

もさもさの髪に、よれよれの着物、腰の刀の似合わない、やさしそうなかたで、
若いのに、仕官の望みを持つでもなく、のんびりと日々を暮らしていたのですが、
近ごろになって、とみに金策に走りまわるようになって、そのわけというのが……

「今帰ったぞ、ヤミ、今日はそちに、今川焼きを買ってきた」

それを聞いて、黒小袖の女のかたが、読んでいた黄表紙から顔をあげました。

「……おかえりなさい、結城梨之助」

このかたは、結城さまのご新造さんなのですが、武家のかたではないようで、
祭りの夜に、とつぜん転がりこんできたのを、結城さまがかくまったのです。

ものを言わない、素性の知れないかたですが、結城さまは、詮索するでもなく、
夫婦の契りを交わし、おふたりで暮らしはじめたのが、ふた月前のことでした。

近ごろ、金策にいそがしいのは、そのようにして食い扶持がふえたからで、
おみやげを買ってきたところを見ると、今日もまた駄目だったのでしょう。

おふたりは、火鉢をはさんで向かいあい、もくもくと今川焼きを食べました。
夕暮れの影が障子にさして、そのすき間から、冷たい風が吹きこんできます。

「すまぬ、ヤミ、今日もほうぼう歩いたのだが」
「……そうですか」
「甲斐性のないことだ、そちにも苦労をかけるな」
「私が無理に、置いてもらっているのですから」

結城さまは、それを聞いて、さみしげに笑い、ごろんと横になりました……

夜もふけて、行灯の火を吹き消すと、おふたりは襦袢ひとつで床へ入りました。
ふとんは一組しかありませんが、寒い夜は、そのほうがいいのかもしれません。

結城さまが、かじかんだ手を伸ばして、襦袢ごしにヤミさんの胸にふれると、
ヤミさんは、暗がりの中でもわかるほどに、ほほを赤くして、つぶやきました。

「……色っぽぃのは、きらいです」



しばらく襦袢のうえで遊んでいた手が、衿をわけて、中へ入っていきました。

ヤミさんは、ちいさく肩をふるわせ、夜具の襟で顔をかくそうとしましたが、
結城さまは、のしかかるようにして顔を近寄せると、口と口を合わせました。

そして、あごから白い頸へ、唇がすべっていって、胸元を探っていた手を引き、
前をはだけると、小ぶりな胸に舌を這わせ、先の薄紅色を口にふくみました。

せつない息を刻んで、それでも夜具の下で、裾を直そうと、もがいているのを、
ふとんをはねのけ、両足をとらえて、ぐっと上へ持ちあげるように開きます。

驚いて、畳へ逃れようとする太股の、かわらけのような付け根に顔をうずめ、
舌を伸ばして、気忙しく探りながら、奥深いところへ入りこんでいきました。

大きくひらいた両足が、ひきつったように震えて、その足の指先はちぢこまり、
この世もあらぬ声をたてて、あわてて袂を咬んだところへ、髪が落ちかかって、
かたん、と枕が外れると、合わせたように、夜回りの拍子木が聞こえました……

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「……囲まれたようですね」

結城さまが驚いて起きあがると、ヤミさんは、黒小袖をまとっていました。

わずかの間、結城さまの目を見つめてから、パッと外へ飛び出していきました。

結城さまもあわてて刀をつかみ、外へ出ると、闇に浮かんだ、御用提灯の波!

――――女盗賊ヤミ、神妙にお縄を頂戴しろッ

あおぎ見たのは屋根の上、金色にかがやく月を背に、すらりと映えた黒い影。

――――御用ッ 御用ッ 御用ッ

捕り手が迫ればその影は、疾風のように走り出し、あちらと思えばまたこちら、
屋根から屋根へ飛び移り、やま猫のごとき身の軽さ、さんざん捕り手を翻弄し、
ひらりと間近に舞い降りて、髪が伸びたと見えたのは、手練のわざの鎖がま。

戦いは長びき、私も及ばずながら、火の玉を飛ばしたりして、助太刀しました。
唖然としていた結城さまも、ひとつ大きく息を吸って、刀の目釘を改めました。

そして、結城さまが一歩前へ出て、刀の鯉口を切ろうとした、その刹那でした。
捕り手を圧倒していたヤミさんが、動くのをやめて、しずかに首を振ったのです。

そのまま、ヤミさんは、おとなしくお縄について、だまって曳かれていきました。

金色に月のかがやく寒空の下、結城さまは、いつまでも立ち尽くしていました……

 

 

 

 

 


ええ…… それが今生の別れで、それからのことは、私も知らないのです。

ヤミと名乗る盗賊はのちにも現れましたが、それがヤミさんなのかどうか……

結城さまは、まもなく長屋を出て、江戸の市中のほうへ越していきました。

それっきり、私も結城さまと会うことはなくて、世はご維新をむかえました。
そして、私はふたたび、結城の名字を持つかたを、知ることになったのです。

あれは…… 明治三十七年、おろしや国と戦になった年の、春のことでした。

そのころ、このあたりには練兵場があったので、兵営がたくさんできました。
私の家のあったところも、兵舎のひとつで、それで、そのあたりにいたのです。

軍人さんは、みんなこわい顔をしていて、戦になってから、なおさらでしたが、
その中に、おとなしそうな少尉さんがいて、結城梨太郎さん、というのでした。

空を見るのが好きなかたで、いつも、うら庭の芝生に寝ころがっていましたが、
その日も、春の風が、草をそよがせ、きれいな黒っぽい制服を、波うたせて……

「リタロー! 会いたかった!」

およそ場ちがいな、桃色の声が聞こえて、結城少尉が驚いて身体を起こすと、
まっすぐ胸に飛びこんできたのは、百合の花のような、あふたぬーん・どれす。

このかたこそ、おろしや国の伯爵令嬢…… たしか、ラーラ嬢とか、ララ嬢とか。

「ララさん! 交換船に乗らなかったんですか?」
「私、リタローのそばにいたかったから、残ったの!」
「露探の疑いで捕まったりしたら、どうする気です!」

戦のさなかに、敵方の恋人に会う、というのは、私の時代にもあった話ですが、
軍人さんが相手で、兵営を訪ねてくるというのは、たいへんな度胸だと思います。

そんな調子で、ララ嬢はもの怖じすることなく、まっすぐ結城少尉の目を見て、
温泉での逢瀬のあと、どんなに恋しく、焦がれていたか、あけすけに語りました。

そればかりか、結城少尉の両手をとって、しべりあへ逃げよう、と誘うのでした。
しべりあは、おろしや国の果てにある、夏のないところで、氷の世界だそうです。

「無茶を言わないでください、私は軍人なんです」

結城少尉は困ったように笑いましたが、ララ嬢はしべりあの話をつづけます。
満月の夜、氷は蒼くかがやき、その上をそりに乗って、ふたりでどこまでも……

「そいつは素敵でしょうが、ララさん、私は大日本帝国の……」
「祖国よりも…… 私、リタローが好き、世界で一番好きです」



結城少尉が答えずにいると、ララ嬢はほほを染めて、制服の袖を引きました。

そして、ほの暗い木蔭へといざなうのですが、結城少尉は首を振るばかりで、
動かないもので、私はちょっとだけ念力を使って、背中を押してしまいました。

ララ嬢は、草のしとねに、結城少尉を押し倒すようにして、身体をすりつけると、
裳裾の乱れるのもかまわずに、脚を両脚ではさみこんで、胸に胸をかさねました。

結城少尉の頬もほの赤く上気し、その頬に、まぶたに、接吻の雨がふりそそぎ、
ララ嬢の手が、結城少尉の手首をとらえて、自分の腰のほうへ導いていきます。

そして、すかーとに潜りこんだ手は、ふるえていたようで、ララ嬢の肩もふるえ、
白い下着が剥ぎとられて破れたのと、ずぼんの釦がはずされたのが、同時でした。

脈打つものが、望む相手に出会うだろうと思われるところへ、招き寄せられて、
ぐいっと身体がゆれると、嬌声とともに、しなやかな背が弓なりに反りました。

もみこむような動きに、はねる髪の先、とぎれとぎれの言葉に、激しい息づかい。

そして、動きは速まっていき、ふるえて、はずんで、ララ嬢の叫び、ひきつって、
死んだかと思うような静止のあと、倒れこんで、しがみつき、抱きあうのでした。

しばらくのあいだ、溶けあったように、ぴくりとも動かず、春の風が撫でていき、
ようやく身体を起こし、腰を浮かすと、ふたりは、ごろりと草の上へ寝そべって、
ララ嬢は、弱々しく笑い、両脚をくねらせて、奥には白いものがかすれました……

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「……ララさん、結婚しましょう」

結城少尉のつぶやきに、ララ嬢は、鈴を張ったような目を、さらに見張りました。

そして、ひとすじの涙とともに、結城少尉の首に、ぎゅっと抱きついたのでした。

次の日、ニコライ堂という耶蘇の寺院で、ふたりだけの婚礼がおこなわれました。

そして、一週間も経たないうちに、結城少尉は、戦火の大陸へ出征したのですが、
聞けば、ララ嬢の訪ねてきた日には、すでに軍命は下っていたということでした。

出征の日、天気晴朗なれども波高く、ララ嬢は水しぶきの舞う港に立ちました。

――――バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!

見送りの歓呼に送られて、堂々たる軍艦が、ゆっくりと港をはなれていきます。

でっきの上、結城少尉は小ゆるぎもせず、固く敬礼をしたまま、遠ざかっていき、
突堤に立ったララ嬢は、白いはんかちを、いつまでも振りつづけていました……

 

 

 

 

 

 


ええ…… 結城少尉は、それっきり、帰ってくることはありませんでした。

ララ嬢は、長らく日本に暮らしたそうですが、くわしいことはわかりません。

でも、何年も経たないうちに、おろしや国では、ご維新の大きいのが起こって、
ひどい有様になったそうですから、おそらく、お国へは帰らなかったのでは……

それから、しばらくのあいだ、町は栄えましたが、戦があって、焼けました。

そして…… 昭和二十七年、こうわ条約のハッコウした、その年の夏でした。

そのころには、すでに彩南高校ができていて、木造校舎もまだきれいでした。

先生も若いかたが多く、骨川先生などは、女生徒のあこがれの的でしたが、
その中で、美術を教える、結城梨才という先生は、ちょっと変わっていました。

いつも微笑を浮かべて、生徒さんをほったらかし、絵ばかり描いていたのです。

その日も、夜になって正門が閉まったのに、気にせずに、美術室に残っていて、
かんばすの前に腰をすえ、くわえ煙草で、楽しそうに絵筆を走らせていると……

「結城先生! こんな時間まで、何をしてるんですか!」

きつい調子の女の声がして、結城先生が開けっぱなしの戸のほうを見ると、
純白のぶらうすに、紺のぷりーつ・すかーとの、古手川先生が立っていました。

「古手川先生、こんな遅くにどうしたんです?」
「だから、それは、こっちが聞いてるんです!」

古手川先生は、つかつかと歩いてきて、結城先生の前に腕を組んで立ちました。

「いったい、あなたって人は、学校の規則を何だと思って……」

ぷんぷん怒りながら、古手川先生は、電球の下の、かんばすに目をやりました。
そこに描かれていたのは、若い男女のからみあった、なまめかしい春画でした。

「こ、これ…… あぶな絵じゃないの! どういうつもりなの?」
「校長の孫が、ガキのくせに助平なやつで…… 頼まれてね」

古手川先生は、あきれたように首を振って、もう一度ちらり、と絵を見ました。

「こ、こんな、はしたない恰好をする女が、好みなんですか」
「発想のもとは、古手川先生、いつかの夜の、あなたですよ」

そう言って結城先生が笑うと、古手川先生は、耳の付け根まで赤くなりました。

「……は、破廉恥だわ!」



ひらいた窓から、じっとりと湿った風が吹いて、結城先生は立ちあがりました。

そして、ぶらうすの肩を引き寄せようとしたのを、かわされて、追いすがり、
結城先生の伸ばした腕が、古手川先生を壁へ押しつけるかたちになりました。

白い太股のあいだに、ずぼんの足が割りこんで、すかーとの裾がめくれあがり、
絵描きさんらしい細い指が、すうっと入りこんで、ずろーすを撫でまわします。

半びらきになった紅い唇がわななき、なめらかな喉が、むせぶように鳴って、
いつしか、こわばった太股もじわりと汗ばんで、しどけなくなっていました。

そして、ずろーすが引っぱりおろされて、影を残したところがあらわになり、
長い指が根元まで入りこむと、ひとたまりもなく、腰を浮き立たせてしまい、
床のほうへ、ずり落ちていったのを、かんばすの春画が見下ろしていました……

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「私…… 結婚するの」

ぽつり、と発せられたその言葉に、結城先生の唇から、煙草が落ちました。

服を着ながら、古手川先生は、部屋の隅を指さして、そこには革製のとらんく。

「今夜、発つので…… お別れを言おうと思って、来たの」

古手川先生は、郷里へ帰って、ご両親の決めたかたと結婚するのだそうです。
あぷーる・げーる的な肉体の関係に、見切りをつけてしまったのでしょうか。

言葉もないまま、おふたりは学校をあとにして、夜の街を駅へ向かいました。

駅の中はにぎやかで、十時発の夜行列車は、すでに、ほーむに入っていました。
赤帽さんの声、おべんとう売りの声、汽車の蒸気が、しゅーっ、と鳴っています。

古手川先生は、空いた座席にとらんくを置いて、もう一度でっきに立ちました。
ためらいがちに手を差し出すと、結城先生も、何も言わずに、そっと握ります。

「私、やっぱり、古い女なのね」

そんな言葉に、結城先生が何か言おうとしたとき、発車のベルが響きわたって、
汽笛が鳴り、煙が吹いて、がたん、とゆれたかと思うと、すーっ、と動き出して、
それでも客車のドアはひらかれたまま、長い髪が舞って、遠ざかっていきます。

「……好きでした、結城先生」

そんな、つぶやきに似た告白は、ほーむに立つ結城先生に聞こえたでしょうか。

線路のかなたに、赤い灯が小さくなって、あとには煙だけが残っていました……

 

 

 

 

 

 

 


――――お静ちゃん! お静ちゃん!

耳元で呼ぶ声に、お静が我に返ると、親しげな微笑を浮かべた、春菜がいた。

「どうしたの? ぼんやりして」

朝の光の眩しい保健室―――― 廊下が騒がしいのは、始業が近いからだろう。

お静は、ミニ・スカートを穿いた自分の脚を、ぺたぺたと触って確かめた。
春菜の手が、唇のほうへ伸びてきて、口元に付いたごはん粒を取ってくれる。

「春菜さん、呼びにきてくれたんですか?」
「うん…… もうすぐ授業よ、行きましょう」

お静は、うなずいて立ち上がると、窓を閉めて、春菜と二人で保健室を出た。
早くから助手が待っていたのに、御門先生の寝坊も、度が過ぎるようである。

二人は長い廊下を歩いていく―――― 骨川先生と行き会って、黙礼をする。

骨川先生は、定年をはるかに越えて、健在だったが、若い頃の面影はなかった。
お静の耳の奥には、あの日に聞いた、古手川先生の声が、まだ消え残っている。

「……好きでした、結城先生」

ふと、春菜の顔を見る―――― 春菜は、自分の本心をララに告げたという。
いつの日か、リト本人に対して、秘めた思いを打ち明けることになるだろう。

その思いをリトが受け止めて、恋が実る、という結末になるのか、それとも?

教室へ入ったら、リトと目が合って、お静の胸は、ぎゅっと締めつけられた。

「あ、おはよう」

やさしい声も無性に懐かしく、お静はリトに近寄って、ぺたぺたと触った。
意外なふるまいに、リトは取り乱し、春菜もあっけにとられて眺めていた。

やがて、お静は手を止めて、リトの顔を見ると、無量の愛着をこめて言った。

「今度こそ、実ると思います」
「へ? 実るって、何が……」
「あ…… 森の、木の実が……」

ごまかすように、お静が窓の外を見たので、リトも春菜も、一緒に外を見た。

窓から見えるのは、何の変哲もない家々の屋根だけで、もう森はなかったが、
森を覚えている者にとっては、森はそこにあるので、人間も同じことであった。