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――なんなんだろう。この疼(うず)きは。

 手を離されて泣く夢

 ――なんでこんなに胸が痛むんだろう。

 振り向いたお兄ちゃんの顔は優しい

 ――なんでリトとあの人を見てるとこんなに胸が苦しいんだろう。

 いつかはどこかへと消えてしまう笑顔

 ――どうでもいいリトのことなのに。
   リトのことなんかどうでもよかったはずなのに。
   ただ頼りないだけのリトだったのに。
   ただ少し優しいだけのリトだったのに。

   私だけのリトだったのに。

 

 はっと目が醒めて、美柑は薄暗い視界の中に天井の蛍光灯を見つけた。
 頬に伝う冷たい液体の感触に気付いて眼尻に手をやると、
 夢を見ながら自分が泣いていたのだということを美柑は知った。
 ごしごしと手の甲でこすって涙の線を消すと、美柑はベッドに横たわったまま部屋を見回した。
 暗い部屋にカーテンから月の光が一条差し込んで、仄明るさを保っている。
 それは遠い空から射して、この部屋を日常から引き剥がして不思議な色調に染めているのだ。
 美柑はカーテンをじっと見つめていると、喉の渇きを感じている自分に気付いた。
 ゆっくりと体を起こしてみると、夢で見た悲しい予感は少しだけ影を潜めた。
 美柑は音を立てないようにベッドから静かに降りた。
 足の裏に冷たい床の感触が伝わる。
 台所に行くにはまたリトの部屋の前を通るしかなかった。
 
「……ねぇ、リト、またするの?」
 まだ息も荒いあの女の声。
「だって、ララの中、すごい気持ちよくて……」
「もう、えっちなんだから」
 くすっ、と言う淫靡なひびきを含んだ女の笑い。
「いいよ、もう一回、来て……」
「あ、ああ」
 ギシッとベッドが軋む。
「んっ……リト、すごいね。また硬くなってる……」
「う、わぁ……熱い……ララの中…………」
 感極まった、リトのだらしない声。
「ん……リト……あぁっ深いよぉ……」
 女の声が震える。
「う、うぅっ……」
 リトの歯を食い縛ったままの呻きとともに、
 再びギシッギシッとベッドが軋み始める。
「ねぇ、リト……」
 女が、呼吸の合間を縫って喋る。
「これじゃたぶん、すぐ赤ちゃん出来ちゃうね……」
「そうなったら、生んでくれよ……。
 そしたらララのお父さんも認めてくれるんだろ?」
 リトも息継ぎをしながら喋っている。
「うん……一応、星の掟ではそうなってるんだけど……」
 女の不安そうな声。
 ベッドの軋みが止まる。
「でも、もう俺……
 ララなしで暮らしていくことなんて考えられないよ」
「うん、私も、リト」
 唇を吸う、いやらしい音。
 口の中の液体を交換する舌の鳴らす音。
 再び、さっきよりも強くベッドが軋み始める。
「ああ、リト、リトぉっ」「ララ……好きだ」
「私も大好きっ……リト……」「ララ……」
 
 思わず立ち聞きしてしまっていた美柑は耳を塞いで、
 足早にリトの部屋の前を通り抜けた。
 顔が熱く真っ赤になって何も考えられなかった。
 ただ、ひどく喉が渇いていた。
 それだけは、また涙が頬を流れていることよりも確かな感覚だった。

 コップを台所の水道の蛇口に当てて栓をひねると、勢いよく水が噴き出した。
 一瞬溜まるのを待って水を止めると美柑はコップを口に持っていき一気に飲み干した。
 その反動で荒く息をしながら、電気を付けていない暗い台所から、
 同じように暗い居間を見つめていると、美柑の中に一つの台詞が浮かんだ。
 ――なんであんな女と……。
 美柑の目にまたじわっと涙が込み上げてきている。

 突然、ふと何かが歩いてくる音を聞いて、美柑は身を縮こまらせた。
 ゆっくりとその影は居間を通り抜けて冷蔵庫の前に立った。
 暗闇でも慣れた手つきで腕を伸ばして影は冷蔵庫の扉を開けた。
 冷蔵庫のオレンジ色の光が照らし出した影の正体はさっきまで部屋で行為に耽っていたリトだった。
 さっきの行為の余韻なのか、その下で何かが自己主張しているボクサーショーツしかリトは身につけていない。
 ――あの女が来る前よりもずっと広く、大きくなった気がする。
 美柑は思わずリトの体に見入った。
 背中まで筋肉の彫が深くなったような気がするのは気のせいではなく、
 実際にリトの体には雌を手に入れた雄の変化が訪れていた。
 
 リトは表情を変えずに冷蔵庫から何かを取り出した。
 そのまま冷蔵庫を閉めて台所を出て行こうとしたリトと美柑の目が合った。
 リトは、暗闇の中でまっすぐに美柑を見ていた。
 その手にはペリエの瓶が握られている。
 瓶の緑色は月を浴びて静かに光っている。
「美柑……」
 リトが目が合ってから一瞬遅れて口を開いた。
「……っ」
 美柑は何も言えずに走って台所を出て居間を抜け自分の部屋に逃げ込むと、後ろ手に鍵を掛けた。
 ――なんで私があわてなくちゃいけないのよ。
 ――なんで……。
 美柑は布団をかぶると、また声を殺してすすり泣き始めた。
 そしていつしか疲れて眠り始めると、また優しい兄の夢を見た。
 二人きりで。手をつないでくれた兄が先に歩いている夢。
 兄の振り向く顔は優しい。
 その笑顔を、やわらかい手を、リトを、独り占めしていた頃の夢――。
 一日の最後、夕暮れの赤橙色の光が西の空から射している。
 閑散とした住宅街はその赤橙色と虚空の作り出す紫の濃淡に包まれながら、
 そのまま目覚めることのない眠りに落ちていきそうだ。
 そんな予感がどうしようもないほどに不吉で、
 同時にそれは、どうしようもないほど無視できない感覚だった。――――――――

 夕方一日の疲れを背負って帰宅したリトは、
 玄関の鍵が開いていることに気付いた。
 ――ララか? 随分早いな……。
 この町の地理に早く慣れるために近くの商店街で買い物してから帰るからと、
 リトから小遣いを借りたララとはさっき学校で別れたばかりだった。
 ドアをくぐったリトは、視線を落とすと青と白のスニーカーを見つけた。
 見覚えのある、美柑のスニーカーだった。
「ただいまー!」
 靴を脱ぎながらいるはずの美柑に呼びかけてみる。
 声はガランとした家の中に響き渡って、かすかに余韻を残した。
 ――おかしいな? 寝てるのか……?
 いつもなら元気な返事が即跳ね返ってくるはずなのになと、
 首を傾げながらリビングへと歩を進めると、
 テレビはおろか蛍光灯すら点いていなかった。
 普段なら学校から帰ってきてテレビでも見ているはずだった。
 荷物を置いて着替えるために階段を昇って自分の部屋へと向かう。
 ふと、リトは二階の奥にある美柑の部屋のドアが開いているのを見つけた。
 ――やっぱり帰ってるのか。
 荷物を自分の部屋に放り込み、すたすたと美柑の部屋の前へと歩いていく。
 美柑の部屋からはあるべき光は漏れていなくて、
 むしろ濃い闇が開いたドアから滲みだしている。
 ――調子でも悪くて寝てるのか?
 リトはドアを引いて覗き込んでみた。
 ――濃い闇に眼が慣れない……。
 少し眼が闇に適応したリトは、一瞬の間を置いてぎょっとした。
 美柑と、目が合ったのだ。
 
 死んだ魚のように虚ろな眼をした美柑は、
 枕を胸の前に抱えてベッドの端に座って、
 廊下にいるリトの顔をぼんやりと見ていた。
「どうしたんだよ、美柑」
「別にどうもしてないよ」
 すぐに電気を点けて部屋の中に立ち入ったリトは、
 美柑が自分の問いにすぐに応えてくれたことに些か胸を撫で下ろした。
「そこに座れば」
 手持ち無沙汰なリトを見て、美柑が言った。
「あ、あぁ……」
 指差された勉強机とセットのデスクチェアーをベッドの傍まで引きずってきて
 腰掛けながら、リトは美柑を観察していた。
 美柑は身じろぎ一つせずに、あえてじっとしながら、
 リトの顔から目を逸らして、その隣の床を見ていた。
 沈黙がカーテンすら閉じられた重い空気の部屋に垂れ込めている。
 ふと、美柑を観察していたリトは美柑の匂いを感じた。
 ――甘酸っぱくて、儚くて何かを呼び起こす匂いだ。家族の匂いだ。
 美柑の部屋に立ち入るのは、本当に久しぶりのことだった。
「ねぇ……昨日さ……夜中に起きて来てたじゃない……」
「あぁ、うん……」
 ようやく切り出した美柑に、タイミングを計り損ねたリトは、不器用に相槌を打った。
 
「で、さ……」
 美柑が口ごもった。
 ああ、“あの”ことを言っているんだ、とリトはすぐに勘付いた。
 でも、それは、仕方ないことだ。
 ――俺は背負ってるものが違うんだ、とリトは言い訳を考え始めている。
「結婚前にララさんとそういうことするの……」
 なんとか言葉を一つずつ繋いでいく柔らかそうな唇。
 美柑の顔は、みるみる耳まで真っ赤になっていく。
「……どうかと思うんだけど」
 そう言い終わる頃には美柑は眼まで潤んでいた。
 そんな美柑を見ながら、リトは気まずいなりにも言葉を選ぼうとした。
「…………これでも色々大変なんだよ」
 考えた挙句、リトの口からこぼれ出たのは、そんな無粋な言葉だった。
 結局リトが空気の重さを払い除けるには、気まずい空気を荒立てるしかなかったのだ。
「大体、お前には関係ないだろ」
 勢いづいた続けざまに、リトはぶっきらぼうに吐き捨てた。
「……関係なく……ないわよ」
「なんで?」
 詰問調になっていることにリトは自分では気付かないまま言った。
「だって……」
 美柑は目を泳がせながら言った。
「これでも家族なんだから……」
 リトの目を恐る恐る見た美柑が言った。
「心配して言ってるんだから……」
「ふーん。そうかい……」
 美柑から目を逸らしながら、リトが言った。
 ――母さんに説教されてる気分だ。
 リトは頭を掻いた。
「そういうの、やっぱり結婚してからすることだと思うし……」
 美柑が言葉の端を細くしながら言った。
 消え入りそうな声が、震えている。
「んなことねーよ。今どき、誰だってしてるよ!」
 照れ隠しにリトはまくし立てて反撃した。
 
「うそ……」
 美柑が驚いたように目を丸くして声を震わせる。
「当たり前だろ」
「だって。そうだって学校の国語の本に……」
「んっとにガキだな、美柑は……」
 リトは自信を取り戻しながら言った。
「そんなのどこでも誰でもやってるよ」
 見下したような口調でリトは続けた。
「好きじゃない人とでも?」
 美柑がリトの目を見ながら言った。
「まぁ……そういう場合もあるだろうな」
 少なくとも俺は違うけど――、とリトは頭を掻きながら思った。
「相手と結婚できなくても?」
「何が言いたいんだ?」
 ――俺とララが不釣合いで結婚できない、と言いたいのか?
 リトは怪訝な顔をした。
「……だったら」
 美柑がこくっと唾を飲み込んだ。
「……あたしに同じことできる?」
 潤んだ美柑の目はリトを真正面に見ていた。
「……は? 何言ってんだ?
 そんなこと出来るわけないだろ」
 言葉を理解するのに一瞬時間を掛けてからリトが言った。
「兄弟だし」
「誰とでも、好きじゃなくても、できるんでしょ?」
 美柑がゆっくりとベッドの上をリトの方に、にじり寄って来た。
「じゃあ、やってみせてよ。ほら、キスだけでいいから」
「お前、何言ってるのかわかってんのか?」
 リトは美柑の正気を疑いながら言った。
「ほら……誰とでも出来るんでしょ?
 それとも、そんな度胸ないの?」
 耳まで真っ赤な美柑が、少しだけ余裕を見せるように嘲笑った。
「へぇ、こんなお子ちゃま相手にキスすることもできないんだ、リトは」
「其れと此れとは関係ない」
 リトは少しムキになって言い返した。
「ララさん以外にこんなことするの怖いんでしょ、いくじなし」
 美柑が、さらにリトを挑発するように言った。
「そんなこと――。いいか、俺達兄弟なんだぞ」
 挑発に、諭すようにリトは応えた。
「いいから。ほら、やってみなさいよ……」
 そう言いながら美柑が先に目を閉じた。
 
 リトはその顔を見て、鼓動が早くなるのを感じた。
 ――妹相手に動じるなんて俺はどうにかなったのか?
 リトはぼんやりしながら、美柑の方に手を伸ばして、
 一瞬の逡巡の後に、美柑のうなじの後れ毛に触れた。
 美柑がびくっと身を震わせた。
 そのまま、顔を寄せていく。
「知らないぞ?」
「…………」
 美柑は目をつぶったまま何も応えない。
 ――おいおい、嫌がんないのかよ。おいおい、おい……。
 リトは頭の中でそう繰り返しながら、目を閉じて顔を美柑の方へ寄せ続けた。
 そして。やがて、唇が、触れ合った。
 とてもやわらかく、あたたかい。
 美柑の全身の震えが、唇の端にできたわずかな隙間から伝わってくる。
 ゆっくりと目を開けると、美柑の顔がそこにあった。
 美柑は、しばらくの間ぎゅっと目をつぶって息を止めていたけれど、
 苦しくなったのか目を開けて、リトが先に目を開けていることに気付いた瞬間、
 逃げるように口を離した。
 リトの手を払い除け、顔を離して、
 自分の唇を手でなぞりながらリトの方を見ようとはしない。
 そんな美柑の様子を見ながら、リトは呆然としていた。 
 ――妹とキスしちまった、妹と……。
 リトが口には出さずに繰り返していると、美柑が口を開いた。
「……リトなんかにファーストキス取られちゃった……最悪」
「そりゃ、どういう意味だよ」
 妹を傷つけてしまったという罪悪感で、リトは逆に食ってかかった。
「しかも……ヘタクソだね、リト」
「なに?」
 冷静さを失って美柑の口上にも思わず煽られてリトは向き直った。
「ララさんだって、そんなヘタクソなの嬉しくないと思うよ」
「なんだって?」
 リトは完全に美柑のペースに乗せられていた。
「キスされてみた率直な感想だよ」
「余計なお世話だ」
 リトはそっぽを向いた。
「しょうがないだろ。ララ以外としたことないんだから……」
 
「……じゃあ」
 美柑が言った。
「私が練習に付き合ったげようか?」
「何でそうなるんだよ」
 リトは怪訝な顔で美柑を見た。
「文句言わないからさ」
 平気な顔をしながら美柑は続けた。
「もうキスされちゃったし……
 一回目も二回目もいっしょだよ」
 気付くと、美柑の顔が驚くほど近くにあって、
 いつの間にかリトの頭の後ろで手を組んでいた。