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タイトル「イツワリとホンネ」

寒さも少し引いてきて、だんだん春の足音が近づいてきた、ある日のこと。
彩南高校の保健室で、唯は保険医の御門先生に診てもらっていた。
生真面目な彼女にしては珍しく、風邪をこじらせていた。

「珍しいわねェ…ここに来ること自体、殆ど無いあなたが…」

カルテを書きながら、御門先生が呟く。

「ご…ごめんなさい、ゴホッ、ゴホッ…」

慌てて謝ろうとして、咳きこむ唯。

「そんな、謝る事はないのよ…季節の変わり目は気温が不安定で誰でも体調を崩しやすいから、きっとそれね…」

やんわりとフォローの言葉を述べる。
だが…風邪をひいた当の本人は、本当の原因は、なんとなく分かっていた。
そんな心情が顔に表れたのか、御門先生が唯に尋ねてきた。

「…それとも、何か別の理由が有ったりするの、古手川さん?」

「えっ!?い、いや、そんな…そんな事は、あ、ありません…」

しかし基本的に正直者な唯、こういう時に、咄嗟に上手な嘘がつけるはずも無かった。声は裏返り、目は明後日の方向を向いていた。

「ふふっ…それじゃ、有るって言ってるようなものよ?さあ、本当の理由はなに?教えてちょうだい?」

唯は恥ずかしくなって、俯いてしまう。
しかしそれは、あっけなく嘘を見破られたから、ではなかった。
とりあえず全貌は伏せ、最低限のことだけ話す事にした。

「…か、考え事をしてたら、なかなか寝付けなくなっちゃって…」

俯いたまま、絞り出すような声で言葉を出す。

「ふんふん…で、どんな考え事なの?」

言葉を促す。
しかし、唯は下を向いたまま答えない。

言えない。
言えるはずがない。
まさか、あんなこと…
みるみる内に、唯の顔が赤くなっていく。

「あ、あらら?ごめんなさい、あんまり聞いちゃいけない事だったかしらね…」

御門先生にしては珍しく慌てた様子で取り繕う。

「うーん…あ!それじゃあ…♪」

不意に何かを思いついたように立ち上がり、戸棚の方に向かう。そして、ゴソゴソと戸棚を探り始めた。

「んーと、確かこの辺に…あ、あったわ♪」

しばらく探した後、1つの小瓶を持ってきた。中に、仄かな桃色をした液体が入っている。

「これ、こないだ調合した、風邪の特効薬なんだけど…飲んでみる?よく効くわよ~、この前私の家に来た患者さんも、これ飲んだらケロッと治っちゃったわ」

普段の唯なら、何かと厄介な事を引き起こしがちな御門先生の薬は、やんわり断ったかもしれない。しかし今は、熱に浮かされ、頭もボーっとしていた故に…判断力が、鈍っていた。
「あ…はい、頂きます…」

ぼんやりした顔で、唯は薬の入った小瓶を受け取る。

「じゃあ、飲んでみて。あ、一口で充分よ?」

「あ、はい…」

そう言って、小瓶の蓋を開ける。そして思い切って、一口、飲んでみた。
─ゴクリ─
すると…驚くべき事に、本当に体が楽になってくる。ボーっとしていた頭も、すっと冴えてきた。

「あ…あ!」

「…どうやら、効いたみたいね♪」

満足そうな表情で、御門先生が頷いた。

「あ、ありがとうございます!」

「どういたしまして。良かったわね、早く治って…さ、今からだったらお昼食べる時間もあるでしょうし、早くお行きなさいな?」

「はい!あ、ありがとうございました!」

「ええ、お大事にね♪」

唯はお礼を言うと、早足で保健室を出ていった。

保健室を出て、教室に戻ろうとすると…

「あ!古手川、ここに居たのか」

「!?」

気づくと、目の前に結城リト…まさに、昨夜自分が夜更かしをしてしまった原因その本人が、立っていた。

「ゆ、ゆゆ結城くん!?な、何の用?」

保健室を出て突然、一番会いたくない…いや会いたいのか会いたくないのかよく分からない相手に遭遇してしまって、いやが上にも戸惑いを隠せない。

「ああ、ララがさ、『みんなでお昼一緒に食べよー♪』て言ってたから、古手川もどうかな…って思ったんだけど…」

「えっ!?」

思いがけない誘いに、唯は更に驚く。

「でも、保健室から出て来たって事は、体調悪いって事だよな?お昼ご飯食べれそうか?」

リトのこんな誘いを、唯が断る筈も無い。もう風邪も治ったので、断る理由も無く…

「ええ、大丈夫よ。御門先生がすっごくよく効く薬をくださったから」

「そっか、良かったな治って!なんか今日だるそうにしてたけど、風邪だったんだな…」

ホッとしたような表情になるリト。
作ったような表情でなく、心からと分かるそれだった。
そんなリトの顔を見て、トクンと一拍、唯の胸が高鳴った。
いつも、ついつい厳しく当たってしまっている自分を、本気で心配してくれている─
心の中で、感謝の意─そして、好意を抱かずにはいられなかった。

「…あ、ありがとね、結城くん。心配してくれて…」

唯なりに、精一杯の感謝を込めてお礼を言う。

「?気にすんなって、ホラ、古手川って、時々頑張りすぎるほど頑張り屋だからさ…なんか、よく分かんないけど…ついつい心配しちゃうんだよな」

少し苦笑いを浮かべながら返すリト。

「ま、今はそれは置いといて…さ、ララ達待たせると悪いし、早いとこ教室行こうぜ?」

─また一つ、結城くんの優しいところが見れた。
それへのお礼の意味も込めて、唯は笑顔で、言葉を返そうとした。

「ええ。じゃ、行きま─」

が…、ここまで言って、言葉が詰まった。いや、出なくなった。
唯の中で…今まで、無意識に抑制されてきたあの感情が、突然膨れ上がってきた。

こんな風に、自分を優しく気遣ってくれる…結城くんのことが、大好き。
それは、今までもなかなか表に出さないだけで、心の中はずっと思い続けていた事なのだが…今は、唯本人も、自分で困惑してしまうくらい、その気持ちは抑えきれなくなってきていた。

(わ…私、こんなに、こんなに結城くんのこと…?
ダ、ダメよっ!も…もし結城くんに、し、知られちゃったら…)
今まで、リトを想って想像した色々な事が頭を過ぎる。
不良達に絡まれた時に助けてくれて嬉しかった事。その時、手を握られて、ドキドキした事。
雨の中の公園で押し倒されて、ドキドキしすぎて思わずイケナイ事を考えてしまった事。セリーヌと一緒の時、家族と間違われて、本当に3人家族の妄想をしてしまった事…
そして、この前リトにお返しのぬいぐるみを貰って、とても嬉しかった事…。
しかし、そんな僅かに残っていた理性や抑制も…膨れ上がっていくリトへの好意に、飲み込まれていく。
今や、リトに対する強がりや、本人や周りのみんなに、自分の想いが知られてしまう恥ずかしさ…そういった感情全てを、『結城くんが好き』という感情が、遥かに上回っていた。


「…古手川?大丈夫か?」

しばらく動きの止まっていた唯を心配して、リトは声をかける。

「やっぱ、まだ体調治ってないんじゃないか?無理する─」

リトの言葉は、ここで止まった。出せなかったのだ。
今起きた事の、あまりの突然さに、頭がついていけなかった。
なんと…唯が、リトに抱きついてきた。それも、思いっきりに。

数秒経って、やっと状況が飲み込めてきたリトの頭の中は、激しく混乱する。

な…何で古手川が?
オレ、なんかこんな事されるような事言ったっけ…?

出るはずのない答えを求め、必死で考えを巡らせていると…唯が、いつの間にか抱きつくのを止めて(それでも両手は肩に回されたままだが)、こちらを見つめている事に気付いた。

いつもは、リトの視点からすれば、怒ったような表情が殆どの唯だが…今は違った。潤んだ目で、そしてまるで子犬のような甘えているような表情で、やや上目遣いのような感じでこちらを見つめている。

(な…何なんだ…?)

今まで見てきた表情とはまるで違う唯のそれを見て、激しく困惑する。が、それと同時に、何故か胸が高鳴っていく。
まるであの日の、あの夕暮れの、あの時のように…

(!?ま、また…オレ、何ドキドキして…)
しかし、リトがドキドキするのも無理はなかった。唯の場合、普段が普段なだけに、不意にこういう表情を見せられると…その破壊力は、実際よりも大きく感じてしまうものだ。

困惑するリトに、唯が話しかける。

「結城くん…」

「な、何だ?古手川…」

今し方の唯の声を聞いて、更に戸惑う。
いつものあの毅然とした声ではなく、どちらかと言えば、唯の声というより…甘え上手な、ララやルンやモモが出しそうな声だった。
しかし…そんなちっぽけな疑惑は、唯の一言で、完全に吹っ飛んで行った。

「私…いつも私を気遣って、優しくしてくれる…あなたが…結城くんが、だーい好きっ♪」

全ての思考が止まり、消え去る。頭の中が、これでもかという位綺麗さっぱり、真っ白になる。
しばらく経って、やっと頭の中に、1つの考えが浮かんでくる。

"ありえない。"
大好き?古手川が、オレの事?
そんなバカな。
だって、古手川はいつもオレに対して、ぷりぷり怒ってて…こないだのバレンタインまでは、てっきり、嫌われてるのかとすら…
やっぱり、ありえない。
校長が突然真人間になるとか、猿山のヤツが1週間の内一度もスケベな話題を出さないとか…それに負けない位ありえない。

でも…今、目の前に居る古手川は、実際に…

そんな風に悩むリトに、唯がまた話しかけてきた。

「結城くんは…どうなの?」

えっ!?と心の中で思ってしまうリト。
正直なところ…今まで唯を、そういう対象として見てはいなかった。
どう?と聞かれれば…正直に答えれば『分からない』。
機転の効く男なら、友達の女の子にこういう事を言われたら、体よくその場をしのぐ為には嘘でも「オレも君の事が…」と言うかもしれない。が、リトは、そういう嘘を平気で付ける人間ではなかった。

「わ…分かんねー…」

正直に、そう答える。
すると唯の表情がくずれ、悲しそうな顔になる。

「ダメ。そんなのダメなんだから。分かんないって言うんだったら…絶対、絶対振り向かせてみせるんだからっ」

リトはゴクリと唾を飲み込み、唯を見つめた。
何で、今まで気づいてやれなかったのだろう。古手川が、こんなにもオレの事が好きだったなんて…

しかし、今の唯の態度は、やはり何か違和感がある。やはり、突然こんな風にデレデレしてくるなんて、何かおかしい。
あの真面目で、厳しい古手川が…
しかし、いくら考えても、突然このような態度になった理由は浮かびそうにもない。

「…と、とりあえず、教室戻ろうぜ?みんな待ってるだろうし…」

あまり長々とここに居て、今の状況を誰かに見られるのもマズい。先ずはとりあえず場所を移すのが先だと考えた。

「うん。じゃあ、行きましょっ♪」
滅多に見せないような満面の笑みで、唯が答える。
2人は、教室へと向かい歩き始めた。


「はい、結城くん、あーん♪」

2-Aの教室内のとある一角。リトを含む数人が、普段からして絶対にありえないような光景を目の当たりにしていた。
唯が、にこやかな顔で、卵焼きをリトの目の前に差し出している。
リトと春菜は、呆然とした表情でそんな唯を見つめている。
リトの隣ではララが、「わー、リトと唯って、いつの間にかすっごく仲良しになったんだねーっ」と、そんな光景を見て喜ぶ。その向かいではお静が、「ホントですね、仲が良いって事は良い事ですよね♪」と微笑んでいる。
春菜の向かいではルンが、「どういう事!?」と言わんばかりの、嫉妬心全開の眼差しでリトと唯を見つめている。

「?どうしたの結城くん?」

固まったまま動かないリトを見て、唯が不安そうに尋ねる。

「え?あ、ああ…」

唯の声で、夢から醒めたかのように、目をゴシゴシ擦りながらリトが返事を返すー

「んっ。あーん?」

「あ、うん…あ、あーん」

リトが卵焼きを食べると、唯は満足したように満面の笑みを浮かべた。
と、呼び出しの放送が流れる。

『2-A古手川唯さん、至急、風紀委員会議室まで来てください。繰り返します…』

「あっ…ごめんね結城くん、私、風紀委員の集まりが有るんだった…行かなくちゃ。また、後でね」

放送を聞いて少し残念そうな表情を浮かべると、唯は急いで教室を出て行った。

やっと、今まで目の前で繰り広げられていた事に頭がついてきた春菜が、かなり不安そうな表情でリトに尋ねる。

「ゆ…結城くん…こ、古手川さんと、その…何か有ったの?」

「い、いや、何も無いし、オレにも分かんねーんだ…」

全く分からないといった様子でリトが答える。

「ひょっとして…おいララ、古手川に何もしてねーよな…?」
「え?ううん、何もしてないよ?最近、発明品も作ってないし…」

キョトンとした顔で答えるララ。

じゃあ、一体、何故突然あんな風に…と、冷静になった今、リトはもう一度考えて始めた。
すると…ふと、唯の態度が変わる直前の、唯の発言が頭に浮かんできた。

『ええ、大丈夫よ。御門先生が、すっごく良く効く薬をくださったから』

(も…もしかして…;)

「?どーしたのリト?」

「いや、ちょっと思い当たる事を思い出してさ…昼飯食べ終わったらもう昼休みも終わるだろうから、放課後にでも行くか…」

疲れた顔で、リトが呟いた。

─放課後─

─コンコン─

「はーい?…あら、結城くんじゃない、どうしたの?」

リトが中に入ると、手にしていた生徒のカルテから目を上げて、御門先生が応えた。

リトは、単刀直入に切り出す事にした。

「あの…ちょっと聞きたい事があるんスけど…昼休みの時間、古手川がここで先生に薬をもらったって聞いたんですけど…本当スか?」

「ええ、新しく調合した、風邪の特効薬を処方したわよ。それがどうかしたの?」

やっぱりか…といった感じにリトはため息をついた。

「はい、実は…」

かくかくしかじかと事の成り行きを説明するリト。

「あら…そんな事が…ごめんなさいね~、あの薬、まだ地球人にあげた事なかったから、そんな副作用を齎すなんて知らなくて…」

苦笑いを浮かべる御門先生。

「笑い事じゃないっすよ…古手川があんな風になるなんて…」

この前の滋養強壮の薬の時といい、地球人への使用を第一に考えてくれ…と、リトは心底そう思った。
とその時、保健室の扉が開く。

─ガチャリ─

「あ!居た!結城くーん♪」

噂をすればなんとやら、唯が、ノックもせずに扉を開けて入ってきて、リトを見るなり抱きついてきた。

「う、うわっ!!ちょ、いきなりくっつくなよ古手川!…もう、昔のララみたくなっちまったな…;」
困った表情で、リトが呟く。

「あらあら…話は本当のようね。こんなに激しいと、確かに参っちゃうわね~」

どこか面白がっているような顔の御門先生。
と、それは不意に悪戯っぽい笑みに変わり、リトに向けられる。

「でも…」

「?なんスか?」

「実は…まんざらでもなかったりして?」

思いがけない一言に、リトは大いに慌てる。

「な、何言ってんスか先生!?オ、オレ、古手川の事は別に…」

が、そこまで言ったとき…リトは、胸にチクリとくる何かを感じた。

(え…?)

そしてその感じは、妙にすっきりしない何かとなって、胸の中に広がっていく。

(オ、オイ…何考えてんだよオレ?こ、古手川の事なんて、本当に何とも…)

しかし、実際に自分にこうして抱きついている唯を目の当たりにして、その考えは100%本心であるかと自問すると…何故か、絶対にそうであるという自信が持てない。
心のどこかで、今の自分の考えを否定する何かが、ひっそりと息づいていた。

口ごもって黙り込んでしまったリトを見た御門先生が、勝ち誇ったような、それでいて面白がっているような笑みを浮かべる。

「ほら…やっぱりそうなんじゃない♪」

「だ…だから、それは、その…」

先生の言葉で、ふと我に返るリト。

慌てて否定しようとするが、言葉が上手く出てこない。
必死で言葉を探していると……

「そうなの?結城くん、『まんざらでもない』って…本当?」

2人のやり取りを聞いていた唯が、リトから少し体を離して、リトの顔を見つめていた。
キラキラと目を輝かせ、期待と…そして些か不安げにこちらの様子を窺うような、何ともし難い表情だった。

(う、うっ…)

リトは、気付き始めていた。
ララやルンやモモのように、好意全開で攻められるのにも少し弱いが
今の唯のように、押しと、少しの引きが合わさったようなこういう態度には、前者とはまた違った、計り知れない魅力があるという事に…

こんな表情をされたら…そして、その言葉で、この表情が悲しみに歪むであろう事を考えたら…否定の言葉が、言えなかった。
リトは絞り出すような声で、

「あ、ああ…」

と答えた。

唯の表情は、いつしかララが恋愛の本片手に頑張ってたあの日、ララが見せたあの笑顔を思わせるような、心からと分かる笑顔になった。
あの笑顔と重なり、リトはまた胸がドキリとなる。

「…うれしい♪」

万感の嬉しさが込もった声で一言言うと、唯は再びリトに抱きついた。まるでお気に入りのぬいぐるみを抱くかのように、優しく、そして一杯の愛情を込めた抱き方だった。
そんな風に抱きしめられ、リトは心臓の鼓動が一泊すっ飛んだのではないかと思うほど、胸が高鳴るのを感じた。そして、顔がみるみる紅く染まっていく。

「あ、あああの、こ、古手川…」

緊張と興奮で、言葉もしどろもどろになるリト。
そんなリトに、追い討ちをかけるかの如く唯が囁く。

「結城くんも、ぎゅーってして?」

もう頭の中は、既に真っ白になりかけていた。
ほとんど何も考えず、リトは言われるがままに、唯を抱きしめた。
しかし、緊張していたせいか、力が入りすぎたらしい。唯の表情が、少し曇る。

「ダメッ…もっと、優しくして…」

慌てて力を抜き、出来るだけ優しく抱こうとする。

「こ…こうか?」

満足の行く力具合になったようだ。唯の顔は、恍惚としたような、とろんとしたような表情へと変わった。
すると、唯はリトの肩に頭を預け、目を瞑った。

「ありがと…結城…く…ん…」

眠たげな声で一言そう言うと、唯は黙り込んでしまった。

「?こ、古手川?」

不審に思って、見てみると…何と唯は、立ったまま、スースーと寝息を立てていた。

「た、立ったまま寝てる…;」

参ったような様子のリト。

「あらら…どうやらあの薬、強い眠気まで催しちゃうみたいね…生徒に使うにはまだ、改良しなきゃダメかしらねェ」

「!?」

後ろから聞こえた御門先生の声に、リトはかなり驚いた。
今まで、唯とリトは、完全に2人の世界に入ってしまっていた。
そして、御門先生の言葉を聞くまで、今の唯の態度は、薬の副作用によるものだという事を、忘れかけていた。

(す…すっかり忘れてたぜ…お、落ち着けオレ!い、今の古手川にドキドキしたって…)

なんとか落ち着こうと、その場で深呼吸をしながら必死で自分に言い聞かせるリト。

「うふふっ、大分振り回されちゃったみたいね~」

そんなリトの様子を見て、御門先生がコロコロと笑いながら言った。

「え、ええ…まあ」

バツが悪そうに頭をかくリト。

「さ、いつまでも寄りかかられてちゃ困るでしょ?ここのベッド開いてるから、とりあえずここに寝かせて?」

「あ、はい。よいしょっと…」

御門先生に言われ、リトは唯をベッドまで連れて行き、そこに寝かせた。

「…ぎこちないエスコートねェ、それじゃ将来"そういう時"になったら困るんじゃない?」

ベッドに連れて行くまでの一連の動作のぎこちなさをからかう御門先生。

「そ!"そういう時"って何スか!!だ、だからオレは…」

"そういう時"をついつい想像してしまい、リトは一瞬で沸騰して顔を真っ赤にしながら反論する。

「うふふ、冗談よ。それはさておき…」

言葉を切り、唯の方を振り向く。

「あら、寝顔も可愛いわねー…ほら、見て御覧なさい?結城くん」

言われるがままに、見てみると…先生の、言う通りだった。唯の寝顔は、普段からは想像も出来ないほど、柔和で、無垢で…年頃の女の子らしい可愛らしさが有った。
先ほどリトに抱かれて満足したのか、少し幸せそうな表情にも見える。

(あ…あの古手川が…こんな寝顔なんて…)
また、いつもと違う一面を見せられて、リトの心拍は少し速くなった。

(ヤ、ヤベッ!)

リトは、今のドキドキを御門先生に悟られてはいないかと、慌てて彼女の方を向いた。またからかわれるのは御免だ。
当の御門先生は、安眠している唯の脈拍を測っていた。

「…脈拍は正常ね…異常な発汗も無し…例の副作用と、強い眠気…生徒への実用化は、これが解決すべき課題ね…」

いつの間にか(意外にも)真面目モードに入っていたらしく、リトはホッと安心した。

「…それじゃ、彼女はしばらくここで寝かせとくわ。下校時間までに、ご家族の誰かに連絡を入れておくから、誰かに迎えに来てもらう事にするわね。でも…」

急に、御門先生の表情が曇る。

「?『でも』って?」

「時間までに、起きてくれれば良いんだけど…」
不安そうな顔で、一言呟く。

「へ?何で?」

「…まあ、話す必要になったら話すわ。今はまだ、どうなるか分からないし…」

「…………」

御門先生の言葉を聞いて、少し顔が青くなるリト。

「あ!そ、そんなに心配しなくても、それほど深刻な事じゃないのよ?」

御門先生にしては珍しく、慌てて付け加える。

「そ、そっスか…」

安心して、一息付く。

「じゃあ、一応待ってますよオレ。今日は用事とか無いし…」

「あら?お姫様はどうするの?」

「ああ、ララならマジカルキョーコの放送日だ!って、終わるなり飛んで帰っちゃいましたよ」

苦笑いしながら応える。

「そう…なら、待っててくれる?起きた時、あなたが居ると古手川さんも嬉しいでしょうし…」

こうしてリトは、下校時間まで待つ事にした。


そして、下校時間─

唯は、未だにスヤスヤと眠っていた。
保健室の扉が、ガチャリと開く。

「困ったわ…ご家庭に連絡したんだけど、誰とも連絡が取れなくて…」

困った顔の御門先生が入ってきた。

「?じゃあ、古手川を起こして、オレが送ってけば…」

御門先生は首を横に振る。

「違うの。今古手川さんがこうしてスヤスヤと寝てるのは、一応"薬の未知の副作用によるもの"だから、無理に起こすとひょっとしたら何か有るかもしれないし、出来るだけ、自然に目が覚めた方が良かったのよ…万全を期してね」

真顔で述べる御門先生。

「そ…そうなんスか…だからさっき"時間までに起きてくれれば"って言ってたのか…」

御門先生の言葉を思い出し、納得するリト。
思いがけず直面した問題に、困り果ててしまう。

(どーすりゃ良いんだ…オレ…)

先ほどと変わらない唯の寝顔を見つめながら、必死で考える。

そして…しばらくして、一つの考えが浮かんだ。
というより、これしか浮かばなかった。

「…オレがおぶって、送って行きます。そうすれば無理に起こさずに済むし、起きなくても家まで来れば何とか方法は…」

いつになく真顔で、言葉を述べていく。

それを聞いた御門先生はしばらく呆然としていたが、やがて、ニッコリと微笑んだ。

「優しいのね結城くん。あなたのそういう優しさって、良いと思うわ…。じゃあ、お願い出来る?」

リトは、無言でコクリと頷いた。


学校から、唯の家へと続く道。
リトは、今している自分の行為に、些かな疑問を抱いていた。

(はあ…何やってんだろ、オレ…ヤミによく言われるけど、やっぱり『お人好し』なのかな…)

手に2人分の鞄を握り、背中に唯を背負いながら、リトはそんな事を考えていた。

ララや春菜ちゃんならともかく、自分の中では『友達のようなクラスメートのような存在』でしかない古手川に、ここまで進んで世話を焼くとは…

そうだ、これはきっとヘンな意味では無くて、『不本意だけど守ってあげたくなっちまう』みたいな、そんな感情なんだ。
古手川、いつも頑張りすぎる位頑張り屋だし、時々ムチャもするし、孤立しちゃいそうになる事も有ったし…
だから、きっと見ていて危なっかしいから、守ってやらなくちゃって気分になる…そうだ、そんな感じなんだ。

リトの頭の中で、体のいい解釈が浮かんでくる。
…だが、頭の片隅では、それとは違う声が、ひっそりと囁やく。

"それは本当だろうか"

その囁きは、聞くまいとするリトの意志とは裏腹に、徐々に頭の中に広がっていく。

そして次第に、先ほどの自分の解釈に対する自信が、薄れていく。

(…じゃ、じゃあ、オレ…オレは…?)

『危なっかしいから、守ってやらなくては』という意志の他に、何か他意が有るとしたら…?
鈍いリトでも、その答えは、容易に出た。

"自分は、古手川の事が…"

頭に浮かんだ答えを、リトは頭をぶんぶん振って否定する。

(そ、そんなバカな!?
今でさえ、ララと春菜ちゃんの事で、気持ちの整理がつかないってのに…そ、その上、古手川にまで…?)

激しく葛藤するリト。
と、そんなリトの慌てぶりを感じ取ったのか。背中から、眠たげな声が聞こえてきた。

「ん…むにゃん…あ?あれ?ここはどこ?」

遂に、唯が目を覚ましたようだ。

背中から聞こえた唯の声で、ハッと我に返るリト。

そうだ。古手川に対する気持ちがどうあれ、今自分が慌ててたら、古手川も不安になってしまう。
ここは落ち着いて、普通に接しなきゃ…
リトの気持ちは、珍しく素早く切り替わった。

「あ、ああ…古手川ん家に帰る途中だよ。古手川、スヤスヤ寝てたからさ…起こすといけないって言われたから、こうしておぶって行ってるところだけど…」

口ごもらないよう、一気に言い切ってしまう。
リトの言葉を聞いて、ボーっとしていた唯の表情が、ぱあっと明るくなった。

「ありがとう。優しいよね、結城くんって♪」

「はは…まあ、よくお人好しって言われるけどな…」

苦笑いを浮かべるリト。

「そんな事ないわよ?だって私…結城くんのそういう優しいところが、だーい好きっ!なんだもん♪」

不意に再び『だーい好きっ』と言われ、リトの胸の鼓動は早くなった。

(お、おい…今日オレ、ドキドキしっ放しだな…)

そのうち心臓が疲れてしまうのではないかと、要らぬ心配を少しだけした。

…それにリトには、もっと差し迫った問題が有った。

「な、なぁ古手川?起きたならさ、そ、そろそろ降りてくれないかな?」

それを聞いた途端、唯の表情が曇る。

「なんで?」

正直に言うべきか。
適当な言い訳も、『重いから』しか思い浮かばない。この言葉が女性に対して失礼なのは、さすがのリトも知っていた。
思い切って、正直に言う事にした。

「あ、あのさ…古手川をおんぶした時からずっと…そ、その、む、胸が…あ、あと、ふとももも…」

唯をおぶっている間、元々そこそこ大きかったのが、最近更に成長しているらしい大きな胸。そして柔らかくて、少ししっとりとしたふとももの感触は、余す事なくリトに伝わってしまっていた。

リトの言葉を聞いて、ちょっと驚いたような表情になった唯だが、その顔はすぐ、微笑みへと変わる。

「もう…ホントに、ハレンチなんだから」
しかしその言葉には、いつもと違って怒っているようなニュアンスは微塵も含まれてはいない。

「はは…わ、悪いな…」

苦笑いで誤魔化すリト。

と、突然、唯は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
そして何を思ったか、何と自らの胸を、グイグイとリトに押し付け始めた。
ふにゅんふにゅんという、制服と下着越しでも分かる胸の感触に、思わず声が上がる。

「わわっ!!や、柔らか…じゃなくて!古手川!?な、何を…?」

「…当ててんのよっ♪」

聞いた事のない勝ち気な声で、どこかで聞いたような台詞を放つ唯。

「な、なんで!?と、とにかく、早く降りてくれ!!」

今にも火が出そうな程顔を真っ赤にして、リトが叫んだ。

「…よいしょっと」

ゆっくりとリトの背中から降りる唯。

「…結城くんがあんな事言うからいけないんだから。一体どれだけハレンチなのか、確かめたくなっただけ♪でも安心したわ。我慢出来なくなって、あんな事やこんな事…なんて事にならなくて」

悪戯っぽい笑みのまま、淡々と応える。

「オ…オレは未だにそんな認識かよ…;」

知り合ってもう数ヶ月は経つのに、未だにそういう認識が残っていたのかと思うと、軽く凹んでしまう。

そんな風に凹んでいると…いつの間にか、目の前に唯の家が見えている事にふと気づいた。

「いつの間に…;」

「本当、起きてからあっと言う間だったわ…ありがとね、結城くん」

唯がにこやかにお礼を述べる。

「はは…、まあ、大した事じゃ無いって。古手川、軽かったし…」

笑いながら応えるリト。まあ、頭の中は終始『大した事』になっていたが…

ともかく、自分の役目はこれで終わった。無事起きてくれたなら、後は1人でも大丈夫だろう。
色々大変では有ったが、とりあえず一息付けると思うと、自然とホッとするのを感じた。

「じゃ…無事にここまで送れた事だし、オレはもう帰るぞ?」
先ほどまでとは違って、心から普通に落ちつきながらそう述べた。

すると…それを聞いた唯の表情は、リトとは逆に哀しく崩れる。

「…行っちゃうの?」

もう既に泣きそうな声で、リトに尋ねる。

「えっ?;」

ここまで送ってあげたんだから、もう満足しただろうと思い込んでいたリトはゎ思わぬ反応に戸惑う。

「…ホントに、行っちゃうの?」

そう言う唯の瞳に、確かに大粒の涙が見えたと、リトはそう思った。

「え…え…」

こういう時、どうして良いかなど分からない。ただ、戸惑うしかなかった。
そんなリトに、唯が、昼の時のように抱きついてきた。
しかし今度は、もっと力強く抱きついてきていた。

「…ダメ。行っちゃダメッ…」

泣き声混じりの声で言う唯。

「行っちゃ、ダメ…今…結城くんと…離れたくない…っ」

唯は半分泣きながら、リトに哀願していた。

「ちょ…ちょ!お、落ち着けって、古手川!」

リトも純粋な少年であるが故、女性の涙には弱かった。
いつしか母親に言われた、『女のコを泣かす男は最低だからね』の言葉を思い出し、慌てふためく。

だが、慌てても仕方がない。とりあえず、軽く背中をさすりながら、唯を諭す。

「ほ…ホラ、落ち着けよ?な?」

ぎこちない手つきで、唯を落ち着かせようとするリト。

効を奏したのか、次第に、唯も落ち着きを取り戻してきた。

唯は抱きつくのを止め、リトから少し離れ、涙で潤んだ目で、リトの顔を真正面から見つめる。

「…じゃあ…」

「…じゃ、じゃあ?」

返ってくる答えが分かるような気がしたが、答え返した。

「せめて今日だけは…一緒に、居てくれる?」

やはりか、と思いながらリトは額に手をあてた。
どうするべきか…。

だが、自分の中でも既に答えは決まりかけていた。
ここで断ったら…また、古手川の悲しむ顔を見る羽目になる。
それはお互いにとって、良い事は無い。
それに…御門先生も帰り際、『明日には解毒剤を調合しておく』と言っていた。
こうなったら、乗りかかった船。もう、出来うる限りはとことんまで付き合ってあげよう…
答えは、直ぐに決めれた。

「あ、ああ…分かったよ。今日は、一緒居てやるよ」

その言葉を聞いた途端、唯の表情に明るみが差す。

「…ほんと?」

「ああ。ここでウソついたって仕方ないだろ」

リトの肯定の言葉は、唯の顔から悲しさを吹き飛ばした。

「…ありがとっ♪」

小さな声でそう言うと、また唯はリトに抱きついてきた。

が、流石に今日1日で抱きつかれる事には慣れてきていた。ちょっと驚いたが、すぐ落ち着く。

「こ…古手川、嬉しいのは分かったからさ…と、とりあえず家に入ろう、な?」

今更だが、この場面を見られてはマズかった。もし、籾岡辺りに見られたりでもしたら…こういう噂は、驚くほど広まるのが早い。

…しかし、唯の家に上がるに当たっても、問題はあった。

『今日1日は唯と居る』という事になれば、当然、唯の家に泊まらなければならない。それなら、今この瞬間にもリトの帰りを待っているであろうララ達や美柑に、連絡を入れなければならない。
が、それよりも何よりも…まだ顔も知らない唯の親に、許可を取らねばならないのだ。

(どうすっかな…先生が『連絡つかなかった』って言ってたから、今は遊さんや家の人も居ないかもしれないし…そもそも、どう説明したら…)
次から次へと襲い来る問題に、頭を抱えたいのを堪えて悩むリト。
が…、そんな風に悩んでいると…

─チャリン─

「や、ヤベっ!!」

「!?」

近くで、何か音がして…次いで人の声がしたのを確かに聞いた。

(だ、誰か居るのか?)

留守を狙って来た、怪しい奴かもしれない。どちらにしろ、このまま放っておく訳にはいかない。

「こ、古手川。ここで待ってろ」

「?」

気付いてない唯をその場に待たせ、リトは音のした方へ、そろりそろりと足を忍ばせる…

と、そこには…

「…!?ゆ、遊さん!?」

「お、お兄ちゃん!?」

果たしてそこには、塀を登ってその場から立ち去ろうとする遊の姿が有った。

「…あちゃー。やっぱ、バレちまったか」

苦笑いを浮かべながら、軽やかに塀から飛び降り着地する。

「いや~…しかし、マジでビビったぜ!お前ら、まさかもうそんな所まで行ってたとはな…」

全てを知っているかのようなニヤニヤ笑いを浮かべる遊。

「え…?」

「結城、隠さなくったって良いぜ?オレ、ちゃんと聞いてたんだからな?
『一緒に居て』『ああ』…シンプルだけど、熱々な逆プロポーズだったぜ、ウン」

どうやら、先ほどのやり取りを見られていたようだ。…しかも、紛らわしい一部分だけを見て、思いっきり勘違いしていた。

『逆プロポーズ』の言葉を聞いて無言で顔を赤らめる唯を尻目に、リトは猛烈に否定した。

「ち、違いますって遊さん!!あ、あれはその…」

「そーいや、この前もあんな場面に遭遇しちまったもんなぁ…こうなる事は時間の問題だった訳か…」

完全に、スルーされていた。頭が痛くなり、思わず手をあてるリト。
こうなったらもう、真実を包み隠さずバンと言ってしまう他には、道が見えなかった。

「遊さん?あの…実は…」

今日一連の出来事と、今に至る経緯を、洗いざらい話していった。

話を聞き終わると、ニヤニヤ顔だった遊も流石に真顔になる。

「つまり、薬で唯が少しおかしくなった、と…何だ、その…お前も、相変わらず大変だな…」

同情を込めて述べる遊。

「そうなんスよ…古手川…じゃなくて、ゆ、唯ちゃん…も、別に好きでもない奴にベタベタするなんて、望んでる筈も無いですし…」

そう言うリトと、「え!?私、結城くんの事だーい好きって言ったじゃない?」とリトに言い寄る唯を見て、遊は溜め息をついた。

(そういえば、コイツ…結城は、まだ唯の気持ちに、気づいてなかったらしい。
身内という見方を除いてもあれだけ分かり易い奴なのに、一体どれだけ鈍感なんだ…と、心の中で呆れていた。
しかし同時に、これは唯にとってはチャンスだ…という見方も、遊はしていた。
今日1日、ずっと一緒に居れば…流石に鈍感なコイツであれ、多少なり唯の何かに気付くのではないか…そんな考えが、頭の中に有った。

(…唯の為、か…ま、たまには手助けしてやるか♪)

事を決めた遊は、リトと唯の方に向き直った。

「ま…とりあえず、外で長々と話し込むのも何だし…ホラ、上がれよ?」

結城の決心が鈍らない内に、早い所、家に上げてやらねば…そう思った遊は、早速リトを家に上げる事に決めた。

「え?今、親御さんは居るんスか?」

「?ああ、母さんが居るよ」

にべもなく答える遊。

「え!?で、でも、先生が『連絡取れなかった』って…」

「ああ、それなら…ついさっきまで、電話線が抜けてたみたいでさ。掃除ん時に抜けちゃってそのままだったらしいぜ。おっちょこちょいだよな、全く…」

思わぬ事実に、リトの緊張は急激に高まった。
てっきり遊以外には誰も居ないと思い込んでいたリトは、期せずして唯の母親と対面する事になったのを知って、否が応でも緊張してしまい始めていた。

(こ、古手川のお母さんって…ど、どうやって事情を説明すれば…)

慌てて頭の中で考えを巡らせるリト。

しかし、考えが纏まらない内に、遊と唯が、玄関に入るなり、大声で言った。

「ただいまーっと」

「ただいまー♪」

アチャー…と、声を出しそうになるのを辛うじて堪えたリト。
案の定、リビングの方から、中年位の女性が小幅で駆けてきた。
どこにでも居そうで、平凡で…かつ、温かみが有りそうな…唯の、母親だった。

「あら遊ちゃんに唯、おかえりー♪」

我が子2人の帰宅を喜ぶ唯の母。
と、唯の隣に立っているリトの存在に気付き、目を丸くする。

「あら…?どちら様?」

「ゆ、結城リトです…」

緊張と、何を言うか考えていなかった事から、次の言葉が出てこない。リトは、言葉が詰まってしまった。

(…やれやれ。別に唯の気持ちに気付いてる訳でもねーのに…)
少々呆れ顔の遊だったが、助け船を出す事にした。
…が、ただ助け船を出すだけでは面白くない…どうせなら…
そう考えた遊は、母に、こっそり耳打ちをする。

「ほら、この前唯がバレンタインのチョコ作ってただろ?それを渡した相手だよ、相手」

唯の母の表情が、瞬く間に明るくなった。

「まあ…まあ!あなたが…?」

「へ?」

「よく来てくれたわね、えっと…結城くん!今日は、もしかしてお泊まりに?」

期待に顔を輝かせる唯の母。

(い、一体、何言われたんだ…;)

突然テンションの上がった唯の母と、傍でニヤニヤと笑っている遊を訝しむリト。
が、何はともあれ、とりあえず正直に答える事にした。

「は、はい」

未だ緊張気味のまま、リトは答えた。

リトの言葉で、更に表情を明るくさせる唯の母。

「まあ!良いわよ、家ならいつでも大歓迎!さ、遠慮せずに上がって上がって♪」

すっかりノリノリでリビングへと向かう唯の母を見て、リトは、一体何を吹き込まれたかという不安と同時に、一抹の安堵感も覚えた。
とりあえず、事情は知らないにしろ快く泊めてくれるようなので、厄介なな事にならずに済みそうだ。
…突然あれだけノリノリになるのに、一体遊が何を言ったかは気になるが…多分教えてくれそうにもないので、敢えて聞かぬ事にした。

「じゃ、とりあえずリビングで、コーヒーでも…」

「あ、はい」

言われるがまま、リビングへ向かおうとするリト。

が、その時、唯が横からリトの制服の袖をクイクイと引っ張った。

「ん?」

唯の方を振り向くリト。

「ダメッ。結城くんは私の部屋に来るのっ…」

少し切なげな表情の唯が、幼子がただをこねるような口調で、リトにお願いしている。

唯の母は、普段からは考えられないようなそんな娘の言動を、目を丸くして見つめている。

「まあ…ゾッコンなのねぇ。あの真面目すぎるくらい真面目な唯が…」

「いや、これはその…」

感嘆の声を挙げる唯の母に、慌てて訂正を入れようとするリト。
しかし、唯の母はそんな言葉はどこ吹く風と言った調子で、

「さ、私みたいなおばさんが、いつまでも若い2人の邪魔してちゃいけないわね。じゃ、早くお行きなさい。ご飯が出来たら、呼んであげるから♪」

と言い、軽い足取りで奥へと退散していってしまった。

そんな唯の母の後ろ姿を、リトは呆然と眺めていた。

(絶対…勘違いされてる…;)

自分と古手川は、そんな関係ではない。ただのクラスメート…最近では、友達として認めてくれてるみたい、といった程度で…

「結城くん、早く行こっ?」

隣で唯が、またリトの制服の袖をクイクイしながら催促していた。

「あ…ああ…」

唯の声で、我に返るリト。

「じゃな、頑張れよ♪」

暫く傍観していた遊は、リトに激励の言葉をかけて自分の部屋へと上がって行った。

「私達も行きましょ♪」

すっかりにこやかな表情の唯。
もう、一度決めたからには、とことんまで、付き合ってやらねば…
先ほど、唯に約束した時に、そう決めたではないか。
そう考えたリトは、揺らいでいた決心を再び固め、唯と一緒に彼女の部屋へと上がって行く事にした。
…が、ここでふと、1つ大事な事を忘れていたのを思い出した。

「…あ!」

「?」

「ワリィ古手川、先に行っててくれないか?ちょっと、ト、トイレに…」

「えっ…もう、早く来てよね?待ってるから…あ、トイレはあっちよ」

トイレのある方向を指差すと、唯は少し寂しそうな顔で自分の部屋へと戻っていった。

「…ふぅ、良かった」

上手く凌げた、とリトは安堵した。
本当はトイレに行きたかったのではない。家に、連絡をする為だった。
ただ、今の唯なら「そんなのは後でっ…」とでも言いかねない。だがトイレなら渋々でも断らない筈なので、申し訳ないがとりあえず嘘をつかせてもらったのだ。

一応本当にトイレに入っておく事にしておく事に決めたので、中に入り、鍵をかける。
ポケットから携帯を取り出し、アドレス帳から自宅の電話番号を探し出し、かける。

プルルルル…

ふと画面の右上を見ると、もう5時50分を過ぎていた。

(やべ…すっかり遅くなっちまった…)

美柑、怒ってるかな…などと考えつつ、自宅の誰かが電話に出るのを待つ。

待つ事数秒…

─ガチャッ─

「もしもし、結城ですけど…」

出てくれた。これは美柑の声だ。

「もしもし美柑、オレだよ、リト」

それを聞いた途端、スピーカーから不機嫌そうな返事が聞こえてきた。

「リト!もう、何してたの!?あんたが帰ってこないとご飯作り始める事もできないじゃんっ」

電話口の向こうで、頬をムッと膨らませる美柑が容易に想像できた。

「わ、ワリィワリィ、実はさ……」

今まで何をしていたかを、今日の一連の出来事と絡めて説明した。

聞き終えると、先ほどの遊と同じく、スピーカーからは同情の意を含んだ声が聞こえてきた。

「古手川さんが、薬で…あんたも大変ねェ、リト…;」

(しっかり者とはいえ)自分の妹にまで同情されると、何だか情けない気分になってきた。

「まあ…な…それ以上は、言わないでくれ…」

うなだれながら答えるリト。

「まあ、頑張りなよ?古手川さん、普段溜めてる分、こういう時は凄く積極的になってそうだし…」

「?普段溜めてる?」

怪訝そうに返すリトの声を聞いて、美柑はしまったと思った。
そういや、あの鈍感お兄ちゃんは古手川さんの気持ちに気付いてないんだっけか。
まあ、春菜さんの気持ちにも気付かない位だから無理もないけど。
そう考えていると、受話器からリトの声。

「ああ、そっか…普段色々頑張ってストレスが『溜まってる』って事か…ニブいな、オレ」

自分の兄の余りのニブさに、美柑はため息をついた。

「うん…ホントにリトはニブいよ…」

兄がそれを『普段抑えてる好意』と気づくのは、果たして来るのだろうかと訝しみながら、美柑は呆れ口調で答えた。

「まぁ、ララさん達…特にヘンな解釈しちゃいそうなモモさんには私から上手く言っておくから、頑張りなよ?
じゃ、そろそろ切るよ?みんなのご飯作らなきゃならないし、忙しいから…」

とりあえずみんなにも上手く言っておいてくれるとの事なので、リトはほっと安堵した。

「あ、ああ。サンキュな美柑…じゃ、美柑も頑張れよ?」

「え、えっ?」

不意にリトから『頑張れ』と言われ、受話器の向こうで美柑の顔がほんのり赤く染まった事を、リトは知る由もなかった。

「あ…あ…あんたに言われなくったって頑張るんだからっ。そ、そっちこそ古手川さんが積極的だからってうっかりヘンな事しちゃダメだからね!?
じゃ、じゃあね!頑張りなさいよっ?」

─ガチャッ─

一気にまくし立てると、美柑は一方的に通話を切ってしまった。

「な…何なんだ…?」

分かりやすい唯の好意に気づけない彼が、それがまさか自分の妹が、自分に抱く気持ちによる照れ隠しだと気づく事は、当然無かった。

ふと時計を見ると、もう6時丁度。

「ヤベっ、少し遅くなったかな…早いとこ、行ってやらなきゃ…」

今の古手川は、きっと首を長くして待っている筈だ。
慌ててリトは鍵を開け、トイレから出た。
そして階段を上っていき、以前一度向かった、唯の部屋へと向かっていった。


コン、コン─

「こ、古手川?入るぞ?」

「唯の部屋」と表記されてある、猫の形をしたネームプレートが掛けてある戸をノックしながら、リトは尋ねた。
以前来た時にはノックせずに入ったため良からぬモノを見てしまい、且つ良からぬ目に遭ったのを覚えていたリトは、今回はちゃんとノックする事にした。

返事の代わりに向こうから戸が開き、唯が自らリトを出迎えた。

「もうっ!遅いわよ結城くん!…寂しかったんだから…」

ちょっとだけ怒っているような顔の唯。

「わ、ワリィ…」

頭を掻きながら謝るリト。

「まあ良いわ。じゃ、入って結城くん♪」

すぐに気を取り直したのか笑顔になり、リトを迎え入れる。

「あ…ああ…じゃ、入るぞ…」

ちょっと緊張しながら、リトは唯の部屋に足を踏み入れた。
ネコのぬいぐるみやら小さいポスターやらがいくつか増えていた事以外は、以前来た時と変わらない光景だった。

堅物な唯のイメージとはかけ離れた、可愛らしくて女の子らしい部屋。その本人とのギャップが、何かこの部屋の可愛さを殊更に引き出しているような気がした。

(ううっ…やっぱ、女の子の部屋に居るのって、なんかキンチョーする…ラ、ララの部屋とかならまだしも…)

部屋に入った途端、緊張が蘇ってしまったリト。
その上、話し上手でもないのでこちらから何か話す事も見つからず、なかなか落ち着けない。

思わず、『そっちから何か話してくれ』といった視線を、唯に向けてしまう。

…が、唯を見ると…何かを期待しているような目で、彼女の方もまたリトを見ていた。そして、チラチラとベッドの方へと視線を走らせていた。

(…?古手川、何が言いたいんだ?)

彼女の意図する事が分からず、頭を悩ませてしまう。
すると…困惑した頭の中、突如、ある考えが浮かんだ。…いや、浮かんでしまった。

リトだって、普通の高校生。一部からはその理性の堅さから賢者だの何だのと言われてはいるが、彼もまたそうである前に、1人の男の子である。
いくら彼でも、たまにはヘンな事だって考えてしまう。
年頃の男の子なので、もちろん性に関する知識は多少なりある。

(今の状態では)自分に好意を持っている女の子が、何かに期待したような顔で、ベッドへと視線を走らせている…
そういった方面の事に興味津々である年頃の男の子から見て、それの意味する事は、と言えば…
不本意ながら、今、リトの頭の中にはそういった見方と同じ事を意味する想像が、膨らんできてしまっていた。

唯が、ベッドの上で無防備にこちらに下半身を向け、熱っぽい目でこちらを振り返り、頬を染め、甘い声で囁く。

『結城くん…今までの責任…取ってよね…』

一瞬で頭が湯気が出そうな程沸騰し、パニックになるリト。

(だ…だだだダメだ!!なな、何考えてんだオレはっ!?)

しかし、一度火が付いた年頃の少年の妄想というのは、なかなか止まらないものである。
今のリトの頭の中では、唯が、普段の彼女が知ったら何回『ハレンチな!!』と張り手を貰うか分からない程"ハレンチな"事になっていた。

(………………)

絵にするなら、プスプスやプシューといった擬音が描かれそうな…それ位、リトは自らの妄想に沸騰してしまい、半分意識がどこかに飛んでしまっていた。

そんなリトの頭の中の事情は知らずに、唯はずっと期待した目付きで彼を見つめ、時々ベッドに視線を走らせ…を繰り返していた。
…が、彼がさっきからまるで茹でダコの如くといった状態で動かないので、遂に業を煮やした唯は、リトに声をかけた。

「まだ気付いてくれないの?結城くん…」

「…………ヘ?」

唯に声をかけられ、やっとどこかに飛んで行っていた意識が戻ってきた。

「……もう。枕の近くっ」

「へ?あ、ああ…」

どうやら的外れもいいとこだったらしい己の妄想を恥じ、頭をブンブン振ってから身を乗り出し、言われた場所を見てみると…

「…あ!これって…」

枕の横に、ちょこんと置いてあるぬいぐるみ。
それはまさしく、自分がこの前彼女にお礼として贈った、あの人形だった。

「ず、ずっとここに置いてあったか?」

「そうよ?やっと気づいたなんて…もうっ」

リトは立ち上がり、ベッドの方へと歩いていき、置いてあるぬいぐるみを手に取った。
自分があの日、唯にあげた、小さな白いネコのぬいぐるみ。糸のほつれや汚れなどは全く見当たらなく、まるで今日買ってきたばかりのようさ綺麗さだ。

「だ…大事にしててくれたんだな、コレ…」

「もちろんよ。結城くんがくれた物だもん。私、これからもずっと…大事にしてくんだから♪」

リトは、胸に何かグッとくるものを感じた。
以前ララの部屋を訪ねた時も、ララのベッドには、去年あげたあのウサギのぬいぐるみが置いてあったが…リトはこういう、とても純粋で健気な所を見せられるのには、とても弱かった。

このままだとまたドキドキが始まってしまいそうなので、リトは慌てて話題を変える事にした。

「こ、古手川!て、テレビでも見ないか?」

テレビなら、会話するにしても軽くしあうだけでOKだし、ネタはテレビが提供してくれる。リトなりに、必死で考えついた上での結論だった。

「?…まあ、結城くんがそう言うなら…ええ、良いわよ♪」

笑顔で応えると、唯は本棚の上に置いてあるリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。

ピッと、テレビの電源が付く。
そして1、2秒程経って…
綺麗な夜の港が映る。画面には、港を背景に、若い2人の男女が、真剣な眼差しで互いに見つめあっている。

『○○…やっぱりオレには、お前が必要だ…○○…愛してる。オレとずっと一緒に居てくれないか…?』

『……もう、言うのが遅いのよっ…私、ずっと、ずっと…待ってたんだからっ』

ありがちな台詞を述べながら、ひしと抱き合う2人の俳優。

あちゃー…と心の中でリトは後悔した。
よりによって、ラブロマンス系ドラマの再放送がやっていたようだ。

ちらりと、隣の唯を見てみると…
予想した通り、うっとりとした目で、テレビの画面に釘付けになっていた。

「はぁ…良いなぁ…私も、いつか誰かに、こんな風に…」

誰か、の辺りで、間違いなくこちらへの一瞬の視線を感じたとリトは思った。

(し…しかし…)

リトは、自分では意識せずに唯を見つめていた。
普段の唯からは、このようなうっとりとしたような表情は、想像出来ない。
それが今…こうして、俗なよくあるドラマを見て、そのような表情を浮かべている。
普段見せる事のない類の表情に、いつの間にかリトは引き込まれていた。

彼がそれに気付いたのは、またしても胸の鼓動が早くなってしまった時だった。

(や、ヤベぇ!またオレ、ドキドキして…!)

これではいけない、とリトは必死で考えを巡らせた。

「こ、古手川!こ、こういうのはよく見ると思うしさ、ほ、他のを見ないか?
ほら、ニュースとかさ!ああいうのはよく見ておかなきゃいけないし、な?」

かなり苦しい言い訳で、リトは提案した。

「えーっ…まあ、あなたがそう言うなら…良いけど…」

ちょっと残念そうな表情を浮かべたが、リトの必死さが伝わったのか、唯は渋々といったようにリモコンを手に取った。

ピッ、と、チャンネルが変わる。

『今日の特集は○○市にある、彩南動物園です!平日にも関わらず、今日もここは家族連れで賑わい…』

女性リポーターが、マイクを手に動物園内を歩いているのが映った。
どうやら、ニュース番組内で小さな特集をやっているようだ。

(動物園か…よし、これなら…)

これならほのぼのしてて安全だ、とリトはニュース番組に感謝した。

しかし…彼の考えは、まだ甘かった。

女性リポーターが、辺りの檻に比べて一際人集りの多い檻の前で、興奮気味に話している。

『見て下さい!えー、この、一際多い人集りの目的は…あ、見えました!!赤ちゃんライオンです!わぁー可愛いですね…!』

言葉通り、テレビ画面に映った赤ちゃんライオンは、言葉では表しきれない程の可愛らしさだった。

「か、かわいいなー…」

緊張とドキドキに悩まされていたリトも、思わずそれを忘れて愛くるしいその姿に魅入っていた。

夢中になっていたリトは、思わず隣に居る唯に同意を求めた。
自分がさっきまで、ドキドキしていたのも忘れて。

「な!可愛いよな、古手が…」

リトは、言葉を失った。
驚きに、言葉が出なかった。
隣の、唯の表情は…もはやまるで別人であるかの如く、普段からは想像もつかないものだった。
目を爛々と輝かせ、本当に心の底から幸せそうなオーラが、人の感情の変化に疎いリトでも感じ取れる程の…何とも言い表せない表情だった。

「わぁ…可愛い…♪子ネコみたい…」

普段ではなかなか聞けない、万感の愛情の込もった声の唯。

今度は…リトの胸は、高鳴る事はなかった。
が…今この瞬間、彼は別の感覚を覚えた。
何か、細く鋭くで勢いのあるモノに…一瞬で心臓を貫かれたような感覚。

暖かくて心地よい何かが、頭の中を駆け巡るのを感じる…

今彼は、ほぼ無心に、一心不乱に…唯を見つめていた。

「可愛いわよね、結城く…ん?」

唯もそんなリトの状態に気付き、怪訝な顔をしてリトに近寄る。

「結城くん?どうしたの?」

数秒、沈黙が続き…突然リトは、唯に問いかけられている事に気付き、体をビクッとさせた。

「……!?え?、あ、ああ…」

「もう、どうしたの?ここに来てから、何かヘン…」

心配さを顔に滲み出しながら、リトに尋ねる唯。

(し、仕方ねーだろ!!こ、古手川が、なんつうかその…いつもと違って…か…かわ…)

言葉に出そうなのを、リトは何とか踏みとどまる。
言葉に出したら、マズい気がしたのだ。
言葉に出してしまったら…それが、何か決定的なものになってしまう気がした。
今の、自分の考えが、そうなってしまう事には…自分の中で、罪悪感が有った。
今、古手川は普通の状態じゃない。
そんな古手川に、何かしら特別な感情を抱いてしまうのは…自分にとっても、古手川にとっても失礼な気がする。
それに…既に自分には、心に決めた相手が居るではないか。
中学生の頃からの、変わらぬ想い人…
ただでさえここ1年は、その人と、ある日突然やってきた、活発で元気で、一緒に居ると何故か安心する、あの娘との間で、揺れ動いているというのに…
ここにきて、更に別の女の子に、そういった感情を抱いてしまっては…?
自分は、ただの優柔不断で流されやすい人間なのではないか?
そう、自分で思うところがあった。

(分かんねー…けど、とにかくオレ…これ以上は…)

これ以上は…限界だと思った。
自分の理性には些かの自信は有ったが、もうこれ以上、彼女に、ドキドキさせられでもしたら…?
そうなった時、自分がどういった感情を抱くのかは…確信が持てなかった。

…そして、そんなリトの困惑を、知ってか知らずか…

「…結城くん、熱は有るのかなぁ」

不意に、唯が顔を近づけてきた。しかも、かなり。

(!?熱って…ま、まさか古手川…?)

リトは、次の瞬間何が起こるかが、予測できた。
しかし、それを回避する術などは、無かった。

「どうかな…?」

唯は、リトに顔を近づけ…コツンと、額を合わせてきた。
予測はしていた。しかし、実際にやられてみると…訳が違う。リトは心の中で、一瞬そう思った。
しかし、その考えは、次の瞬間から再び始まった、今まで一番強く激しい胸の高鳴りに、かき消された。
リトの胸は、もう心臓がはちきれてしまうのではないか、という程、激しく高鳴り暴れていた。

(お、落ち着け!ダメだ!)

必死に自分に、呵責の言葉を投げかけるリト。
が…その良心の呵責は、やがて次第に、胸の高鳴りに飲み込まれていく。
今、彼の頭の中は…目の前の少女に対する、猛烈な感情だけだった。

リトの両腕が、唯の細い肩へと伸びる。
そして、溜まった感情を吐き出すかの如く、激しい口調で唯に問いかけた…いや、問いかけようとした。

「こ…古手が…!」

その時…

『唯ー!結城くーん!ご飯、出来たわよ?降りてらっしゃい♪』

「!?」

階下から、唯の母の声が響いてきた。

「はーい♪結城くん、行きましょ?」

今し方自分が何をされかかったのか分からず、至って普通に、明るく返事を返す唯。
「……あ、ああ」

力の抜けた声で、受け答えるリト。

(た…助かった…)

今、古手川のお母さんが呼びかけてくれなかったら、自分はどうなっていただろうか?
もしかして…あのまま、勢いで…
そんな事を考えつつ冷や汗を垂らしながら、リトは唯と一緒に部屋を出て、階段を降りていった。


─数時間後─

「はぁ……つ、疲れたぜ…;」

古手川家の浴室で、リトは今日1日の色んな疲れが吹っ飛ぶ事を願いつつ、手足をだらんと伸ばして湯船に浸かっていた。
古手川家との夕食も、色々大変だった。
遊に吹き込まれたのか、どう考えても勘違いしてる唯の母に質問責めにされたり、唯は昼休みの時のようにまたしても唐揚げを「はい、あーん♪」と食べさせようとしたり、遊はそんな2人を見てからかったり…

唯一救いだったのは、出張とかなんとかで父親が不在だった事だった。
ただでさえ既に2人にかなり勘違いされているというのに、この上、父親にまでこの状況を見られたら…
そう思うと、父親が不在だったのはこの状況の中、せめてもの幸運だった。

「…とりあえず、今はゆっくり休むかな…」

目を瞑り、全身の力を抜いて楽な姿勢を取る。
普段のトラブルまみれな生活から隔絶された時間と空間で、彼はゆっくり過ごせる事に幸せを覚えながら平穏な時を過ごす…
…が、そんな彼の平穏な時は、長くは続かなかった…

おもむろに目を開けたリトは、風呂場の戸の前に、人影が立っているのを見付けた。

(…?)

さっきまでの彼なら、それが誰かは容易に推測出来たかもしれない。が、まったりと湯船に浸かってとろんとしてきた今、彼はそれが出来なかった。

(誰だ…?)

その疑問は、すぐに解けた。
戸が開き、そこに、立っていたのは…

「!?こ、こここ古手川ぁッ!?」

唯一身に付けたバスタオル一枚のみで前を隠した、唯の姿がそこにあった。

一瞬で、とろんとした眠気やまったりとした空間は、どこかに吹っ飛んでいってしまった。

「ちょ、こ、古手川…ま、マズいだろこれは!」

耳の先からも容易く湯気が出そうな程沸騰しながら、慌てて唯を静止しようとする。

「マズくないわよ…だって私、結城くんとなら…」

熱っぽい視線でリトを見つめる唯。唯の方もまた、少し頬が紅潮している。

「…それとも…」

少し表情を曇らせる。

「私とじゃ…イヤ?」

リトは、僅かに彼女の瞳に光る何かを見たような気がした。

「イ、イヤって訳じゃなくってだな!?そ、その…そこまでしてくれる気持ちはその、嬉しいんだけど…」

「だけど?」

「や、やっぱりその、ホラ…付き合ってもないのに、こ、こういうのはマズいんじゃないかと…」

リトの必死の弁明を聞いた唯は、目を瞑った。
そして、考える事数秒…目を開き、口もまた開いた。

「…分かったわ。でも…」

「で、でも?」

「長居はしないから…ちょっとだけなら…それでも、ダメ?」

もちろん、本人の意図する事は無しに…唯は瞳を潤ませ、リトに哀願した。

その様子に、リトはウッと心に一撃を喰らう。
嘘泣きでも引っかかり得る彼なのに、こんな自然な涙を見せられてしまっては…彼の心は、徐々に傾いて行った。

「わ…分かったよ…」

観念したように、呟くリト。

「ホントに?良い?」

リトの言葉を聞いて、唯の表情が少し明るくなる。

「た、だだし!ち、ちょっとの間だけだからな!?オ、オレも嫌じゃないけど、あ、あんまり長く居るとどうなるか分かんねーし…」

「…ありがとっ♪」

陰気な表情は完全に消え去り、彼の言葉に唯はニッコリと笑顔で応えた。

「じゃ、早速…結城くん、上がって!私が、洗ってあげるから…」

チョイチョイと、手招きする唯。

「へ?…あ、ああ」

いきなりの誘いではあったが、リトは少しホッとした。
もし、一緒に湯船の中に入る、なんて事になっていたら…

腰を上げ、リトは湯船から出た。
もちろん傍に置いてあったタオルで、前は隠してある。

「じゃ、座って。背中流してあげる♪」

「わ、ワリィ。体はもう洗っちまったんだ…」

彼はいつも浴槽に浸かる前に、体だけ全て洗っていた。

一緒にお風呂に入る時恒例の『背中流し』が出来ない事を知り、ちょっとムスっとなる唯。

しかし、今の唯はそんな事では挫けなかった。

「分かったわ。じゃ、頭洗ってあげるわ♪」

表情を直すと、唯は傍に置いてあるシャンプーの容器を手に取った。

「へ?」

背中を流してくれる…ならよく聞くが、頭を洗ってもらうなどはあまり聞かない。リトは軽く驚いた。

「ほら、ちゃんと目瞑って?目に入るといけないでしょ?」

既に唯の方は、洗ってあげる気満々で、準備も万端だった。
ここで断るのは悪いと思ったリトは、素直に唯に洗ってもらう事にした。

「わ、分かったよ」

言われた通り、目を瞑るリト。

「それでよし♪…それじゃ…」

唯は椅子に座ったリトの後ろから、彼の頭を洗い始めた。
すると…

(~~~~~!!!??)

リトは、声にならない叫びを挙げた。
勘違いしないで欲しいが、唯の洗い方に、原因があった訳ではない。
彼がそのような叫び声を挙げたのには、別の原因があった。

後ろから、唯が「よいしょ、よいしょ」と洗う毎に。
薄いタオル一枚越しの大きな彼女の胸が、リトの背中に押しつけられていた。
タオル越しとは言えども、その柔らかさは、充分すぎる程リトには伝わってしまっていた。
彼は、この瞬間まで気付いていなかった。
唯の胸は、自分が知る限りかなり大きい、ララに負けず劣らずのモノだという事に。

(こ、古手川って、こ、こんなに…
って!何考えてんだオレッ!今日のオレはおかしいぞっ!?このままじゃ将来校長みたくなっちまうんじゃ…!?)

要らぬ心配をしながら、リトは必死で煩悩を振り払おうとしていた。
体勢からして、頭を洗ってもらう以上、胸が当たってしまうのは仕方がない事だった。
前から洗ってもらうなんて事になれば、自分の大事な部分が、すっかりいつもより元気になってしまっている事がバレてしまうだろう。

(が、我慢だ!我慢するんだオレ!!耐えるんだ!!)

唯が丁寧に頭を洗ってくれている数分間、リトは自分の持てうる理性をフル動員しながら耐えた。

─ジャー──

シャワーで、あわあわになったリトの頭を洗い流す唯。

「どう?気持ちよかった?」

「あ……ああ」

ある意味『気持ちよかった』が、そんな事を口に出してしまってはいよいよ自分は終わってしまうと思ったリトは、なんとか喉まで出掛かった次の言葉を飲み込んだ。

「ほんと?良かった♪」

唯はニッコリと笑顔になる。

と、その時…

─ガチャッ─

『!?』

二人同時に、戸を方を振り向く。

「結城くん?お湯加減はいかが…あ、あら?」

唯の母が、リトに湯加減の具合を聞きに来たようだ。
唯の姿を見付け、リトと併せてジッと見つめる。

「あ…古手川の…じゃなかった、唯ちゃんのお母さん、こ、これは、その…」

慌てて弁解しようとするリト。
しかし頭は上手く回らず、言葉に詰まる。
そんな慌てふためくリトを見て、唯の母が微笑を浮かべる。

「あら、まぁ…お邪魔してごめんなさいね、まさかあなた達がそこまで行ってたとは、私思わなくって…」

「ち、違いますよお母さん!こ、これは古手川…じゃなくて、ゆ、唯ちゃんが…」

「良いのよ良いのよ、恥ずかしがらなくったって♪じゃ、ごゆっくりね!1時間でも、2時間でも…何なら今日は私や父さんは、近くの銭湯で済ませるから、もっと長くても構わないわよ?じゃあね♪」

―ガチャリ―

にこやかに笑いながら、なんともとんでもない事をさらりと言う唯の母であった。
(はあ…どんどん誤解が深まっていく…;)
自分の苦労体質を改めて実感し、涙が出そうなのをグッと堪えた。

「結城くん…?」

しばらく黙っていた唯が、口を開く。

「な、何?古手川」

恐る恐る、後ろを振り向くリト。
というのも、今聞こえてきた声が、先程までより妙に艶っぽい響きを纏っていたように思えたのだ。
案の定、唯ははっきりと分かる上目遣いでこちらを見ていた。
次に飛んでくる言葉に、リトは身を構えた…

「わ、私は…良いよ?その、結城くんがどうしてもって言うなら…な、何時間でも…」

元々こういう面に免疫の無いリトが身構えた所で、こんな言葉に堪えられる筈も無かった。
先程からのドタバタで既に煮えきりかけたいた頭が、完全に沸騰してしまった。
リトの頭の中では、生まれたばかりの格好の唯が、艶めかしいポーズを取りながら迫ってくる光景が駆け巡っていた。

「結城くん…前も、洗ってあげる…♪」

(~~~~~~~!!!!!!!)

色んな意味でもうその場に居られなくなったリトは、体に痺れが走ったかのように急に立ち上がった。

「!?」

不意に立ち上がるリトを見て、唯が驚く。

「わ、ワリィ古手川!!オ、オレ先に出る!!」

これ以上居たら、本当にどうなってしまうか分からない。

自分の為、そして唯の為…リトは急いで風呂場から立ち去る事にした。


―しばらく後、唯の部屋―

「…はぁ……」

まだしゃっきりしない頭のまま、お古のパジャマを遊から借りたリトは、唯の部屋で座り込み深いため息をついた。
果たして、明日までこの身が持つのだろうか…
言い知れぬ不安感が、リトの胸を過ぎる。

「まあ…でも、古手川の為にも…あとちょっと、頑張らなくちゃな…」

こんな状況でも、他人の為を考えられるのは流石な所であった。

ふと、リトは喉の乾きを覚える。
そういえば、いつもは風呂上がりには水を一杯飲んでいたが、今日は色々有った故にすっかり飲むのを忘れていた。

(どうりで…じゃ、下に行ってお水貰ってくるか)

キッチンへ降りていこうと、立ち上がる。
そして歩こうとした、その瞬間―
ボーっとした頭で急に立ち上がったせいか、立ち眩みを起こしてしまった。
元々「足元のおぼつかない人」であるリトが、立ち眩みを起こしてよろめかない筈が無かった。

「や、ヤベっ…!」

よろめき方のお手本の需要が有るなら、確実に貢献出来るだろうというほど見事によろめきながら、リトは本棚に倒れ込んだ。
―ドンッ―

「う、うわっ!」

ぶつかられた本棚から、お返しと言わんばかりに本が落ちてきた。
足の上に、一際ぶ厚い辞書が2つ落ちてきた。
(~~~~~~~!!!!!!!)
呆けていた頭が、一瞬でしゃっきりした。その代償は、大きかったが…

「い…いちち…」

痛みに目を潤ませながら、リトは落ちてきた本を本棚に戻し始めた。
『現代法学入門』『よくわかる数Ⅱ解説』…など、いかにも真面目そうなラインナップだ。
が、よく見ると、『ごろ猫のすき間』『ねこのきもち―今月は子猫特集―』など、大のネコ好きを思わせるような本も散見していた。
(…ホント意外だよな…アイツがネコ好きだなんて…)
お堅いイメージの唯に、意外と可愛らしい趣味が有る事を知った時は、とても驚いたものだ。

「…ん?」

ふと足元を見ると、、先程足に落ちてきたぶ厚い2つの辞書の間に、1冊の本が挟まってるのを見つけた。
ネコの模様で一杯の表紙の、厚めのノートのようなものだった。

「…何だ、コレ?」

急に好奇心に駆られるリト。
が、開いて中を見るのはグッとこらえた。
(ダ、ダメだろオレ…人のモノ勝手に見ちゃ…)

しかしその時…神の悪戯か、少し開いていた窓から、一陣の風が吹き込んできた。

「お、おわっ…」

突然吹いてきた風に、リトは思わず目を瞑る。
ビュッと、その風は部屋を横切り…置いてあった例の本のページを数枚、パラパラと捲った。

「あっ…」

開いたページの中身が、目に入ってきた。
どうやら…日記のようだ。

【4月○日 晴れ】
今日から2年生。そろそろ受験とかも気にしなくちゃならない時期、気持ちを新しくして、頑張らなきゃ。
それにしても…新しい2-Aのクラス!何なのよこの非常識の塊みたいなクラスは!?宇宙人だの発明品だの…頭がどうにかなりそうだったわ…
特に要注意なのが…宇宙人(?)のララっていう子と、その子と一緒に居た、結城リト!
初日から裸で登校だなんて!ハレンチにも程があるわ!
このクラスの風紀を正す為には、まずあの2人をどうにかするべきね。色々あってクラス委員にはなれなかったけど、風紀委員として今後頑張っていかなきゃ…

「へー…古手川、日記なんて付けてたんだな…」

でも、日記は自分を見直す良い手段とよく言われる。頑張り屋で生真面目な唯が日記を付けているのは、あまり驚く事では無かった。

「しっかし…やっぱ第一印象は最悪だったんだな、オレ…;」
「要注意」の文字を見て、苦笑いを浮かべる。

(…まだ、続きあるのかな…ま、有るよな)
本来なら、他人の日記などは見てはいけないとは分かっていた。
が、この日記の内容の調子からして…きっと、毎日の苦労等が書いてあるのだろう。
今年に入って、自分は何かと唯に苦労をかけてきたような気がする。
それを再認識し、そして自分を戒める為とでも言うか…そんな理由で、リトは日記のページをパラパラと捲っていった。


【□月△日 曇り】
最近、学校の風紀が乱れてきている気がしたので、前日に風紀強化週間を提案して、今日から実行に移したんだけど
もうこの仕事が大変!校則違反者が、あまりに多くて…
みんなもうちょっと校則を重んじてほしいわ。
放課後に残って整理しなきゃならない程リストが多くなるだなんて…

それで教室に残ってたら、あの結城リトが声をかけてきた。
『肩の力抜いた方が良くないか、正しくてもそればっかりじゃ疲れるんじゃないか』って…
何で風紀を乱してばかりのあの人がそんな事言うのよっ!?
それに…私、あの人が悪いとはいえ、彼には怒ってばかり。
そんな私を、気遣ってくれるって…
不意にそんな優しい事を言われたから、思わず私も動揺しちゃったわ。
何よ『裸を見た責任』って!?な、何だかハレンチだわ!戒めの為、自分に減点8。
…けど、あの人…結城くんは、旧校舎の時といい今日といい、実はただのハレンチな人じゃないのかも…?
もう少しあの人への見方を、変えるべきなのかしら…

【△月◇日 晴れ】
今日は散々だったわ!
後ろからいきなり顔に何か押し付けられたと思ったら、気付いたら知らない所に連れ去られてて…
どうやら御門先生の知り合いの宇宙人が関係してたとか。
先生が悪い訳じゃないけど、もう二度と勘弁だわ…
あと…、結城くんが助けに来てくれたのには驚いたわ。
旧校舎で大きな宇宙人に向かってった時といい、あの人って意外と勇気が有るのね…少し、見直したわ。

ある程度まで読み終わり、リトはホッと胸を撫で下ろした。
ここまでくると、多少自分の評価も改善されてきていたようだ。
バレンタインの日、彼女からチョコを貰うまでてっきり自分はずっと嫌われていると思っていたが…どうやらこの頃には既に、そこまで嫌われていた訳ではなかったようだ。

「…もうちょっと、読んでみるか」
既に半ば自分の日記感覚になりつつ、リトは更にページを捲った。

【□月○日 晴れ】
今日はいつもと違って、何も起こらない平穏な日…
だと思ったら、午後から結城くんの様子がおかしかったわ。
『怒った顔もステキ』って…な、何言ってるのかしら?
おまけに『キミが輝くのは天使のような笑顔』ですって!?最近の私が怒る原因は、一体どこのどなたさんでしょうね。
…け、けど…やっぱり、もっと私、笑った方が良いのかな…


自分にその時の記憶は無いが、相当キザな事を言って回っていたようだ。
意図せず惑わしてしまったらしく、申し訳無さが込み上げてきた。

「古手川が元に戻ったら、この事謝っておくかな…」

もうとうの昔に過ぎた事なのに今更謝ろうという思考が浮かぶのは、彼の誠実さ故だった。

「…ん?」

ふと、とある日付に目が行った。
その日だけ、ラメ入りのペンで文章を囲んで有ったのだ。
基本、無駄に飾り気が無くて生真面目な彼女にしては、ここだけ何か違和感が有ったので目立っていた。

(…何だろ)

気になって、その日の部分を読んでみる。

【□月X日 晴れ】
今日は…不思議な日だわ。
何故か、とっても気分が良い日。こんな日は、滅多に無い。
もちろん、気に障る事も有った。お兄ちゃんは相変わらずだらしなく遊んでばっかだし、外に出たら出たで不良の人達に注意したら絡まれたし…
周りの人は、みんな見て見ぬフリばっかりで、絶望しかけたわ。
けど…その時、結城くんが助けに来てくれた。
一緒に、不良の人達から逃げ切ってくれた…
今まで男の子って、ハレンチな事ばかりにに興味を持って、遊んでばっかな印象しか無かったけど…今日の結城くんからは、そんなのとはかけ離れた、何かを感じた。
もちろん何かとハレンチなあの人らしく、何気に私の胸を触ったりしてたけど。
それを言ったら、その時までは必死な顔だったのに、急に慌てふためき始めるから…思わず、笑っちゃったわ。
そしたら、『笑ったり出来るんだ』なんて言われたから、思わず怒っちゃったけど。
この前『キミが輝くのは天使のような笑顔だよ』なんて言ったのは誰よ!?…まあ、それを言われたから笑った訳じゃないんだけど。
でも…あんな風に自然に笑ったのって、久しぶり。
きっと気分が良いのは、久々に心から笑えたからね。きっとそうだわ。
今日は色々な意味で、結城くんに感謝すべきね…ありがとう結城くん。助けに来てくれた時のあなた…ちょっと、ちょっとだけど…カッコ良かったわよ。

「え…?」

読み終えたリトは、軽く驚いた。
あの古手川が…つい最近まで、自分を嫌っているとまで思っていた古手川が…自分の事を、これっぽっちでも『カッコいい』と思った事が有るなんて。
もちろん、自分はカッコをつける為に助けた訳ではなかったが…こう改めて誉められているのを見ると、何だか照れくさくなってきた。
特に…何かと女の子に触れ合うようになった今でも、『カッコいい』と言われた事はそうそう多くないので、素直に嬉しかった。

(あん時、こんな風に思っててくれたのか…ははっ、なんか嬉しいな)

ちょっと気分が良くなったリトは、更に先を見ようとページを捲った。
――その先に、知らずにいた真実がある事など知らずに――


【△月○日 晴れ】
大変だったわ…
ララさんの妹たちの仕業で、まさかゲームの世界に行く事になるなんて!
それに、あっちの世界に行くなりハレンチな目に遭うし!もう!なんであなたはそんなにハレンチなのよ、結城くん!
けどその後、モンスターから守ってくれたのは、ちょっぴり、嬉しかった…。ありがとう、結城くん。やっぱりあなたって…時々、カッコいいかも。
それと、もう一つ─
そういう事にあまり興味の無い私でも、前々から薄々気付いてはいた。
だって2人は、いつも一緒に居るし…
結城くんは…やっぱり、やっぱり、ララさんの事が…
何?
何なの、この気持ち?
もしかして…これって、妬きもち…嫉妬?
どうして?どうして私が、ララさんにそんな気持ちを…
─やっぱり、私は…?

【△月☆日 晴れ後曇り、時々雨】
最近…特に今日は、色んな人からの「恋愛」についての話を小耳に挟む。
『恋と言うのは突然始まる…
その時から運命の歯車は回り始める…
二人の心は時計の針の如く離れては近づき
やがて重なる…』

ヤミちゃんが言ってた、彼女が読んでる小説の一節…確か、こんな感じだったかしら?
私は今まで、学生は勉学に励むのがあるべき姿だって、思ってた…
けど、あの時…ヤミちゃんに『恋をしてるか』って聞かれた時─間違いなく、凄く動揺したわ。
興味無い、って言ったけど…どうも、スッキリしない。
ヤミちゃんは『大切な感情』って言ってた…私─私は…
私は、どうなんだろう。
でも、こういう類の事を考えてると、必ず頭に浮かぶのは、あの人…
ちょっぴりハレンチだけど、優しくて…気遣ってくれて…
…結城くんに押し倒された時、今までにない位、激しくドキドキして、止まなかった…
思わず、心の準備が…なんて、なんだかハレンチな事まで考えちゃう始末。
その時だけじゃない。
帰る途中、結城くんにバッタリと会った時も。夕立が来た時、差し伸べてくれた手を、握った時も…
最近の私は─彼と一緒に居ると、ずっと…ドキドキしてる。
私……やっぱり私も、いつの間にか、『恋』を、してるのかな…

【◇月×日 晴れ】
昨日の晩から、風邪をひいたみたい…
でも今はもう熱も下がったみたいだし、明日から学校に行けそうだわ。
もう来年には受験生なんだし、体調にはホントに気をつけなきゃ。
体だけじゃなくて精神的にも辛いし、勉強も遅れちゃうし…

…けど、嫌な事ばかりじゃ無かったわ。
結城くんが…お見舞いに来てくれた。
お見舞いというより、クラス委員に頼まれてプリントを届けに来ただけだったらしいけど…それでも、来てくれたのは、突然だったしとても驚きはしたけど…やっぱり、それだけじゃ無かったり。
それにしても…お兄ちゃんはああ見えて、知らない人はそうそう簡単に家には上げないんだけど…いつの間に、結城くんの事知ったのかしら?
オマケに、お兄ちゃんにはよりにもよってヘンな所見られちゃうし!後で『私と結城くんは、そんなんじゃないからね』とは言っておいたけど、分かったような、分かってないような感じで…
少なくとも、今後お兄ちゃんにその事に関してからかわれるのは避けたいわ…

結城くん、来てくれて、ありがとう。
帰り際、気遣ってくれる彼に対して思わず「風邪なんて吹っ飛んだ」なんて口走っちゃったけど…やっぱり私…もっと居てほしい、なんて、思ったのかな…
また…その、胸を見られちゃったし、触られたりもしたのに、『一緒に居てほしい』だなんて…何でよ!ハレンチだわ私ったら!風邪でおかしくなったのかしら!?
でも、あの時はもう熱は下がってた訳で…
やっぱり、私…?
ダメよダメよこんなんじゃ!こんな事じゃ、結城くんにどう思われるか…
明日から復帰するんだし、しっかりしなきゃ!

 

─リトには、今し方見た物から読み取れた真実を、容易には受け入れる事が出来なかった。
いくら鈍い自分でも、これが、何を意味するのかは─何となく、理解出来た。
カッコいい──――ララに嫉妬―――
一緒に居るとドキドキする―――
一緒に、居てほしい──――
その言葉は、紛れもなく、自分へのある種の気持ちが、込められている…。

(こ、古手川が…まさか…本当に、ずっと、オレの事を……?)

しかし、俄かには信じ難かった。
今まで、実際に対面した時の態度からは、それほどそのような気持ちは伝わってこなかった。
確かに、いくつか不自然な態度も有りはしたが…。
そんな内に、混乱する彼の頭には、別の理由が浮かんできた。

(…!そ、そうか、そうかもしれないじゃないか!
古手川って、時々度が過ぎるくらいの頑張り屋だし…それでちょっと疲れちゃって、いつも世話焼いてるオレに対して何か、そんな事を考えちゃってたりして…だ、だから、本当は違くて…)

何とも苦し紛れな感じだが、信じがたい事実を唐突に突きつけられた彼の、苦肉の思考だった。

(そ、そうだ、もっと読んでみれば、分かるかも…)

リトは、手元に置いてあった日記を、再び手に取った。
先ほどまでは無かった、妙な緊張感を感じながら、ページを、捲っていった─

【◎月☆日 晴れ】
天気が良いからお散歩してたら、見たことのない白ネコが。
それで「おいで」って手招きしたのに、プイッと無視されたわ…。
やっぱり、ちょっぴり悲しい…来てくれたって、良いじゃない!?もう!

けど、そんな事してる内に、結城くん…と、この前突然人型になった、セリーヌちゃんに会った。
セリーヌちゃんの変化は、植物に詳しいモモちゃんでも予測出来なかったとか。
それはそうよね、植物が突然人型に変身するなんて、誰も予測出来ないわよね、普通。
宇宙って、非常識よね…ララさん姉妹の発明や、ルンさんの体質とか…
けど、セリーヌちゃん…最初は非常識な存在だ、なんて思ってたけど…意外と、可愛いわね…
走り回ったり水飲み場を不思議そうに眺めてるかと思えば、突然私に抱き付いてきて、嬉しそうにバタバタして。
結城くん曰わく、『私の事を気に入った』とか。
私…ネコとかもそうなんだけど、生き物にあまり好かれないから、こんな感じで好かれたりすると、ちょっと嬉しいかな…。
それに、元は植物とはいえ、ああしてはしゃぐ今のセリーヌちゃんは、(頭にお花がある事を除けば)もう人間の子供にだって見えるし…
そんな事を、考えていたせいかしら。公園に居たおばあさんが、私達を見て『パパとママで散歩かい』なんて言った途端に…!
ハ、ハレンチだわ私!いくらセリーヌちゃんが可愛いからって、あんな妄想…
結城くんの帰りを、セリーヌちゃんと一緒に待つ、なんて…あ、有り得ないわよっ!!どうかしてるわ私!

……けど…あの時の私達、他の人から見れば…そういう風に、見えたのかな?
それはそれで、ちょっと驚くけど…やっぱり、ちょっぴり、ホントにちょっぴり!ちょっぴりだけど…嬉しい…かも…

【2月13日 晴れ時々曇り】
教室で、籾岡さんと沢田さんがチョコの話をしていた。
チョコ…そういえば、明日はバレンタイン。
いつも興味なんて無かったから、全く気付かなかったわ…
そんな事考えてたら、二人にそれがバレたみたいで、『誰にあげるの』なんて聞かれた。
そしたら、頭に浮かんだのはやっぱり、あの人…
恥ずかしくなって思わず教室を飛び出したら、その人本人を見かけた。
思わず、隠れちゃった…何で隠れたんだろ、私…
けど、猿山くんとしてた話を聞くと…女の子からチョコ貰えると、結構嬉しいみたい。
私…結城くんに、いつもつい意味も無くキツく当たっちゃってるし…たまには、喜ばせてあげたい。
私からのチョコなんかで、喜んでくれるかどうかは分からないけれど…やってみなきゃ、分からない。
とにかく、明日。作ったチョコを、結城くんに渡す事に決めた。
時間は大事。だから、学校から帰ったら早速挑戦したんだけど…お料理、苦手でもないけど上手でもないから、初めてのチョコ作り、何度も失敗しちゃった…
けど!何度も努力すればいつかは報われるもの、良い感じのが…出来たわ!
後はこれを包んで、明日渡すだけ!
…なんだけど、私…その事を、全然考えて無かった…
作るだけじゃなくて、渡さなきゃいけないんだ…一体、どうやって渡すの!?結城くんに…

【2月14日 晴れ】
いよいよ、バレンタインデー。
昨日作ったチョコを、結城くんに、渡す日…
結局昨日は、渡す方法が思い付かなかったから、渡すのには大分苦労したわ…
籾岡さん達みたく普通に渡そうとしたけど、緊張しすぎて思わず『バカァ!!!』なんて言っちゃうし
しばらく後に一緒にノートを職員室へ運んでる時に渡そうとしたら、勘違いした結城くんに、土下座なんてされちゃうし…
オマケに、突然来たルンさんに気圧されて転んだ拍子に、ハレンチな所を触られたりたりもしたから、怒って思わず『もういいわ』なんて思っちゃったりもした。
でも、その後ララさんと春菜さんが、チョコを渡してる所を見た。
結城くんは、やっぱり喜んでた…
そうよ、私は、結城くんに喜んでもらいたいから、昨日あれだけ頑張って、何度も失敗しつつもチョコを作った。
ちょっと何かが起きたからって、怒ってちゃダメ。
結城くんの喜ぶ顔を、見たい。喜ばせてあげたい。
結局、ちょっとぎこちなかったし、義理チョコだなんて、余計な事も言っちゃったけど…チョコを渡せた。
とても驚いてたけど、『嬉しい』とも言ってくれた…
やっぱり渡してよかった…
ほんの少しだけど、結城くんの勘違いも解けたし、これからもっと…結城くんのこういう顔、見たいな…


そして、一際目立つような彩色を施してあるページには…この前の、あの日の事が書いてあった。

【☆月□日 晴れ】
風紀委員の活動が終わって、急いで帰ろうとしたら、結城くんが筆箱を忘れてってる事に気付いた。
どうするべきか迷ったけど…彼は、いつも私を気遣ったり、助けてくれたりしてる。
だから、私もされるばかりじゃなくて、たまにはこちらからもしてあげなきゃ。
だから、届けてあげる事にしたわ。
それを決めたが最後。今日は、あまりに色んな事がありすぎて…。
結城くんの家に来ただけで、胸がドキドキした事。知らない人が出迎えたと思ったら、普段は居ない筈の、結城くんのお母さんだった事。
そして、びっくりしたのが…いや、どこかニブい結城くんと違って、鋭くて聡明そうなイメージは、前々から有りはしたんだけど…
まさか、美柑ちゃんに!美柑ちゃんに、私の気持ち、バレてたなんて…
結城くんの、妹である彼女に…不覚だわ、私、そんな素振り今まで見せたつもりなんて無かったのに。
でも、それよりも驚いたのが…結城くんのお母さんの、林檎さん。
『頑張ってね』って、何で、何で今日会ったばかり、しかもちょっと話しただけなのに…あの人にも、私の気持ちがバレてるの!?
美柑ちゃんの鋭いトコロは、間違い無く林檎さんからのものなのね…
それにしても、結城くんの家族二人に、相次いでバレちゃうだなんて…私、そんなに分かりやすいのかな…;

お出かけから帰ってきた結城くんは、『もう時間も遅いから』って、筆箱を受け取った後私を家まで送ってくれた。
そしたらその途中、突然立ち止まったと思ったら…私に、プレゼントをくれた。
小さな、可愛い白ネコのぬいぐるみ。
この前、セリーヌちゃんのコーラのお代を払った、そのお礼にって…
私が来た時家に居なかったのは、これを買いに行っていたみたい。
私が風邪を引いて、プリントを届けにきてくれたあの時…ネコが好きって言った事、覚えててくれてたのね。
まだ、ただのクラスメートであって、ついこの間『友達』として認識されたばかりの私。
そんな私の事をこんなに覚えててくれて、そして、優しくしてくれる…
──やっぱり私、結城くんの事が好き。
友達…いや、自分の事を嫌ってると思ってる人にまで、こんなに優しくしてくれる、結城くんが…大好き。
今日はとうとう、どうしても彼に、自分の、今の気持ちを伝えたくなった。
生まれてから17年の間で、一番、勇気を出した瞬間…そんな風にも思えた。
結局は、今までに無いくらい緊張してなかなか言い出せなかったり、セリーヌちゃんが飛び入ってきちゃったりで、失敗しちゃった…
けれど、今日の出来事は、決して無駄じゃ無かったと思う。
私は、これからも頑張る決意が出来た。

結城くんに、既に好きな人が居るのは分かっている。
ララさん…あの子もまた、とても良い人。
誰にでも分け隔て無く無邪気な、純粋な態度で接してくれるあの温かさは…結城くんと同じような、優しさを感じる。
結城くんが、彼女を好きになる気持ちも分かる…。
今の私に、勝ち目なんて無いのかもしれない事は、分かってる。
けれど…美柑ちゃんが言っていた。『不利な状況だからこそ、より頑張らなきゃ』って。
彼女の、言う通りだわ。
例えララさんがどうであろうと…私だって、結城くんに対するこの気持ちは変わらない。
諦めるのは、絶対に嫌。
どうせなら…やれる所まで、頑張ってみなきゃ。
後悔なんて…したくないしね。
ララさん…私、これからも頑張るから。
あなたは素晴らしい人だけど…それでも、私も負けないんだから!
そして、結城くん。
いつか、私も絶対に、あなたにこの想い、伝えてみせるからね。
その時までには…今より、もう少しだけでも、近くなれてたら良いな…


もはや、この事実に、揺らぎも疑いの余地も無かった。
ただの気まぐれ、一時の気の迷いで、何度も失敗しても頑張ってチョコを手作りしたり、または想いを伝えようなどというのは、有り得るだろうか?
――古手川は、そんないい加減だったり、面白半分な人間じゃない。
答えは、明白だった。

余りに突然に突き付けられた真実は、リトの思考を著しく不安定にさせた。
今では、『友達』と言ってくれてはいるが…ほんの少し前までは、てっきり自分の事を嫌っているとさえ思っていた、あの古手川が。
実はいつの間にか、自分へ、こんなに強く好意を抱いていたなんて。
じゃあ今の今までの、何というか、怒りっぽいというか、よく分からない態度は…一体何なのだろう?
奇しくも、リトの身の回りには好意をストレートに表現する子が多い。
動揺しきって思考の鈍っている今の彼には、その答えを考える余裕は、無かった…

と、その時。
混濁する中でもリトは、間違いなく部屋の戸がガチャリと動くのを目に捉えた。
まさに光速と言うべき疾さで、リトは日記を含めた、落ちてきた本数冊を急いで本棚に戻した。

――ガチャリ――

「ふう。いいお湯だったわ…って、ゆ、結城くん!?」

産まれたままの姿に、バスタオル1枚だけの唯が、自室に戻って来た。
今の状態でも、流石にこの姿を見られるのは恥ずかしいのだろうか、唯の方も驚いていた。
が、リトの驚きと慌てふためき様はそんなものではなかった。

「わわっ!!こ、こ、こ、古手川!?ご、ゴメン、そんなつもりは…ってか、は、早く服着てくれっ!!」

まるで知らない人が入ってきたかの如く、パニックになるリト。

「そ、そんなに慌てなくても…あと、パジャマはそこの箪笥に入ってるから、そ、その…結城くんが出ててくれないと…」

「え!?わ、分かった!じゃ、じゃあオレ、ちょっと出てるから!!」

そう言ってリトは、まるで脱兎の如く、唯の部屋から出て行った。

 

リトの胸の鼓動は、また昼の時のように、どうしようも無いほど激しくなっていた。
何なのだろうか。
今のこのドキドキは、いつも…もとい、古手川の所謂『ハレンチな』姿を見た時のそれとは、何かが違う…
そういう姿は、今や不本意ながら少しは見慣れてしまっている。
だが…まるでこの、彼女のそういう所を始めて見たかのような激しいドキドキは、何なのだろうか。

今の彼に、その理由を推理出来る由は無かった。
無意識の内に…古手川唯に対する意識が、彼の中で既に変わりつつあった。
今までは、ちょっと怒りっぽくて、時々よく分からない事をするけど、真面目で、頑張り屋で、意外と可愛いモノ好きな女の子らしい一面もある、友達の一人。
が……、今は、もう違うのだ。
表には出さないけれど、自分への好意を、強く強く、ずっと内に保っていた、一人の女の子…
意識が変われば、見る目が変わるのもまた然り。
彼女を見て、激しく動揺してしまうのも無理はない話だった。


少し落ち着いて、リトは頭の中で、今の状況を整理しようとしていた。
この扉の向こうには、古手川が居る。
今は薬の副作用でおかしくなってはいるが…彼女が、自分を好きであるという事には、変わりはない。
ついさっきまでは、『これは薬のせいだ』と割り切れたが…本来の彼女でも、自分へ強い好意を抱いていると知ってしまった今、どうやって接してあげれば良いのか…?

一人悩むリトの耳に、唯の声が、扉の向こうから聞こえてきた。

「結城くん?もう良いわよ、入ってきても…」

その声で、リトは目が醒めたかのように扉の方を向く。

(…もう、なるようになれ、か…)

今のこの頭の状態では、何を考えても纏まらない。
もうこうなったら、ある程度だけでも成り行きに任せるしかなかった。
決心をつけたリトは再び、唯の部屋を戸を開いた。

「!!」

意を決して部屋に入ったリトの目に飛び込んできたのは。
初めて見る、唯のパジャマ姿だった。
ピンクをベースに、水玉模様や、ネコの顔がプリントされている、何とも可愛らしい物だった。

「ん?」

息を詰まらせるリトを、不思議そうに見つめる唯。
当人は、気付いてはいない。
ついさっき、自分が長らく秘密にしていた想いを、知られた事。
そして、自分のそのパジャマ姿が、制服をビシッと着こなす普段とのギャップも有ってか、傍目から見てもとても魅力的で、可愛らしい事も…

「あ、いや、そのさ、こ、古手川のそういう姿って、何か意外というか、新鮮というか…」

まさかドキッとした、などと言えるはずもなく、とりあえず無難な感じで答え返した。

「もう、結城くんってば…私だって、制服ばかり着てるわけじゃないんだからねっ」

頬をムッと膨らませる唯。

「……に、似合ってる?」

今度はちょっとモジモジしながら、上目遣いで感想を求める。
普段の唯には、絶対真似できない事の一つであった。

「あ、ああ。似合ってるぜ」

リトは、率直な意見を返す。
お世辞でも、何でもなく…この格好は、素直に『可愛い』と思えた。

「良かった。ありがとっ、結城くん♪」

無事お褒めの言葉を貰え、唯はニッコリと笑った。
リトの胸の鼓動が、一瞬また一段と強くなった。
普段は滅多に見ることのない、古手川の笑顔…。
普段の表情が表情なだけに…やはりその笑顔は、より一層輝いて見えた。


ふと、リトは時計に目をやった。
夜の11時20分。もう、寝ておくべき時間になっていた。
こちらとしても、これ以上やり取りと続けていたら、いつ心臓がくたびれてしまうか知れたものではない。
疲れたという意味でも、早めに寝ておくべきだと思った。

「こ、古手川…そろそろ寝ておくか?ほら、もういつの間にか、時間も遅いし…」

リトの言葉を確かめるかのように、自室のネコ型の時計に目をやる唯。
確かに、もう就寝の時間が来ていた。

「…そうね、明日も学校があるもんね…夜更かしは禁物だし、そうね、そろそろ…私も…ふ、ふぁぁ…ん」
唯は1つ欠伸をした。
あの薬の副作用は、やはり体力の消耗にも多少なり関与しているようだ。
無理矢理相手を惚れさせてしまうなどという強力な副作用だ、疲れてきても無理はない話である。

「…よし、それじゃ、湯冷めしちゃわない内に、寝ちゃおっと」

唯は、ベッドに半身を潜り込ませた。

…と、ここで唯の動きは止まった。

「そういえば結城くんは…どこで寝るの?」

彼にとっては突然の予想外な質問に、リトは面食らってしまった。

「え?オ、オレはもちろん、絨毯の上にでも…」

そろそろ寝ないかと提案した時点で、既にそうする気でいたのだ。

さも当たり前のように言ったリトの答えに対し、唯は眉を釣り上げた。

「ダメっ。湯冷めでもしたら、風邪ひいちゃうじゃない」

「あ、いや、その心配はねーと思う;」

何せ、さっきからのドキドキで、体は冷めるどころかずっと熱くなってすらいる。その心配は皆無だと思った。
しかし、唯は譲らない。
今の状態でも、それを言うのは恥ずかしいのだろうか。
みるみる顔を真っ赤にして、口を開いた。
「せ…せっかくなんだから…そ、その……その…」

モジモジしながら、必死に言葉を紡ぐ唯。
が、そんな唯の様子を見て…既にリトは、唯が言わんとする事が何か、分かったような気がした。

(ま…まさか…;)

唯は少し動いて、ベッドにぎりぎりもう1人ぶん入れる程の空きを作った。
そして…そろそろと、指で、そこの空きスペースを指した。

「こ、ここで…一緒に…っ」

──リトの予感は、的中した。
最大の難関と、言うべきではなかろうか。
二人用でもないベッドに、男女二人で寝る…
下手をすれば、それはある別の意味にすら捉える事すら出来てしまう…そんな行為である。

真っ先に頭に浮かんだのは、"無理"の二文字。
信念的にも、精神的にも…そんな事をすれば、いよいよ自分が、抑えきれなくなってしまうのではないか。
不安が、リトの頭を過ぎる─

…が、自分の事ばかり考えず他人の事も考えてやれるのが、彼の…結城リトの、大きな長所であった。

今、自分が断ってしまえば、間違い無く古手川は落ち込むだろう。
あんなに恥じらいながら、頑張って誘っていた訳で…
薬に惑わされているとはいえ、彼女の気持ちを、無碍に出来る彼ではなかった。
そもそも今日は、とことん付き合ってやると決めたではないか。
どうしても無理なようなら、その時は、どうにかする。
真っ直ぐに自分を見つめる唯の顔を見て…リトは、意を決した。

「わ…分かった。一緒に、寝るか」


「こうして寝るとあったかいね、結城くん♪」

すぐ隣にリトが居る満足感に満悦しながら、唯が言った。
だが、リトの方は温かいどころでは済まなかった。
隣では、自分に好意を抱く女の子が身を寄せている。
元々、1人用のベッドでの添い寝。
狭い空間の中…パジャマ越しにも、彼女の体の、色んな感触はダイレクトに伝わっているのだ。
人肌特有の、温かさ。
柔らかいふともも、細い腕、今やララに負けない程の、豊満な胸…
それらから伝わる感覚は、今この瞬間にも、リトの理性を激しく揺り動かしていた。
心臓も、脳も…眠るどころか、ますますその動きを活発にしている。
胸が張り裂けそうな程、激しく脈打つ鼓動。
確実に、最後の一線まで近づきつつある、崩れていく理性…

間違い無く、今日一番の苦難の真っただ中であった。

「…………」

唯の言葉は聞こえていたが、もはや言葉を返す余裕も無い。
全身全霊で、己を保とうと奮闘していた。

そんなリトの葛藤は露知らず、唯は1人で言葉を続けた。

「ありがとね、結城くん。今日、ずっと一緒に居てくれて、嬉しかったわ。
でも我が儘言っちゃって、ごめんね?」

上を向いたまま、独り言のように呟く。

「あ、ああ。き、気にすんなって」

黙ってばかりでは心配されると思い、リトも辛うじて言葉を返す。

そしてしばらく…沈黙が続いた。
本当に、静かな時間。
聞こえるのは、互いの胸の鼓動と、呼吸の音のみのような…その位の、静かな沈黙だった。

その沈黙を破ったのは、言葉ではなく音だった。
唯は僅かに身を動かし、体をリトの方に向けた。
そして、リトの顔を見つめる。
どれくらい経ったかは分からない。ほんの一瞬か、それとも数十分か…
何故そうしたかも分からない。
だがリトは、ゆっくりと顔を、自分を見つめる唯の方へと向けた。
それに応えるように…唯はゆっくりと口を開き、沈黙を破った。

「私ね、やっぱり、あなたの事が…優しいあなたが…結城くんが、大好きっ」

──何かが、自分の中で弾けた。
そんな気がした。
必死で抑えていたものが、解き放たれてしまったのだろうか。
激しい感情が内から溢れ出てきたのを、リトは感じた。
あの日の一件以来…ただでさえ、古手川に対して別の意識を持ち始めていたかもしれない自分。
そして今日は、その相手に、本人の意志では無いが幾度となく迫られ
本人が抱いてきた自分への本当の想いも、知ってしまった…
そして今、この極限の状況で
純真無垢な眼差しで、改めて自分への好意を伝えられた…

今、リトの内から溢れ出した感情は…間違い無く、彼女に…古手川唯に対する、『愛』だった。
こんなに可愛らしく、一途に、健気に自分を好いてくれる彼女の想いに…その何倍もの強さ、激しさで、応えてあげたい。
その想いは、本能のままにリトの体をつき動かした。
夕方の時にも、そうしたように…リトは、唯の肩を激しく掴んだ。

「こ、古手川…っ」

熱っぽい眼差しで、真摯に唯の目を見つめる。
唯は、驚いた表情を見せた。
そして、数秒経ち…
リトの熱情が、伝わったのだろうか。
頬を紅く染めながら唯は、ゆっくりと目を閉じた。

リトの中に湧き出る激情が、一層と激しさを増した。

『今はもう真夜中。夕方の時のように邪魔は入らない』

『良いじゃないか、相手も自分を好きなんだ、ムリヤリやる訳じゃない』

『もう、抑えられない──』

『いや、もう抑える必要など…ない』

青い性の暴走が…せめてもの理性を保とうと湧く責め苛めの感情を、次々に打ち消していく。

やれ。やるんだ、やってしまえ──

次々溢れ出る欲望に、今日1日のあらゆる出来事でヒビの入った鋼の理性が、砕け散っていく。

目を瞑りリトを待つ唯の顔に、ゆっくりと自分の顔を近付けていく。
その距離が縮まる毎に、罪悪感は、消えていく──

「ん…」

焦れったさを感じたのか、唯が思わず、といった感じの声を出した。
何気ないその声にすら、リトは理性を揺さぶられる。
ボロボロになりつつある理性は、揺さぶられただけで、崩れていく…

『もう、やってしまえ』

意を決し、リトが思い切って唯の唇に自分のそれを重ね合わせようと顔を近づけた、その時──。

彼の理性の、最後の砦とも言うべきか。
僅かに崩れ落ちずに残っていたその部分が、最後の足掻きと言わんばかりに、彼の頭の中で閃光の如く光った。

『本当に、古手川にとってこれで良いのだろうか…?』

光り輝いた最後の理性の砦、それは彼の優しさの根本とも言えるべき部分でもあった。
どんな状況でも、相手を気遣い、優しく出来る。
嘗ては『恋なんてハレンチ』とまで言っていた唯が、最もリトに惚れ込んだ部分そのものであった。

彼女は今、薬の副作用でおかしくなっているのは間違いない事実。
例え、彼女が本当に自分を好きだったとしても…このような精神状態の時に、こんな事をして良いのだろうか?
自分の知らない内に…そんな事をされていたと知ったら?
今の自分は、『彼女の気持ちに答えたい』と言いつつ、これではただ自分の欲望に走っているだけなんじゃ…?
再び沸いてきた自分への責め苛めの言葉は、唯に近付こうとする自分の動きを…ゆっくりと止めていった。

『良いはずがない。こんな事…して良いはずがない』

蘇った彼の理性が、その答えを導き出すのに時間はかからなかった。

今度こそ意を決し、彼は期待して目を瞑り待つ唯に語りかけた。

「ゴメン、古手川。オレからけしかけといて、こんな事言うのも、なんだけど…やっぱり、こんな事は出来ない」

「え…?」

ずっと目を瞑っていた唯は、彼の言葉に驚き目を開けた。

「古手川…薬で変になってる今のお前には、こんな事は出来ない。それは、失礼になっちまう…そんな気がするんだ」

真剣な眼差しで、唯を見つめながら語るリト。

そんなリトの言葉に…唯は、微かに瞳を潤ませた。

「…バカッ。意気地無し…そっちから迫ってきたのにっ…」

「ゴ、ゴメン…」

涙声で答える唯に、リトは狼狽してしまう。

「でも…」

「で、でも?」

「それが、結城くんが、私の事を考えてくれて出した答えっていうなら…私は、それで良いわ。今日1日、もう充分我が侭言ったんだもん。
あなたが私に気遣ってくれたなら、私はあなたには…好きな人には尚更、気遣ってあげなきゃならないもの。それが…好きって事でしょ?」

キリッとこちらを見つめるその目から、リトは、彼女の固い意志を感じ取った。

『ありがとな、古手川…分かってくれて』

「ううん…こうするのが、きっと普通なのよ」

そして、唯はゆっくりと大きな欠伸をした。

「んにゃ…ごめんね結城くん、何だか私、疲れちゃったみたいで…
明日、御門先生が私を治してくれる、その時まで…よろしくね、結城く…ん」

最後にそう言って、唯はゆっくり瞼を閉じた。
数秒後には、隣から静かな寝息が聞こえてきていた。

「…ふぅ」

やっと今日一日の様々な重みから解放された気分で、リトはここ暫く感じた事のないような安堵感を覚えた。
だが、ほっとなったと同時に疲れもどっと沸いてきた。
自分ももう、寝なければ。この凄まじい疲れを、明日に持ち越す訳にはいかない。

「…じゃ、オレも寝るか…」

無理にでも寝てしまわなければ、と、リトは目を閉じ、全身の力を抜いて夢の世界へと向かった。

──翌朝──

(ね…寝れる訳ねーだろ…;)

結局、リトは一睡たりとも出来なかった。
互いに決心はつけたとはいえ、隣では今まさに、自分の心を揺り動かしている少女が、年相応の可愛らしい寝顔で寝息を立てているのだ。
こんな状況で眠気など、催す筈もなかった。
だが、ぐったりしている場合ではない。まだ、終わった訳ではないのだ。
御門先生に古手川を治してもらうまで、気は抜けない。
凄まじくだるい体に気合いを入れようと、リトは布団の中でぐぐっと伸びをした。
「…んにゃ?」

隣のリトが動いたのを感じたのか、唯が目を覚ました。

「あ、悪い古手川…起こしちゃったかな?」

「…むにゃ」

やはりいつもの彼女とは違う、まるっきり締まりのないとろんとした目で、唯はリトを見つめている。
が……

そのリトを見つめる眼差しは、だんだんハッキリとしたものになっていく。徐々に目が、大きく見開いていく。

「…?」

まるで、たった今リトの存在に気付いたかの如く、真っ直ぐ彼を見つめる。
そして…その顔は、まるで0℃のやかんが急に沸騰したかの如く、一瞬で真っ赤になった。

(~~~~~~~?!?!)

声にならない叫び声を挙げて、唯は凄まじい勢いでベッドに潜り込んでしまった。

「お、おい古手川、どうし……」

言いかけて、リトはハッと気付いた。
今この状況から考えられ得る、最悪の可能性に。

(ま…まさか…薬の効果が……切れた!?)

有り得ない話ではない。所詮は薬の効果、しかも副作用である。時間が経てば、勝手に治ってしまうのもおかしくはない。
リトは、間違いなく冷や汗がタラリと伝っていくのを感じた。
もし…本当に元に戻ったのなら?
しかも、おかしくなっていた間の記憶が、全て残っていたりでもしたら?
『ハレンチな!!!』の言葉と共に、凄まじい1発の鉄拳が飛んできて…
いや、昨日1日に自分にした事された事を考えれば、10発は飛んでくるかも…?
などと、疲れた頭で微妙にズレた妄想をしてしまっていた。
…しかし真偽はどうあれ、今の古手川の反応は気になる。
勇気を出して、隣ですっぽりとベッドに潜り込んでいる唯に声をかけた。

「こ、古手川?大丈夫か?」

反応はすぐには返って来なかった。
が、数秒程経つと…ゆっくりと、唯はベッドから出てきた。

「………」

その表情は、何だか妙に切なげだった。
その表情からは、一体どっちなのか判断しかねる。
そう思って、リトは声をかけようとした。

「おい、古手が…わ!?」

リトは驚きの声を挙げた。
唯が、その切なげな表情のまま、無言でゆっくりとリトに抱きついてきたのだ。
いや、抱きつくというよりは、胸に飛び込んできたと言った方が正しいか。
昨日で少しは慣れたと思っていたが、やはり不意にこういう事をされると、心臓は慌ただしく鼓動してしまうのだった。

「……」

一方の唯は相変わらず、無言のままだ。
ただその表情からは、何となく、ではあるが…『離れたくない』オーラを醸しているのがリトにも分かった。
思わず、ゴクリと唾を飲み込むリト。

こんな風に、一心に、完全に甘えられたら…やはり、たまらない。
実際、いつもならもうとっくに戻っている朝の息子の主張は、治ってないどころか、むしろ起きた時よりも激しいものになっていた。

色んな意味で、このままではマズい。
ともかく、この状況から抜け出さなければ…

「こ、古手川。だ、抱きついてくれるのは嬉しいんだけどさ…ほ、ホラ、今はこんな事してる場合じゃぁ…」

リトの胸にうずめていた顔を上げ、唯は潤んだ瞳で、まっすぐリトの方を見つめた。
そのまま暫く、2人は見つめ合った。
見れば見るほど分かる、唯の元からの端正な顔立ち…そして今見せている普段との表情のギャップが、リトの頬を紅潮させ、ますます胸の鼓動を早めた。
ただ昨日と違う点は…唯の方もまた、同じような状態になっている事だった。

「……じゃ、じゃあ」

やや震えるような声で、唯が口を開いた。

「学校に行って、治してもらうまでは………い、い、一緒に…居て……くれる…?」

最後の方は消え入るような微かな声になりながら、唯が言った。

――反則だ。
こんな健気で初な頼み方をされたら…自分には、断る事など出来ない。
断る理由も無い。ここまで付き合った以上、最後までトコトン付き合ってやらねば。

「あ、ああ。分かったよ」

唯と同じく真っ直ぐな気持ちで、リトはその想いに応える事にした。

…と同時に、ある確信をした。
やはり、まだ薬の効果は切れきってはいない。
時間が経ったせいか、確かに昨日よりは何だかいつもの古手川が垣間見えたりはしている気がする。
が、完全に切れているなら…古手川が、このような事をやったり言ったりする筈はない。
とりあえず、解除薬を飲んで元に戻るその瞬間までは、彼女に大目玉を喰わされたりする事は無いだろう。
少し安心したリトは、とりあえず唯を促して階下に降りる事にした。

 

(つ……疲れ…た)

何か昨日のデジャヴを感じながら、リトは唯と一緒に学校へと歩いていた。
とは言っても、唯に疲れさせられた訳ではない。今朝のは、古手川家の一同が原因だった。
遊が事情を話したおかげでそんなに滅茶苦茶な事は聞かれはしなかったものの、
『学校での唯はどんな感じか』『普段のあなた達はどんな感じ、どんな関係か』『今の唯を見てどう思う?』などの質問を、明らかに期待の念が込もった眼差しで散々してくる唯の母。
事情を知ってる筈なのに『ぶっちゃけ、お前らどこまで行った?』などと、どストレートな質問をしてくる遊。
一睡もしていないリトにとって、この処遇はかなりキツいものがあった。
父親は結局昨日は帰ってこなかったらしく不在だったのが、唯一の救いか…
ややふらつく足取りの元、リトは唯を伴って学校へと向かっていた。
唯はというと、リトの手をしっかりと握り…という訳ではなく、彼の制服の袖を、ちょこんと掴むといった程度でくっつき、もじもじしながら彼の後ろをついてきていた。
やはり、薬の効果が切れてきているのだろうか。
疲れたといって、あまりゆっくりとは歩いていられない。
一応、一目の付きにくい道を選んではいるが、こんな所を誰かに見られたりでもしたらたちまち噂になるだろう。
(みんなの認識の中では)ララとアレな関係である自分にとって、それはマズい。
早いとこ学校へ行って、古手川を治して貰わねば…
そう思って、リトは少し足を早めた。
…しかしそんな彼の頭の中では、今、別の感情が蠢いていた。
何だこれ?
何だろう、この気持ち。
自分でもよく分からないモヤモヤとした気持ちが、頭の中を漂っている。
何故かそのモヤモヤは、『早く古手川を元に戻さなくては』という自分の気持ちを、引き止めようとしているかのように思えた。
そんな、何を引き止める必要が有るのだろう?
古手川が元に戻る事に、何の問題が有るのだろう?
そう、さっきからずっと、自分に言い聞かせている。
しかし頭の中に漂うモヤモヤは、依然として消えないままだった。

(ああ、どうしたんだオレ!しっかりしろ!)

頭をしゃっきりさせる為、頭をぶんぶんと振る。
それが突然だったので、横を歩く唯が少し驚いた。

「結城くん、どうかしたの?」

リトの方もフイに唯に質問され、慌てて答え返した。

「え?あ、な、何でもねーよ」

しばらくリトを見つめていた唯だが、「そ……そう」と言うと、再び下を向いた。

そうこうしている内に、学校に着いた。

もう、これ以上くっついていたらマズい。
薬の効果が切れかかっている今なら、聞き分けてくれるはずだ。

「こ、古手川?これ以上くっついてるとさ、その…周りにヘンに思われるっつーか…少し離れて歩こう、な?」

リトの言葉に、視線を向ける唯。
一瞬、切なそうな表情が浮かんだかに見えたが…ちゃんと聞き分けてくれたらしく、ちょこんと掴んでいた袖から手を離した。
ホッ、と、リトは心の中で一息ついた。

─後は、保健室に行くだけだ─

モヤモヤした気持ちが漂ったままであったが、リトは唯を導いて保健室へと足を急がせた。


「ふふっ、その顔…昨日は大変だったんでしょ?結城くん」

薬棚を探りながら、くたびれた表情のリトに向かって御門先生が言った。

「大変なんてもんじゃないスよ…ホントに色々有りすぎて…;」

もう今後一切こんなのは懲り懲りだ、という口調のリト。

「ごめんなさいね、これからは気をつけるわ…んーと、有ったわ、コレね」

程なくして、かなり薄めのオレンジ色の液体が入った薬瓶を持ってきた。
ラベルには見た事のない文字が連なっている。宇宙語だろうか。

「ちょっと調合が難しかったけど、きっとコレならいけると思うわ…さ、古手川さん、飲んで頂戴ね?」

そう言いながら、小さめのコップに薬を注ぎ、それを唯の目の前に置いた。
その光景を見つめながら、リトはやっと解放される、という安堵感をしみじみと味わっていた。
…が、やはり何かがスッキリしない。
頭の中の、あのモヤモヤが…このまま事が終わるのを、望んでいない…そんな気がするのだ。

『一体、何故?』

リトは自分に問いかけた。
薬でおかしくなった古手川が、元に戻るのは然るべき事じゃないか。
何故、このまま事が終わるのを望まない気持ち等が自分の中に有るというのか?
…そう考えている内に、頭の片隅に浮かんできたのは…昨日の、唯とのやり取りだった。
無邪気な笑顔で、自分に甘えてきたり。
瞳を潤ませながら、一緒に居て欲しいと頼んだり…
普段なら絶対見る事のないような、唯の表情…
それを沢山見せてくれた昨日の唯の姿が、頭に次々と浮かんできたのだ。
今、完全に元に戻ってしまったら…あの古手川の事だから、もう二度とそういった表情は見られなくなるかもしれない。
もう自分に…甘えてきてはくれないかもしれない。
それを…程度は定かではないが、『寂しい』と思う自分の存在に、リトは今、ようやくハッキリと気付いた。

─そんなバカな。
自分は昔から春菜ちゃんが好きであって、けど、最近ちょっとララが気になり出して…ぐらぐらしてて…
そんな状況でも、マズいと思っているのに。
昨日、見せてくれた、表情の数々。
そして偶然知ってしまった、少し前からずっと自分に向けられていた、古手川の本当の気持ち…
それらを見て、知って、自分が古手川に抱いてる、この感情は…いや、この感情『も』…

(な…何考えてんだ、オレ!?)

導き出してしまった自分の答えに、リトは必死で頭を振った。
そんな事、有ってはならない。
これでは自分は、ただの気の多くて、優柔不断な人間じゃないか。
しかし頭でそう分かっていても…一度火がついてしまったが最後、青春真っ盛りな人間の、そういった気持ちは…なかなか立ち消えてはくれなかった。

リトのそんな様子を見て、御門先生は密かにニヤリと笑った。

(あーあ…これからどうするのかしらね?結城くん…)

だが、自分は保険医だ。
普通の状態ではない生徒を目の前にしてそのままに捨て置く訳にはいかないのだ。
彼女には、元に戻って貰わねば…

ところが、唯は目の前に置かれた薬に、手を伸ばそうとはしない。

「どうしたの、古手川さん?ヘンな味とかはしないし、早く飲んじゃいなさいな」

しかし、唯は反応しない。
その代わりに…彼女はリトの方を向いた。

「結城くん?」

「?あ、ああ」

突然の呼びかけだったが、リトはしっかりと聞き取った。
何か、元に戻る前に言う事が有るのだろうか?
…しかし待っていても、言葉は来ない。
ただ、真っ直ぐに…リトの目を見つめているだけだった。
まるでもう、二度と見れないモノを見るかの如く、その眼差しは強く、真っ直ぐで…そして、切なげだった。

その状態が、丸々一分程続き…ようやく、唯は視線を逸らした。

一見、あまり意味のよく解らないやり取り。
だが御門先生には、しっかりとその意味は読み取れていた。

すると突然、何かを思い出したかのような表情を繕った。

「あ!…そうね、古手川さんが薬を飲む前に、結城くんは先に教室に行って貰っておいた方が良さそうね」

突然の提案に、リトは驚きを隠せなかった。

「な、何でっスか?」

「あのね、あの解除薬は…おかしくなってた時の記憶まで消してはくれないの。元に戻っても、あなたにベタベタしてた時の記憶はそのまま。
だから、ね?そんな時にあなたが目の前に居たりしたら、古手川さんだったら『ハレンチな──っ!』なんて、あなたをとんでもない目にしちゃったりして…♪」

それを聞いて、リトは震え上がった。
彼女の鉄拳は、もう何度か味わっている。
とらぶるくえすとの時では、武闘家に選ばれる程、彼女の鉄拳は客観的に見ても凄まじい…

とりあえず、先ほどまでの考えは、一旦リセットだ。
古手川は、やはりきちんと戻るべきだ。
それに…笑顔だって、全く見せてくれない訳じゃないじゃない。
不良から助けたあの時…バレンタインのチョコをくれたあの時…
彼女がまだ、笑顔を見せてくれるか否かは…自分次第だ。
薬なんかに、頼るべきじゃない…
互いの為にも(そして、とばっちりを受けない為にも)、ここは言う通りにするべきだ。

「わ、分かりました。じゃあ、先生、その…古手川の事、よ、よろしく頼みます」

それだけ言い残して、リトは保健室を出ていった。


「さて…と」

リトが間違い無く出て行ったのを見届けると、御門先生は唯の方に向き直った。

「古手川さん?ごめんなさいね、ちょっとその薬、飲むの待ってて」

「は、はい?」

意を決したような表情でコップに手を伸ばしていた唯は、手を止めた。

「ちょっと待っててね。よっと…」

そう言うと、近くの棚の上に置いてあった箱を開け、中に入っていたを手に取った。
そしてその薬瓶を、そっと唯の目の前に置いた。

「こっちの方が、今の記憶も消えてスッキリ出来るし、効きも早いわ。こっちを飲んでみて?」

そう言いながら別のコップを取り出し、それにも薬を注いだ。

「さ、飲んでみて頂戴な」

そう言って目の前に差し出された薬を、唯はじっと見つめた。
そしてしばらくして…それを手にとり、一口、飲んだ。

「ん……」

一瞬、眠気に襲われたかのように目を瞑った。
そしてすぐに、ゆっくりと…目を開けた。

「……ん?」

何故自分がここに居るのか分からない、といった表情を浮かべる。
キョロキョロと、辺りを見回す。
しかしその動きは、何故かどこかぎこちない。

「その反応は…良かったわ、元に戻れたのね、古手川さん」

「あ…あの御門先生、私…」

どこか慌てたような様子の唯を、御門先生は肩をポンポンと叩いて諭す。

「落ち着きなさい…ね?とりあえずホラ、教室に向かいなさいな。風紀委員のあなたが、遅刻しちゃマズいでしょ?」

ごもっともな先生の言葉に、唯は軽く頷いた。

「わ、分かりました。それじゃ私あの、その…もう行きます、あ、ありがとうございましたっ」

傍に置いてあった鞄を手に取ると、唯は急いで、保健室を出て…
行こうとして、扉に手をかけた、その時─


「名演技だったわね、古手川さん?」


背後から聞こえた御門先生の言葉に、唯の手はピタリと止まった。

「え…な、ななな、何を言ってるんですか先生?な、何の事か、わ、私…」

そう言いつつ、額からは急に冷や汗が出てきていて、表情は引きつり、言葉は噛み噛みである。

「ごまかしてもダぁメ。だってね古手川さん、さっきのアレ、ただのオレンジジュースを薄めたモノなのよ?そんなモノを飲んで元に戻るなんて、おかしいわね~?」

唯の顔を見ながら、勝ち誇った笑みを浮かべて、御門先生は言った。

その唯の顔には、今間違い無く、驚きの表情が浮かんだ。

「な、なっ…?」

「もちろん、ハナから演技って訳じゃ無いでしょうけど…さっ、いつから元に戻ってたのかしら?先生にこっそり教えて頂戴、ね?」

しかし、唯は下を向いたまま答えない。
その代わりに、顔はみるみる赤くなっていた。

「ふーん、教えてくれないのね?
まあそれは良いんだけど、私、この事を誰かに隠し通す自信が無いのよね。同じクラスの人辺りには、ひょっとしたら口が滑っちゃうかも…」

ギクッと身を強ばらせる唯。

「それに、確か今日はお昼頃に籾岡さんと沢田さんが何か相談しに来るって言ってたわね~。あの子達お話し上手だし、うっかり口を滑らせないように、気をつけないとね…♪」

チラチラと唯の方を見ながら、追い討ちの言葉をかける。

最早茹でだこ状態の唯だったが、里紗と未央に知られるリスクが如何に高いかを悟ったのか、遂に観念したように口を開いた。

「け…今朝、起きた時から…」

とても言いにくそうに、もごもごと呟いた。

「で、でも…そ、その、何で気付いて…」

慌てふためく唯を、微笑ましい光景を見つめるような目で御門先生が答えた。

「うふふっ、だってあなた…薬の飲む前の彼を見つめる目が、薬の効果が出てる時のそれとは全く違ったもの。
『好き好き大好き』って感じじゃなくてね…、『この薬を飲んだら、もう甘えられなくなる…彼に対して、いつも思ってる本当のコトが言えなくなる…それが寂しい』って、分かってるような目だったのよ」

唯は驚きを隠せなかった。
たったそれだけで、ここまで見破られるなんて…
これまでは特にそう感じなかっただけで、この人も毎日生徒を見て…時には心のケアすらやってのけるだけあって、凄まじい洞察力を持っていたんだ…

「それにしても、あの真面目な古手川さんが、思わずこんな事してまで側に居たくなるくらいメロメロになっちゃうなんて…あの子って、どれだけ魅力的なのかしら?気をつけないとその内、私も…」

そう言いかけて、御門先生は思わず笑ってしまった。
唯の顔が、あからさまに『そんな…』といった表情をしていたからだ。

「くすくす…冗談よ、冗談♪
でもね…古手川さん?ホントに彼にキモチを伝えたいのなら、薬の副作用なんかに頼ってちゃダメよ?」

御門先生のごもっともな言葉が、勢いよくグサリと胸に突き刺さる。

「わ…分かって…ます」

恥じらうようにモジモジする唯。

「まあ、お気持ちは分からないでもないけどね?彼の側には、いつも強力なライバルが居る訳だし…」

快活に笑うララの笑顔が、唯の脳裏を過ぎった。

「……でも、大丈夫よ。今回の事で、あなたのその想いは、とっても強いものだって事、何となくだけど分かったわ。
それだけ強い想いを秘めてるのなら…きっと、それを行動に現す勇気も同じだけ秘めてるに違いない…でしょ?」

──勇気──

沸騰した彼女の頭に、その二文字がクッキリと浮かんだ。

「確かに、このままじゃいつか、ライバルさんに取られちゃうかもしれないけど…あなたが何か行動を起こせば、向こうは、それに応えてくれない程無粋じゃない人だから…どうなるかは、まだ分からないかもよ?」

唯の脳裏に、今までの出来事が浮かんできていた。
意図した訳ではないが、初めて笑顔を見せた時…満足な反応とは行かないまでも、ちゃんと反応してくれていた。
バレンタインのチョコをあげた時も、喜んでくれていた…

更に、御門先生は言葉を続けた。

「それにね、古手川さん。あなたは気付かなかったかもしれないけど…彼、あなたが薬を飲もうとする前、何かいつもと違う表情してたのよ?」

「?ほ、本当ですか?」

思いがけない御門先生の言葉に、思わず飛び付いてしまう唯。

「ええ。どんな表情、とは形容し難いから、何故そんな表情を取ったかは、ハッキリとは分からないけど…
でも、考えるとしたら…やっぱり昨日のあなたが見せてた、いつもは見せてないあなたの一面の中に、彼の心に響く何かが有ったのかしらね…?
厳密に言えば『どんな表情か』は言い表せたが、言おうとして、敢えて伏せておく事にした。
思わず、ドキッと、胸が高鳴ったのを唯は感じた。
先生の推測が正しいとすれば…もしかして…?

「だから、ね?彼も、あなたと仲良くなるのは、決して嫌じゃない筈よ?
あなたが頑張る意味…私は充分に在ると思うわ」

そう言って、ポンと肩に手を置いた。

「頑張りなさい?私、ララさんの事もだけど…あなたの事も応援してるわ」

「は…はいっ」

御門先生の言葉に、唯はゆっくりと、しっかりと頷いた。

「それじゃ、そろそろ行きなさいな。さっきも言ったけど、風紀委員のあなたが遅刻しちゃ困るでしょ?」

言われて、唯はハッと時計を見た。
朝のHR開始まで…あと2分しかない!

「あ、あわわ…そ、それじゃ私、行きます!先生!その…ありがとうございました!頑張ります!」

足元の鞄を掴みながら、唯は慌てて扉を開けた。

「ええ、しっかりね♪」

笑顔で手を振る御門先生。
それに対し、唯はもう一度軽く頷くと、キチンと扉を閉め…教室へと駆け上がって行った。

──バタン──

唯が出て行ったのを確認すると、御門先生はふぅ、と一息ついた。

「色々大変な事もあるけど…やっぱり、若いっていいわねェ」
窓の外をぼんやりと見つめながら、ふと昔を思い出す…
それから、リトの、思い悩むような表情…唯の、あの真っ直ぐで寂しそうで…そしてたっぷりと好意の詰まった視線を思い出しながら、ポツリと呟いた。

「…うふふ、これからはあの2人…気の休まる日は、暫く来なさそうね♪」

 

つ づ く