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春の宵は千両というが、湯の中なら、それ以上の価値があるにちがいない。

結城家の風呂場は湯気が立ちこめて、窓は宵の口の藍色に染まっている。

浴槽の縁へ首をもたせかけ、あごまで湯につかったリトは、実に幸せそうだ。

昼は桜の公園に遊んで、ララの弾丸スマッシュと戦い、頭から土に埋まって、
自宅の風呂場へ直行し、汗と泥を落として、ようやく湯舟につかったところだ。

しかし、それにしても―――― とリトは思う。

今日という日を思い返してみれば、朝からろくな目に遭わなかった気がする。

「リトさんったら、昨夜のコト、何も覚えてないみたいですね」

そんな思わせぶりを言われても、記憶にないのだが、何かやったのだろうか。

うつらうつらと考えているうちに、まぶたが重くなって、眠りの中へ落ちていく。

「……目覚めはいかが?」

まぶたを開けると、桃色の髪が目を奪い、紫色の瞳がいたずらっぽく輝いて、
思わず息を吸いこめば、せっけんの香りと一緒に、女の匂いが鼻を満たした。

あわてて起きると、モモが浴槽の縁にひじをつき、こっちを見て微笑んでいて、
白いタオルを巻きつけた体は、洗い場の床にぺったりと座りこんでいるようだ。

「な、何してんだ!」
「お背中でも」
「いや、もう洗った!」
「……ほんとに?」

モモは手を伸ばすと、やんわりと曲げた指をリトの耳の中へ入れ、くすぐって、
耳の裏側から、粉のような砂つぶがポロポロとこぼれて、湯舟の中へ消えた。

「そういうところも、きれいにしないと……」

そう言って、モモは浴槽の縁にひじを戻すと、上目遣いに視線をからませる。

「わ、わかった、洗うから…… 出てってくれ」
「おかまいなく、どうぞ、こっちへ出てらして」

首をかしげて目をそらさないものだから、湯舟から立ち上がることもできない。

どういうつもりなんだ――――

とにかく、リトは平静を装い、洗い場を見ないようにして、モモはだまっていた。

そのまま、時間が経って、いつしか窓は黒一色、ひやりとした静寂に満たされ、
くしゅん、という声が聞こえて、見れば、モモが鼻のつけ根にしわを作っていた。

「……風邪引くぞ」

声をかけると、モモは鼻の下を指でこすり、小さな肩をすくめてクスッと笑った。

「お優しいですね」

そう言ったかと思うと、あっさりと立ち上がり、おどろくリトを尻目に脚を上げた。


ちんまりと丸まった足の指が、ちゃぷんと音を立てて、湯の中へ沈んでいく。

白いタオルが目の前を横切って、そこから伸びた太ももは影を秘めていた。

見上げれば、なよやかな腕を胸元へ寄せながら、夭夭として灼灼たる様子、
目は伏せられて、はにかみの中に誇らしげな色をたたえ、頬はぽっと赤い。

そんな風に、そこに立った少女が、以前にも――――

「つめていただけます?」
「え? あ、ああ……」

リトは素直に後退し、脚をたたむと、湯から膝がしらが、ぽこりと突き出して、
ふたつの膝に挟まれた空間の彼方に、純白の繊維につつまれた体が沈む。

あふれる湯に逆らって、モモは背筋を伸ばし、リトに向き合って正座をした。

足の親指にやわらかい肌が触れて、それはモモのふくらはぎのようだった。

「いい気持ち……」

そう言ったきり、モモは両目を閉じて、熱っぽい息づかいだけが耳に届いた。

リトはそっぽを向くのもアホらしく、かといって目をつむるのも危険に思えて、
どうしたもんだろう、と途方に暮れながら、化粧っ気のない眉を眺めていた。

桃色の髪の間に、ひとふきの汗が浮いて、頬を伝い、あごのほうへ流れる。

あごの先でしずくになって、しばし持ちこたえてから、胸のほうへ落下したが、
行く先を目で追えば、胸のタオルも、すべてを覆い隠しているわけではない。

はんなりとした胸の、ふくらみの間が汗ばんで、涙の谷どころではなかった。

「あ、あのさ」
「え……?」

長いまつ毛がゆれて、リトはあわてて話題を探す。 ――――順序が逆だ。

「あの、昨夜のコトって、何?」

気にかかっていたことだから、つい口をついて出てしまったというところだが、
さすがに軽率のそしりをまぬがれず、モモの微笑たるや、悠然としたものだ。

「リトさん、本気にしたんですか?」
「え? あ、なんだ、嘘か」
「半分は嘘で、半分は本当です」
「……」

その言葉さえも、嘘か本当かわからず、こういうのを、術中に陥った、と言う。

モモは舌を覗かせて、ちろっと上唇を舐めてから、目を細めて言葉を継いだ。

「朝は、あんなになるんですね」
「へ? あんなって、どういう……」

聞き返そうとして、すぐさま意味するところに思いあたり、リトは顔を赤らめた。

モモは慈しむような目をして見ていたが、やがて、膝の間へと視線を落とした。



それに気がついて、あわてて膝を閉じようとすると、モモの手が伸びてきた。

リトの膝がしらの一方に、両の手のひらを重ね、つつみこんで正座をくずし、
重心を移して、流れるように体を寄せると、あごを膝がしらの手へ乗っけた。

「こ、こら!」

リトは肩をゆらしたが、膝の上に顔があっては、跳ね上げることもできない。

「お、おい、モモ、ちょっと……」
「もう、いけないところは見えません」

それはそうかもしれないが、こっちから見れば、細いあごの斜め下あたりで、
白いタオルが乱れて、胸から腋の下まで、ゆったりとした空間を作っていた。

「お顔なら、見ていても?」
「勝手にしろ!」

リトは言い捨てると、顔を上げて、モモの背後の濡れた壁面をにらみつけた。

そのまま、時間が経っていって、意地の張り合いとしか思えない様相を呈し、
本来、前屈みで膝に体をあずけるというのは、楽な姿勢ではないはずだった。

やがて、モモはうつむくと、指の間へ舌を伸ばし、膝の窪みをぺろりと舐めた。

やめさせようと思って、手を伸ばしたが、叩いたりするわけにもいかないから、
指先の白くなったところを、遠慮がちに撫でると、くすぐったそうに指がくねる。

爪を伸ばしていない、子供っぽい指先のくせに、おそろしく敏感なようだった。

そうして、指先を合わせていると、モモの唇がめくれ、こっちの指先を咬んで、
引っこめる間もなく、口の中を指が泳いでいって、小さな八重歯を探りあてる。

やっぱり、姉妹なんだな――――

その時、ふいに鼻の奥がムズムズするのを感じ、鼻孔から赤い線が落ちた。

「リトさん、鼻血が……」
「ん、いや、のぼせたんだ」

言わずもがなのことを言いながら、リトは唾液にまみれた指先で鼻をつまむ。

「ちょっと、オレ出るから」
「ダメ…… です……」

なまめいた声が押し出され、紫色の瞳は陰を含んで、じっとりとうるんでいた。

「だって、血が出るの、いやだろ」
「私はべつに…… かまいません」

そう言って、目の端で婉然と笑い、リトは女のそういう表情を見た経験がない。

もはや、どうしたらいいかわからなくて、リトは鼻をつまんだまま、天を仰いだ。

モモはだまっていたが、やがて、あごを浮かせると、片方の手を引き抜いて、
ひっそりと湯の中へ沈んだ手のひらは、ふたつの膝の間をすべり降りていく。

「!」


リトは反射的に膝を合わせ、湯の面が波打って、モモの顔に飛沫がかかる。

「ダメですよ、リトさん、離してください」

モモは笑い、肩がゆれたのは、笑ったせいか、もぐらせた手を動かしたのか。

「よせよ、モモ……」
「あら、どうしてですか?」

どうして、と言われても、こうしている以上、どんな言葉も空々しいことになる。

「だって、お前…… まだ子供じゃないか」

その通りだが、言った本人も未成年者だから、説得力があるとは思えなくて、
しかし、リトの物云いに、こんな厳しい調子が含まれるのは珍しいことだった。

モモは、探るようにリトを見つめてから、そっと腕を引き上げて、膝が開いた。

その刹那。

「わっ」

バシャン! と激しい音が響いて、モモの全身が、膝の間に割りこんできた。

「お、おい、モモ!」

しなやかな腕が首に巻きつき、頬と頬がしっとりと寄りそって、微熱を伝える。

「子供じゃダメなら、リトさん……」

唇の先が、耳に触れる。

「大人に、してください……」

やわらかな胸が、ぎゅうっと押しつけられて、震えているのが伝わってくる。

そして、モモのお腹を圧迫しているのは自分で、それは抑えようもなかった。

水滴が、ポツンと落ちた。

やがて、髪がゆらめき、白い喉が反りかえって、ふたつの唇が這い寄ると、
息が混じり合って、鼻と鼻をこすり合わせれば、ぬるりとした感触があった。

妙に思って、顔を離してみると、モモの鼻がトナカイのように赤くなっている。

それで思い出して、リトは自分の鼻をつまみ上げ、モモは鼻を指でこすって、
血塗られた指を見つめていたが、おっとりと目を閉じて、先端に唇をつけた。

浴槽の縁へ手を置き、ため息をつくと、リトの目を見て、とがめるように笑う。

そして、胸元のタオルを無造作にはだけ、リトの鼻のまわりを優しくぬぐって、
端の朱色に染まったタオルを、ふたたび巻きつけると、モモは立ち上がった。

「部屋で……」

そう言い置いて、浴槽から出て行き、リトは呆けた顔で、うしろ姿を見送った。

しっぽがゆれ動き、尖端から水滴が垂れて、風呂場の戸が静かに閉まった。