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知的探求心というものは、好奇心の一種に分類される。
知らないものを知る事が出来るという可能性。
知らなかった事を知る事が出来たという経験。
その内容が本人にとって負担となるものでない限りにおいて、
誰にとっても知の領域の拡大は心を豊かにする建設的な行為だ。
知的探求心の高いもの程、殊更に未知の経験を欲する。
或いは、かつて経験した事柄を、もう一度再確認してみたいと思う。

彼女にとっては、その程度の理由でしかなかった。
図書室で本を読み漁る事や、興味のある人間達と触れあう事と、何ら変わらない。
だから金色の闇が結城美柑にその申し出をした事に、特段の下心は無かった。
「また入れ替わりたいの? 別に良いけど……」
かつてララの発明、〈まるまるチェンジくん〉によって
一時的にヤミと美柑は肉体を交換した。
それは美柑から望んだ事であり、
その時はヤミはただ暇だからという理由で快諾したのだが、
まさか数日後にヤミの方から同じ事を頼まれるとは、
美柑は予想していなかった。

「よくわかんないけど、そんなに楽しかったの?」
「楽しいというのとは少し違いますが、興味深い体験でした。
 迷惑でなければ、もう一度あの体験を味わってみたいです。
 金色の闇として生活するだけでは知りえない事を学べますし」
以前二人が肉体を入れ替えた時は、それぞれに貴重な体験をする事が出来た。
美柑は変態に追われるという恐怖を味わいはしたものの、
同時に空を飛ぶという感覚も楽しむ事が出来た。
そしてヤミの方は、家族に大切にしてもらえるという体験が出来た。
天涯孤独の生い立ちにあった彼女にとって、それは滅多に味わえない経験だった。
そこから学びとれる事は決して少なくないだろう。
空を飛ぶなどという事より遥かに豊かな事が学べる。
ヤミはララと美柑に頼んで、今一度肉体を入れ替えてもらった。
今度は失敗しないように、事前に美柑からレクチャーを受けた。
風呂掃除に使う洗剤も、道具の使い方も習った。
料理に関しては、体調不良とでも言っておけば
出前を頼むなりレトルトで済ませるなり、どうにかやり過ごせそうだった。
授業に出るのはまずいから、やはり実行は放課後という取り決めになった。
後は、ごく普通の家族として、リトとコンタクトをとるのみだった。
「ただいまー。セリーヌは元気にしてたか?」
娘を愛する父親のような第一声とともにリトが帰宅してきた時には、
彼女の妹の体の中には、既にヤミの魂が置換されていた。
「……お帰りなさい」
家族の帰還に際し何と声をかけるべきか迷ったヤミin美柑は、
とりあえず日本の家庭ではこう言っておけば間違いないだろうと判断し、
以前読んだ純文学の中にあった当たり障りのない言葉を発した。

だが、その次に発した言葉に問題があった。
「えっと……あなた、お風呂にする? ご飯にする? それとも私にするんですか?」
読んだそのままの文章に無理にアドリブを加えた結果、文末がおかしな事になる。
が、そもそも問題はそこではない。リトが驚愕したのは言うまでもなかった。
「お前何言ってんだ? また風邪でもひいたのかよ」
「私何か変な事言いまし……言ったの?」
正体がバレないよう、出来るだけ敬語を控えるが、それが殊更に違和感を助長する。
ジャンルを問わず書店にあった本を片っ端から読み漁った事をヤミが後悔するのは、
後日美柑から「それ新婚夫婦の台詞なんじゃないかなぁ」
と冷や汗混じりに指摘された時になるのだが、この時点ではまだ
彼女は何が間違っていたのか、全くわかっていなかった。

「体調が悪いんなら寝とけよ。最近お前おかしいぞ」
リトがそっと彼女の肩に手をやる。
ヤミは反射的に髪で攻撃しかけたが、この体では無理な事に気づく。
それにリトが彼女の体に触れたのは、いやらしい事をするためではなかった。
傍にあるソファの上で休んでいるよう、勧めてくれていただけだった。
「あなたは本当に優しいんですね」
「お前それこないだも言ってなかったか?
 家族なんだから当たり前だろって答えたと思うけど」
「そうだったね」
そうでしたね、と敬語で言いそうになったが、ぐっと堪える。
どうにも慣れないので、どこかむず痒い。
体調は大丈夫だよ、とだけどうにか口にして、ヤミは彼の言葉に甘え、
ソファの上に腰かけて、彼の様子を観察する事にした。

彼女の知るリトは、突然どこからか吹っ飛んできて抱きつくか、
突然転倒して抱きつくか、突然着替えの最中に押し入ってくるかだった。
そういったアクシデントの無い時の彼の日常がどんなものか、
家族の前で見せる表情というものがどんなものか、そこに強い興味を感じる。
見ていると彼は、冷蔵庫を開けて中身を確認しはじめた。
「お兄ちゃんが料理するのですか?」
「おっ、お兄ちゃん!? お前普段そんな呼び方しないだろ」
そうでしたっけ……と記憶を思い廻り、そういえば美柑は呼び捨てにしてた事に気付く。
以前読んだ本では、妹は兄の事を「お兄ちゃん」と呼んでいたのだが。

リトは冷蔵庫の中身を眺めまわして、早くも悪戦苦闘の様相だ。
そこにある食材をどう使って、何を作ってやるべきかと悩んでいるのが、傍目にもわかる。
だが以前美柑から聞いた限りでは、確か彼の料理の腕はあまりよろしくなかった筈だ。
「無理に何か作ろうとしなくても……。
 今夜はデマエとかレトルトとかで良いんじゃないですか?」
もっともヤミは出前を注文した経験など無いので、
それが何なのかも実感的に理解しているわけではない。
金を払えば料理を持って来てくれる職業の人がいるらしいと知っているだけだ。
「いやぁそんな事言ってもさ。
 お前が体調悪いんなら、何か体力のつくもの作ってやんないと」
出来もしないのに無理をする男だ。
苦心する背中が、頼りないような、頼れるような、
何とも名状しがたい空気を醸し出している。
なるほど出前では体力のつくものは注文出来ないらしいと、ヤミは知った。
タイ焼き以外の地球の料理をまともに食べた事は少ないので、
ピザだのカツ丼だのといった代表的な店屋物が、
どの程度の滋養を含んでいるのかいないのか、までは知らなかった。


ソファで座ってリトの背中を眺めていると、セリーヌが寄ってきた。
「まう~」
いつもそうしているのか、幼子はヤミの――美柑の――膝の上に乗ってくる。
家族ならばこういう時どうするべきかわからず、
ヤミはとりあえずセリーヌの頭を撫でてみた。
きゃっきゃと喜んでいるので、どうやら正解のようだ。
少なくとも嫌がられている様子は無い。
「こうして見てると、お母さんみたいだな」
特別そんなつもりはなかったのだが、リトがそう言うからには、
客観的にそう見えるものなのだろう。
母親というものすら、ヤミにとっては記憶に近しいものではない。
何と答えて良いかわからず、ヤミは適当に言い返しておく事にした。
「そういうあなたも、この子と接している時は父親のように見えますよ」
父親という存在自体が彼女にとっては遠い。
だがこの状況で今の台詞は間違いではないだろうとは思っていた。
確かこの家でクリスマスパーティをした時、リトと美柑の母親である
結城林檎は、セリーヌを見てリトが父親だと誤解しかけていた筈だ。
傍から見てそう思えるのなら、今の言葉の選択にミスは無いと思える。

そこで、はたと気付いた。
家族という言葉一つとっても、いろいろな関係性があるものだと。
父親、母親、息子、娘、兄弟、姉妹。
そして親の心子知らずという諺もあるくらいだから、
親が子を見る時の感情と、子が親を見る時の感情にも
ヤミにはよくわからない何らかの差異があるのだろう。
同様にリトが親を見る時の感情と、妹を見る時の感情も、決して画一ではない筈だ。
家族愛と言っても、そのニュアンスは対象によって様々に変わるわけだ。
だが、じゃあそもそも、家族とは一体何だ?


そんな純粋な疑問が、つい口をついて出てしまった。
「あなたにとって、プリンセス……ララさんは、どういった関係性なの?」
改めて聞かれると未だに焦ってしまうらしく、
リトはキッチンでこちらに背を向けたまま、一瞬体を硬直させた。
「ど、どういった……って……?」
「将来的に結婚するかしないかは別として、今の段階ではどうなんで……どうなの?
 あなたとララさんの関係は、兄妹? それとも親子?」
多分、とんちんかんな事を聞いているのだろう。
そんな自覚がヤミにはあった。
だが今のリトとララの関係性を表す単語が何なのか、わからいのも事実だ。
結婚していない以上夫婦ではないのだろうが、かと言って赤の他人でもあるまい。
ひとしきり迷った挙句、リトは不明瞭な回答を寄越した。
「親子じゃないのは勿論だけど、兄妹かって言われるとなぁ。
 まぁ適切な単語は見つからないけど、普通に〈家族〉って事じゃダメかな?」

だから、家族は家族でも、その中でどういう関係なのだと聞いているのに……。
少し呆れそうになったが、これ以上問い詰めても明確な回答は得られまいと
ヤミは悟って、その質問に関してはこれで凍結しておく事にした。
「それでは、セリーヌは?」
これもやはり、〈家族〉としか言いようがあるまい。少なくとも親子ではない。
親子のようなもの、ではあるかもしれないが。
「うーん、まぁ娘みたいなものと言うか、妹みたいなものと言うか……
 でもそのどっちも適切だとは思えないんだよなぁ。
 まぁやっぱり〈家族〉って事で」
予想通り過ぎて正直退屈だ。
その〈家族〉というものについて、もっと知りたいと言うのに。


それならば、質問を変えるだけだ。
「それじゃああなたにとって、家族とは何?」
単純にして深遠な問いかけだ。
哲学者でもないリトに、即答出来るようなものではなかった。
相変わらず夕食に何を作るか未だに決めかねているリトは、
一旦冷蔵庫を漁る手をとめて彼女に振りかえった。
「何なんだ? 学校でそういう課題でも出たのか」
「そういうわけじゃ」
しまった、とヤミは思った。
ここで頷いておけば、リトはすんなりと話してくれたかもしれない。
小学校の授業用の、当たり障りのない内容ではあるかもしれないが、
それでも彼が今の時点で考えられる限りにおいて懸命に考えて、
「家族とは何か?」という問いに対しての回答を口にしてくれたかもしれない。
彼にとって大切であろう、妹のために。

だがもう遅い。ヤミは否定してしまった。
今更「実は宿題なんです」などと言っても不自然だ。
彼女はどう場をとりなすべきかわからず、押し黙ってしまった。
「課題じゃないんなら、何でいきなりそんな事が気になるんだよ」
「いきなりと言うわけでは……ちょっと前からずっと考えてた事だから」
それはヤミの本心だ。
リトと出会い、美柑と触れあい、遊びや食事を共にして行く中で
知識欲の旺盛な彼女の中に自然発生的に生まれた疑問。
だがそれに自ら答えを見いだせる程、彼女の生い立ちは恵まれていなかった。

ところが、リトの方にはそんな事情はわからない。
のみならず、そもそも目の前の少女が妹だと思い込んでいる。
そして妹がいきなり、「家族とは何」かという事に関して
「ちょっと前からずっと考えてた」などと言い出すのだ。
兄としてそれを不安に思わない事は無い。
「……なぁ、美柑」
「何ですか」
「何か悩みがあるって言うんなら、俺で良ければ聞くぞ」
言われてヤミは逡巡した。
悩み?
これを悩みと言うのだろうか。
家族というものが実感的に理解出来ない。
これは普通だったら悩むべき事柄なのだろうか?
自分は今、悩んでいるのだろうか?
「やっぱりお前今日おかしいよ。朝は何とも無かったのに。
 急に敬語使いだすし、お兄ちゃんとか呼ぶし。
 お前が俺の事をそんな風に呼ぶの、こないだの風邪ひいた時ぐらいじゃないか」
リトの問いただす声も、もう半分くらい彼女には聞こえていない。
場を取り繕う事さえも忘れて、ただ彼女は思考に没頭した。

そんな様子は殊更にリトの不安を煽っただけだったのだろう。
気がついたら彼はヤミの目の前にいて、顔を覗き込んできていた。
「……いつからそこに?」
「いつからって、俺が今歩いてきたのも気付いてなかったのか」
暗殺者である自分に気取られぬように間合いを詰めたリトに驚くより、
むしろこの至近距離まで彼の接近を許した自分にヤミは驚いた。
この星に来て、彼らと関わり合うようになって、警戒心が随分薄れてしまった。
ちょっと前までならここまで他人に近付かれる事など有り得なかった。
油断をするなど、本来の自分らしくない。
「油断していました。こんなに近付かれるなんて。
 最近気が緩んでいたかもしれませんね」
「はぁ? 油断って……お前日頃そんなに周りに注意を払ってたのか?
 そりゃうちの校長とかそういう不審な人は警戒しときゃ良いだろうけどさ」
それでは、校長を警戒して、リトを警戒しないで良い理由は?
その線引、ボーダーラインはどこにある?
どうやって彼を他の男と区別し、信頼する?
安心して彼の傍にいられるその理由とは?


家族だから、なのだろうな。
少なくとも結城美柑にとってはそうなるだろうと、ヤミは結論づけた。
家族だから、兄妹だから、警戒する事なく信が置ける。
結局ここでも家族、家族だ。
相手を警戒するかしないかという単純な本能一つとっても、
家族という概念がついてまわる。
一体家族とは何なのだ?
「……もう一度聞いても良いですか?」
「あぁ、なんだよ」
「あなたにとって家族とは、何ですか?」
妹にそれを問われる兄というのは、よくわからないが寂しいものらしい。
その時のリトの表情を見てヤミは一つ学習した。
悪い事を聞いてしまったな、と思って少し反省しかけた途端、
彼女の体を包み込む何かがあった。

「あっ……」
〈美柑の〉体を、リトが抱きしめていた。
両腕が背中に回り、心臓が直に触れあうのではないかと錯覚する程に、
頭が彼の胸板に押し付けられている。
事実、彼の心臓の音が伝動して伝わってきた。
いきなり何をするのかと反射的に攻撃しかけるものの、
やはり美柑の体では髪も使えず、この密着状態から繰り出せる技も限られる。
それに虚を突かれた事もあって、逆襲のタイミングを逸してしまった。
結果的に彼女は、リトに抱き締められるままに任せた。
いつもだったら秒殺で攻撃しているのに。
「何の真似、ですか」
リトの胸と腕の中から、彼女は呟くように小さな声を出した。
何故声が小さくなってしまったのかは、彼女にもわからなかった。
単に近いから声をあまり出す必要が無かったのかもしれないが、
それ以上に何か、彼女に囁き声を出させてしまう空気のようなものが流れていた。
「ごめんな、美柑。きっと俺が不甲斐無いせいだよな」
一体何の話をしているのか、ヤミにはわからない。
黙って聞いていると、彼はどうも自責の念を感じているようだった。
「俺がもっと普段からお前に優しくしてりゃ良かったんだ。
 いつもいつもお前に料理も洗濯も任せっきりで、苦労ばっかかけて。
 その上両親が家にいないってんじゃ、家族が何なのかわからなくなっても当然だよな」
あぁ、そういう方向に勘違いしたのかと、ヤミは納得した。

そして再び、彼女の懐疑はララの方へシフトする。
彼は今、相手を妹の美柑だと思いこんで、家族だからこそ抱きしめている。
家族への愛情を確認する目的で、或いは確認させる目的で、ハグしている。
では、ララも家族だと言うなら、
もしララが何らかの理由で不安を背負った時などは、
同じようにこうして抱き締めてやるのだろうか?
「プリンセスがもしホームシックにかかったら、あなたはどうしますか?
 妹にそうするのと同じように、抱きしめて不安を和らげてあげるのですか?」
「ララの場合は……どうなんだろ。その場になってみないとわからない」
「でも家族なのでしょう?」
「そうだな。俺はそのつもりでいる」
「では相手が家族でない人なら……例えば西連寺春菜が
 同じようにあなたに温もりを求めてきたとしても
 あなたは彼女を抱き締めては差し上げないのですか」
「えっ、いや、西連寺の場合は……」
「じゃあ、家族でなくとも、抱きしめてあげるんですか」
「それは、その……相手によると言うか……」
優柔不断な男だ。少し呆れる。
ひょっとすると、時と場合によっては、相手が古手川唯や籾岡リサのような
根本的に家族でも何でもない者が相手でも、相手が寂寥感に苛まれていて
それを助けてやるために本当に必要と判断したなら、彼は抱きしめてしまうのかもしれない。
この男は良くも悪くもそういう男なのだろうとヤミは思った。
最近学習した地球の言語で言うところの、タラシの素質がある。

「それじゃあ、金色の闇が相手だったら……?」
何故そんな質問をしてしまったのか、ヤミ自身もわからなかった。
言った後で、有り得ないと気付く。
自分の命をつけ狙う暗殺者を抱きしめてやる男など、女誑しどころではない。
そんな男、菩薩か仙人のレベルに達している。
これはすぐに否定されるだろうなと彼女は予測した。
しかしリトは、その予測を裏切った。
「もし本当にヤミが今寂しさを感じてて、
 それが美柑やララ達だけでは埋められなくって、
 どうしてもヤミ本人が、俺にぎゅってしてもらわないと落ち着かないって言うんなら
 俺はきっと、ヤミが相手でも抱きしめちゃうと思う」
目の前の美柑の正体がヤミだと気付いているのか、
或いは今ヤミの孤独な生い立ちを思う事で、ヤミ本人を抱き締める気持ちでいたのか。
どちらかは判然としないが、リトは一層強く彼女の体を抱き締めた。
少しばかり彼の腕が腰に食い込む気がした。
「家族じゃないのに、ですか?」
それは困る質問だったらしく、リトは口を閉ざしてしまった。
ただヤミには、背に回る彼の腕が、温かく感じられるばかりだった。


いつまでそうしていたか知れない。
傍で見ていたセリーヌがリトの足元で彼を見上げ
彼のズボンの裾を引っ張って「まう」と一言何かを訴えた。
欲するようなその目から察するに、セリーヌもリトにハグしてもらいたいのだろう。
それに気付いたリトが一旦美柑の体から手を離した。
「もう良いかな、美柑。次はセリーヌを抱っこしてやんねぇと」
「あ、はい……」
ヤミが少しだけ後ずさって距離をあけてやると同時に
リトは足もとのセリーヌを抱きあげて、高い高いしてやった。
それから少しぎゅっと抱き締めてやり、ソファの上に下ろした時には
セリーヌがご満悦の表情で笑っていた。
「セリーヌを見てると、思いだすよ」
「何をですか?」
「お前がもっと小さかった頃の事。
 お前昔はいっつも俺にキスをせがんでたよなぁ」
美柑が結城リトにキスをせがむ?
その様子が少し想像に難く、ヤミは首を傾げた。
それはリトの目には、当時の事を思い出せない妹として映った。
「無理もないか、お前その頃まだ二歳か三歳だったもん。
 覚えてる筈無いよ。ま、俺も当時は7歳かそこらだったけど」
きっと仲の良い兄妹だったのだろうとわかる。
ヤミにはやはり羨むべき偶像のように感じられた。

「もし……」
「うん?」
「もし、もう一度キスしてって頼んだら、あなたは私にキスしてくれますか?」
ヤミとしては他意は無いつもりだった。
恐らく地球の家族にとってキスは挨拶代わりなのだろうと思った。
勉強のために読んだ外国文学でも、父親が娘にキスするのは普通だったし、
親子で抱擁しあう描写など無数に見かけてきた。
国や地域による差異までは細かくは知らないが、
日本の家庭でも兄妹間のキスというのはそんなに特別な事ではないのだろう。
そう思って問いかけてみただけだったのだが、それはすぐに誤りだったと悟った。
今更キスを求められたリトの表情が、面白いくらい真っ赤になったからだ。
「いやお前、さすがにもうそういうのは、ちょっと。
 もうお互いそういうトシじゃないだろ?」
「年齢で区切られるものなのですか?
 それじゃあ何歳までなら許容範囲なんですか?」
そう改めて問われると、やはり答えられないらしい。
サンタクロースの迷信を信じるのと一緒で、個人差が大きいのだろう。
そもそも大半の兄妹は、たとえ小さい頃でもキスなどあまりしないという事までは
まだ今のヤミには知る由も無い事だった。


リトは一頻り迷ったようだったが、やがて吹っ切れた顔を見せた。
「そうだな。大事な妹が頼んできてんだ、断るのはやっぱ良くない」
そう言って再度、彼女の方に向き直る。
「今日は何かお前寂しそうだし、不安そうだし。今日は特別だぞ」
「それは、キスしても良いと言う意味ですか」
「ほっ、他にどんな意味があるんだよ! 良いから、やるなら早くしろ」
余程抵抗があるのか、あるいは緊張しているのか、リトの慌て方が面白い。
ヤミは〈美柑の〉頬を少し赤らめさせながら、リトの顔を正面から見据えた。
そして彼の両肩に手を置き、爪先を伸ばす。
リトが気を遣って、高さを彼女に合わせるために中腰になった。
そのままヤミは〈美柑の〉唇を、彼の唇に触れさせた。
柔らかい感触と、温かい微かな吐息が、唇を包み込む気がした。

踵を落とし、手を離して彼の顔を今一度見上げた時、
彼が大層その表情を真っ赤に染め上げているのが見て取れた。
一体何をそんなに赤くなっているのだろうかと考えていると、
「おっ、お前なぁ! 誰が唇にしろって言ったんだよ!」
「……違うのですか?」
「ほっぺただろ、普通。小さい頃だってそうしてたし」
しまった、そうだったのか。
てっきり、キスという名称でならわされる行為の
代表的な使用部位として、唇を用いるものと思ってしまった。
リトは「そうだよな、覚えてないんだったら唇にしちゃっても仕方無いよな」と
妹を納得させるつもりか自分を納得させるつもりか、ごにょごにょと呟いていた。
「家族のキスでは、唇同士を触れあわせるのは間違いだったのですね。
 勉強になりました。次からは気をつけます」
「つ、次って……」
またその内キスをせがんでくるつもりかと、
リトは嬉しいやら気恥ずかしいやら寒いやら、複雑な気持ちになった。


その時、玄関の方で鍵穴が回る音がした。
ララが帰ってきたのかと思ったら、ドアをあけてリビングに入ってきたのは
金色の闇――美柑――だった。
「ヤ、ヤミっ!? 何でお前がうちの鍵を……」
外で空中散歩を楽しんで帰って来た時にちゃんと家に入れるよう、
美柑は鍵だけヤミから返してもらっていたのだが、
そもそも二人が入れ替わっている事自体、リトには預かり知らぬ事だ。
他方、美柑は目の前のリトとヤミを取り巻く空気が、
いつもと少し違って柔らかくなっている事に気付いた。
「何かあったの? 随分嬉しそうだけど」
美柑はヤミに尋ねた。
「嬉しそう、ですか? そうですか、言われてみればそんな気もしますね」
「二人で何してたの?」
咄嗟に誤魔化そうとしたリトが何か言うより早く、ヤミは即答した。
「彼に抱き締めてもらっていました。それからキスも」

瞬間、リトは凍りつき、美柑はドン引きした。
私の体でリトと抱き合った?
私の体でリトとキスした?
しかもよりによって、あのヤミさんが?
美柑の頭の中はそんな混乱でいっぱいになったが、
何となく満足感を得ているように見えるヤミの顔を見て、何かを言う気力を無くした。
それに、有り得ない話ではあるが、万一自分がリトに抱き締められたり、
キスしてもらったりしたら、やはり自分も嬉しくなるだろうと思えた。
むしろその勇気が無い自分に代わって、
自分の唇をリトの唇と触れさせてくれたヤミに、
感謝しても良いかもしれない。
無自覚のブラコンである美柑は、そう結論づけた。

「ふっふーん。私のいない間にそんな事してたんだぁ」
「な、何だよ? お前に責められる筋合いは無いぞ!?」
リトにとって目の前の金色の闇は金色の闇であり、
正体が美柑であるとはまだ気づいていない。
美柑はヤミの肉体の能力を使って、髪で握り拳を形作った。
そして、こういう時本物のヤミなら何と言うか、想像してみた。
「えーっとねぇ、えっちぃのは嫌いだよーん」
金色の巨大な拳がリトの眼前に迫るのと、
リトが反射的に目を瞑るのとは、ほぼ同時だった。
彼はしばらくの間、痛みに堪える心づもりで、目をきつく閉じていた。
しかし何事も起こらない事を不審に思い、少しだけうっすらと目を開けてみる。
巨大な拳から放たれたデコピンが彼の額を小突いたのは、その時だった。
「いてっ」
「このぐらいで勘弁しといてあげるわ。今日は気分が良いからね」
そう言うと美柑inヤミは、ヤミin美柑の手をとって、廊下の方へ駆けて行った。
「お、おい待てよ!」
「まだ来ちゃ駄目」とヤミの声が言う。
「来ては駄目です結城リト」と美柑の声が言う。
ちぐはぐな言葉遣いに困惑しつつも、リトは大人しくリビングに取り残された。

その後駆け足の音は一度二階まで上がり、しばらくするとまた階段を降りてきた。
その時には二人はもう元の体に戻っていた。
「上で一体何してたんだ?」
そう言ってリトは、今度こそ正真正銘本物の美柑に問いかけた。
まだ真相に気付いていない彼に笑い声を堪え切れず、美柑は大笑いし、
ヤミは――彼女にしては極めて珍しい事に――かすかに微笑んだ。
その夜再びヤミは結城家の夕食に招待された。
ララや美柑やセリーヌ達と一緒に鍋を囲む事で、
彼女も今では立派にリトの家族の一員になれた気がした。
もっとも彼女がそんな感想を口にする事は、今後永久に無いのだろうが。


おはり。