※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

2学期に入って少し経つというのに今だ、ミーンミン、とセミの鳴き声がうるさい彩南町
ここ2-4の教室にも、うるさいほどにセミの鳴き声が入ってくる
そんな中、唯は自分の席に座って一時間目の授業の用意をしていた
机の上に置かれたノートをパラパラと捲ると、几帳面でいて可愛らしさもある綺麗な字が
ノートの上から下までを埋め尽くす
昨日の夜にやった予習部分を見ながら、唯の目がチラリと斜め前に向けられる
(……まだ来ていないわね…)
と、心の中で思い浮かべた顔は、リトだ
朝の挨拶と他愛無い会話で盛り上がる教室の喧騒から切り離されたリトの机
朝日に照らされながらポツンと寂しげに佇む机に、リトの姿が浮かび上がる
眠そうに欠伸をしていたり、頬杖をついてボーっとしていたり、ララやリサ達とバカな
会話で盛り上がったり
いつの間にか、ノート見る時間よりもリトの机を見る時間の方が長くなっている事に、
唯はまだ気づかない
(…何やってるのよ…。…まさか! また遅刻ギリギリとか言うんじゃ…?!)
唯の目に少しだけ鋭さが増す
実はリトは遅刻ギリギリが多い
ララの発明品に追い掛けられていたり、朝からモモの熱烈なアプローチを受けていたり、
新しい宇宙人に遭遇していたり
(本当に結城くんって、いつもナニかに追い掛けられているわよね…)
唯は小さく溜め息をつく
その理由の一つに自分自身が入っている事に、唯はまたしても気づかない
(ま、そろそろ来るでしょう)
ノートに目を通しながらそんな事を考えていると、教室のドアが元気に開く
「おっはよ~!」
ドアと同じぐらいに元気いっぱいに挨拶をしたのはララだ
教室中の視線がララに集まり、そして次々に挨拶が投げられる
「ララちぃ、おっはよー」「ララちゃん、今日もカワイイなぁ」「おはよー。ねえねえ、昨日の
テレビでさ…」
「今日の体育、マラソンだって。サイアクー」「ララちゃん、お菓子食べる?」「ララちゃん、
ちょっとちょっと」
それらに律義に応えていくララを目で追いながら、唯は一人、首を傾げた
「……結城くんは…?」
いつもララと一緒に登校してくるリトの姿が、今日はどこにもない
少し遅れてやってくるのかと思ったが、いつまで経っても姿を現さない
その時、唯の胸の中で小さな不安が生まれる
「……っ!? もしかして…何かあった、とか?」
その声に気づいたララと不安げな唯の視線が出会う
「ちょっと、ララさん。結城くんは?」
「あ、唯。あのね。今日、リトは…」
肝心のところを言おうとした時、ララの口が後ろから塞がれる
「ララちぃ、捕まえた!」
「わっ!? ってリサ!?」
ララを羽交い絞めにしたのは、リサミオの二人
いつもの朝の洗礼を受けるララは、さっそく身悶え始める
「ほれほれ、ララちぃの弱いトコロはどこかな?」
「やっ…ん…っ…尻尾は…ら…めェ…」
「ララちぃ、カワイイ~!」
教室のど真ん中で、すっかり盛り上がるリサミオ
さすがに見過ごせるはずもなく、唯は勢いよく席を立った
「ちょっとあなた達! 何ハレンチな事やってるの!」
「あれ~? もしかして古手川さんも交じりたいのかなァ?」
「なっ…!?」
妖しげな視線を投げかけてくるリサに唯の顔が引きつる
「ば…バカな事言ってないで、早く席につきなさいっ!」
「もう。またそんなお堅いコト言って。それじゃ、またね。ララちぃ」
ミオの妖しげな手付きから解放されたララは、少し喘ぎながら床にペタンと座り込んでいた
「唯。助かったよ。ありがとー」
「そんな事より、結城く…」
唯の声にかぶさる様に、一時間目の開始を告げるチャイムが鳴ってしまった
またしても何も訊けずに終わった事に唯は、憮然となりながらララを立ち上がらせる
「もう一時間目が始まるから、とりあえず話はあとよ。あなたも早く授業の準備をしなさい」
「は~い」
自分の席に向かう途中、唯は、もう一度リトの机を見た
そこにはやはり誰も座っていなくて――――
(…もぅ。何やってるのよ…!)
不安と苛立ちを抱えたまま、唯は席に着いた


「…え? 風邪…?」
結局、授業にはまるで身が入らず、ずっと悶々としていた一時間目が終わり
唯は休み時間が始まると、早速、ララに詰め寄って話を訊いてみた
その第一声は、唯の想像の斜め上を行くものであり
唯の黒い瞳が、理解できない胸の内を表す様に、何度も瞬く
対するララも、いつもの可憐な顔には陰りが差し、その声にも元気が微塵も感じられなく
なってしまっている
大きな目に溜まった涙に呼応する様に長い睫毛を揺らしながら、ララは続きを口にする
「……うん…。そうなんだ…。……昨日の夜から急に具合が悪くなって…、熱が出ちゃっ
て…、私も美柑も一生懸命、看病したんだけど…」
「…そん…な…」
俯くララの横顔に唯はそれ以上何も訊けなくなってしまった
(――――風邪? 結城くんが? だって……だって、昨日はそんな素振り全然見せな
かったじゃない…! どうして…?)
唯の胸の中で昨日の出来事が甦る

一緒に帰った帰り道
他愛無い話をしながら
途中、ジュースなんかも飲んだりしながら
別れ道、背中が見えなくなるまで見送って
家に帰ってからも何回もメールをして
それから、それから―――

記憶と共にいろんな感情が溢れ
唯はララの机に両手を置いて、顔を近づけた
「それで、熱ってどれぐらい出てるの? 薬は飲んだの? 食事は?」
「ちょ…ちょっと唯」
「ちゃんと寝てるの? セリーヌちゃんの様子は?」
「そんなにイッペンに答えられないよ。落ち着いてよ、唯」
「落ち着けって、落ち着けるわけないじゃない!」
唯は声を荒げた
ララの言っていることもわかる
わかるのだけど…
胸の奥から、どんどん溢れ出してくる
不安と心配で胸が痛い
(結城くん…)
頭の中の笑顔のリトに唯は、そっと呼びかける
声が聞きたい、顔が見たい、その手に触れたい
想いはどんどん強くなり
唯は再びララに詰め寄ろうとした、その時
二時間目を告げるチャイムが鳴った
「と、とにかく。あとで詳しく訊かせなさいよ? わかった?」
「唯。リトはダイジョーブだよ。今朝だって、いってらっしゃいってしてくれたし」
「…………」
唯は何も応えない。応えられない
ララに背中を向けて歩き始めた足が一瞬、止まりそうになり
止まるのをやめると、席に戻ってしまった
胸の中のもやもやは、ますます膨らんでいく


時刻は夕方の四時を廻った頃
リトは自分の部屋のベッドに寝転がりながら、ボーっと天井を見ていた
熱もだいぶ治まり、体調のほうもかなりマシになったとはいえ
それでもまだ頭の奥がガンガンと鈍く響く
リトは溜め息をついた
小さい頃から美柑と二人きりで生活してきたリトは、美柑にこれ以上の負担をかけまいと、
体調管理にだけは必要以上に気を遣っていた
それなのに
「…何やってんだよ。オレは…」
当の美柑は、「まったく、バカはカゼ引かないとか言ってたけど、アレ、ただの迷信だったみたいだね」
なんて憎まれ口を叩いて笑っていたのだが、昨日の夜は、ずっとそばにいてくれた
結局、そのまま一緒に寝てしまって、今朝、目を覚ました美柑は、「カゼ、移ってなきゃいいん
だけど…!」とどこか恥ずかしそうに、そそくさと朝食の仕度を初めてしまった
その後も
「熱は下がってるけど、今日一日は、ちゃんと寝とかなきゃダメだよ?」
と、遅刻ギリギリまで頭の濡れタオルを代えてくれたりしてくれた
セリーヌも午前中はずっと部屋にいたのだが、風邪が移るからと午後からはモモとナナが
面倒を見てくれている
「オレ…みんなに迷惑かけてるよな…」
再び、リトの口から溜め息がこぼれる
溜め息がつき終わる前に、部屋のドアがコンコン、とノックされた
カチャリ、とドアの隙間から顔を覗かせたのは、美柑だ
背中にはランドセルを背負ったまま。学校から帰って来たばかりのようだ
「もうそんな時間か。おかえり」
「ただいま。で、体のほうはどうなの?」
ベッドの上で「もう全然、へーきだぜ!」と元気をアピールするリト
美柑は苦笑を浮かべると、ランドセルを床に置いた
「そんなこと言って、まさか熱が上がったなんてことはないよね?」
美柑の小さな手がリトのおデコに触れ、自分のおデコの熱と比べる
「う~ん……熱は…たしかに朝と比べると下がってるような…」
「だろ?」
ニカっと笑みを浮かべるリトに、美柑は腰に手を当てながら溜め息をつく
「まったく。熱が下がってるからって、油断しないよーに! 今日一日は、絶対安静
だからね! わかった?」
「わかってるって」
ベッドに寝転がるリトがちゃんと布団をかぶるのを確認すると、美柑はランドセルを手に取った
「それじゃ、私は下にいるけど、何か冷たい飲み物でも持ってこようか?」
「ああ、頼むよ」
美柑は二言三言、小言を言うと部屋のドアを静かに閉めて出ていった

リトは再びベッドの上で、ボーっと天井を見ていた
部屋の中は、時計の針の音とうるさいセミの鳴き声だけが聞こえる
朝からまるで変わらない世界のはずなのに、どこかホッと安心している自分がいる事にリトは気づく
美柑がいる
ただそれだけの事で、まさかこんなにも落ちつけるとは思ってもいなかった
「…何だかんだ言いながらも、やっぱオレ、美柑に頼りっぱなしなんだな」
今度、久しぶりにどこか行きたいトコロにでも連れて行ってやるか、なんて事を考えてい
ると、部屋のドアが再びノックされ、返事をまたずに開けられた
ただし、今度はさっきみたいな静かな開け方じゃなくて、元気いっぱいな開け方だった
「なんだ美柑、早かっ…」
「たっだいまー! リト!」
「…ララ!?」
お日様の様な笑顔でただいまの挨拶をしたのは、学校から帰って来たばかりのララだ
その手には、何やら大きな紙袋がある
「じゃーん! はい、おみやげだよ!」
「みやげ? オレに?」
ララがおみやげだと言ってリトに手渡したのは、アイスだった
それも一つや二つじゃない
いろんなアイスが紙袋いっぱいに入っている
「どーしたんだよ? これ」
「えへへ、ガッコウの帰りにデパートに寄って買ってきたんだよ」
「買ってきたって…スゲー量だぞ? これ…」
「カゼ引いたら冷たいモノがイイって、美柑が教えてくれたからね!」
「ララ……お前…」
地球のお菓子が大好きなララは、よくお菓子を買ってくる
見た事もないようなお菓子から、リトがもう食べ飽きてしまったお菓子まで
いつもスーパーの袋いっぱいのお菓子をホクホク笑顔で買って帰り、みんなに配って、
みんなと一緒に食べるのがララの何よりの楽しみ
毎回ララの好きな味しかない事に、リトと美柑は顔を見合わせてしまうのだが
「みんなと一緒に食べると、すっごくおいしーね!」と輝く笑顔を見せるララに、つい
釣られて笑みを浮かべてしまう
けれども今日は、どのアイスもリトが好きな味ばかりだ
それにアイスの数からして、お金もかなりかかっているはずだ
きっと今まで溜めていたお小遣いを切り崩したに違いない
ララはヒマワリの様な笑顔でリトを見ている
その笑顔を見ているだけで、風邪なんて吹き飛んでしまいそうで
リトは紙袋の中からアイスを一つ取りだした
「サンキュー! ララ」
「うん! って選んだのは私だけじゃないんだよ」
「え? そーなのか?」
「えと…あれ?」
後をキョロキョロと振り返るララに、リトは眉をひそませる
「どうしたんだ?」
「あれ? どこ行ったのかな…。ココに来るまでは一緒だったのに」
「ん?」
「ちょっと待ってて」
部屋を飛び出すララの背中に、リトはチンプンカンプンな視線を投げかけた

部屋を飛び出して数秒も経たない内にララの声が廊下に響く
「あ、いたいた」
「うっ!?」
「こんなトコロで何やってるの? リト、待ってるよ?」
「わ、私は別にココでも良いっていうか…」
「そんな事言ってないで、早く早く」
「わっ!? ちょ…ちょっと! 腕を引っぱらないで!」
廊下での見えないやり取りにリトは首を傾げた
「なんだ?」
ララの声ともう一つの声
姿は見えないけれど、とってもよく知った声だった
そしてそれは今一番聞きたい声でもあった
「リトー。お客さんだよ」
「も、もういいわよ! 自分で歩くわよ!」
ララの腕を振り解きながら声を荒げるのは、唯だった
ララと同じく制服姿
「古手川!?」
「お…お邪魔します」
どこか余所余所しさが感じる唯の挨拶に、リトの口元に笑みがこぼれる
「来てくれたんだ。ありがとな!」
「……っ」
ニッコリと微笑むリトの笑顔に唯は息を呑む
胸がキュンと締まって、顔がポッと熱くなる
体の芯から込み上げてくる何かに、思わず両腕で自分の体を抱きしめそうになってしまう
唯は顔をブンブン振ると、一歩、ベッドに歩み寄った
「そ…それで! どうなの? その……体調のほうは」
「カゼのことか? だったら心配すんなって。もう大丈夫だから」
リトはまたニッコリと笑った
けれども唯にはそれが無理をしているとわかる。わかってしまう
リトの顔はほんのりと熱で赤くなっているからだ
さっきはやっと顔を見る事が出来たことで、心のどこかでホッとしてしまって、つい見過ごしてしまった
そんな不甲斐ない自分を心の中で叱責すると、唯はリトの腰まで捲れている布団をかけ直す
「そんな事言って! まだ熱があるんでしょ? ムリしちゃダメじゃない!」
「ムリとかしねーって」
「唯の言うとおりだよ、リト。まだ寝てなきゃダメだよ」
唯とララ、二人に詰め寄られて、リトの開きかけた口が閉じてしまう
渋々と枕に頭を沈めるリトに、唯は枕元の紙袋からアイスを一つ取りだした
「それにまだ、声の調子もおかしいじゃない。これでも食べて、ノドの腫れを治しなさい」
「……わかったよ。大人しく寝てる」
どんなに調子が良さそうに振る舞っても、全てお見通しよ、と言っている唯の視線に、
リトは苦笑を浮かべ、アイスを受け取った
その様子をララは、満足そうにニッコリと見つめている
「あのね、そのアイスね、唯が選んだんだよ」
「古手川が?」
「うん。リトはコレが好きだからって、私が選ぶんだって」
「ちょ、ちょっとララさん!? 何言い出すのっ!!」
慌てて口を塞ごうとする唯から逃げるララ
部屋の中で追い駆けっこを始める二人とアイスを見比べながら、リトは淡い笑みを浮かべた
「へー。古手川が選んでくれたんだ」
「他にもね…」
「も、もう! いい加減に…」
唯の手から逃れたララがうれしそうに、口を開く
「学校にいる時なんて、ずっとリトのこと心配してたよ」
「ら、ララさん!?」
「リト、大丈夫かな? 今頃、なにしてるのかな? お薬はちゃんと飲んだかな? ゴハンは
食べてるかな? って。もうずっとずっとリトの事ばっかり」
唯は声を上げる事も出来ずに、真っ赤になった顔を両手で隠している
「あとね。帰る時なんか、私がリトの体を治すんだー! って大張りきりだったし」
唯は顔を隠したまま、ペタンと床に女の子座りをして小さくなる
そんな唯をリトは驚きとうれしさが混じった目でまじまじと見つめていた
「へ…へー。古手川がそんな事を…。その…あ、ありがとな」
「……ッッ」
驚きでうまく言葉が出てこないリトに、唯の小さな両肩がピクンと震える
「唯はリトが大スキだね!」
「…ッッ…」
ついには頭から見えない湯気を立ち上がらせる唯
よろよろと立ち上がると、一人うれしそうなララに詰め寄った
「も、もう! なにわけのわからない事言ってんのよッ!?」
「えー。でも唯、学校とかで泣きそうな顔してたよ?」
「だ、誰も泣いてなんかいないわっ!!」
「むー。休み時間とかすっごく心配そうな顔してたし」
「あ…あれは……結城くんはクラスメイトなわけだし……ええ、そうよ。クラスメイトの
心配をするのは風紀委員として当然のことだわ」
風邪を引こうが、何が起ころうが、いつもとまったく変わらない光景にリトが「やれやれ」と
苦笑を浮かべていると、部屋のドアが遠慮気味にそっと開けられる
「えと……おジャマだった?」
「美柑!?」
ドアの隙間から部屋の様子を窺うのは、入り辛そうな顔をしている美柑だ
手にはジュースが乗ったトレイを持っている
「さっき頼まれたの持ってきたよ。はい、リト」
「サンキュー」
「古手川さんとララさんにも。同じやつだけど」
「どうも」
「ありがとー」
ストロー付きのグラスの中には、搾りたてのリンゴジュースが入っている
みんなにジュースを配り終えた美柑は、部屋着にエプロンを着けていた
そして可愛いスリッパを鳴らして、くるっと唯に向き直って、意味深な笑顔を向ける
「それじゃあ私は、これから夕飯の買い物に行ってくるから、リトのことお願いね。古手川さん」
「え? え?」
「私もアイス冷蔵庫になおしてくるよ。このままだと溶けちゃいそうだしね。リトの看病してあげてね、唯」
「え、ちょっと待っ…」
唯が言い終わらない内に部屋のドアは閉じられてしまう
後に残ったのは、ジュースとアイスを持って呆然とする唯と、苦笑いを浮かべるリトだった


「まったく、何を考えてるのかしら?」
「ははは…」
床に座った唯とベッドの上のリトは、アイスを黙々と食べていた
時折、聞こえてくる唯の愚痴に相槌を打ちながら、リトの喉の奥にどんどんアイスが消えていく
(にしてもマジでうまいな)
唯が選んだということだけあって、アイスはリトの好みにピッタリだった
自分の好きなアイスを選んでくれるという小さな幸せが、今は、とっても大きく感じる
(ありがとな! 古手川)
ムスっとした唯の横顔にありがとうの視線を送りながら、リトはスプーンを口に入れた
と、次の瞬間、急にリトは口を押さえて体を丸めてしまう
余所見をしていたせいか、おかしなところにアイスが入ってしまい、咳き込んでしまったのだ
「…うっ…げほ…ごほっ…」
「ちょ…結城くん!?」
口を押さえて蹲るリトに、唯は慌てて立ち上がった
「大丈夫?」
リトの背中を軽くトントン、と叩いて擦る唯
しばらくすると、目に少し涙を溜めながらリトは体を起こした
「わ…悪ィ。もうだいじょーぶだから」
「ホント?」
リトの横顔を見つめる唯は、さっきまでのツンツンした様子が嘘の様に、黒い瞳に心配な
色をたっぷり湛えている
リトは唯の不安な気持ちを拭い去ってやろうと、いつもの笑顔を浮かべて見せた
が、唯の顔は晴れない
そればかりか、逆に陰りが濃くなってしまう
「古手川? どーしたんだよ? オレならもうヘーキだって」
「…………結城くん…」
「ん?」
消え入りそうなほどにか細い声にリトは顔を寄せた
少し俯いているため、前髪が唯の顔を隠し、その表情がリトにはわからない
唯の手に少しだけ力がこもる
唯の手はいつの間にかリトの背中を離れ、リトのパジャマの裾を掴んでいた
「古手川…?」
「……」
唯は無言
どれぐらいの時間が流れたのか
しばらくして、唯は俯いていた顔をわずかに上げる
前髪が揺れ、唯の綺麗な瞳がリトを見つめる
唯とリト、今日初めてお互いの顔を見つめ合う
それなのに、リトにはうれしいという気持ちが生まれなかった
唯の瞳が今にも泣き出しそうなほどに潤んでいたから
「古手…川? なんで泣いてるんだ?」
「え…?」
目に溜まった大粒の涙に手を伸ばそうとするリトの姿にハッとなった唯は、慌てて制服の袖で涙を拭った
「ち…違うの! これはそんなんじゃなくて……ひっ…ぐっっ…あれ…?」
いっぱいになった大粒の涙が目から溢れ、ポロポロと唯の頬を伝い落ちていく
唯の目はすぐに真っ赤になった
「な…なんで…? 私…だって…今日は結城くんのっ…お見舞いに…っっ…ぐすっ」
ゴシゴシゴシゴシ、一生懸命、涙を拭いては、泣き顔を隠す唯
リトは唯の頬にそっと指先で触れ、手を当てた
「……っ!?」
ピクン、と唯の華奢な肩が震え、唯の手が止まる
「ゴメン…。古手川、心配してくれてたんだな…。それなのにオレ、今日、何も言ってな
くて。カゼ引いた事とか…。心配かけたくなかったつーか」
「……」
唯は何も答えない。代わりに大粒の涙が一粒、頬を流れリトの手の甲の上を伝い落ちていく
リトは体を寄せると、両手で唯の頬を包み込んだ
「でも、もう大丈夫になったからさ! メシも食ったし、薬だってちゃんと飲んだんだぞ! おかげで
熱も下がったし。だから、もう心配すんなって! オレは大丈夫だから!」
「…………ホン、ト…に?」
リトは涙で濡れる唯の手を掴むと、自分の額に近づけた
「ほら、確かめてみろって」
「……」
唯の白い手がリトの額にペタリと触れる
「どうだ? 大丈夫だろ?」
「……」
唯は無言のままで熱を測ると、今度は両頬、そして首筋をペタペタと触っていく
少し冷たい唯の手の感触が、火照った体に気持ち良くて
赤く目を腫らす唯に悪いと思いつつも、リトはそっと目を閉じて、唯の感触を味わう
「…まだ熱いわよ?」
「これでもかなりマシになったんだけどな」
「ホントに大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」
リトは即答すると、ニッと笑みを作る
「古手川は心配性だな」
「ムっ」
呆れが混じるリトの笑みに唯の目が少し釣り上がる
が、それもすぐに治まり、すぐにゆらゆらと揺れる

誰にでもこんな風になるわけじゃないんだから
誰にでもこんな心配なんかしないんだから
結城くんだから
あなただから

桜色の唇がかすかに開く
「……悪かったわね。心配性で…」
本当は言いたい事も、伝えたい事も、たくさんたくさんあるのに
唯は目尻を目いっぱい釣り上がらせて、精一杯強がって見せた
けれども、もう強がってなどいられない
唯の体がふいにリトに寄りかかる
「え? ちょ…古手川!?」
「……ッ」
唯はリトのおデコに自分のおデコをくっつけた
唯の長い睫毛がリトの睫毛にキスをし
リトは顔を真っ赤にさせながら丸くなった目を瞬かせた
「こ…こっ…古手…川?!」
「……」
唯は無言のまま、リトの顔に甘い吐息を吹きかける
そして、真っすぐにリトを見つめた
リトも顔を赤くしながら、唯を見つめる
しばらく見つめ続けた後、唯はポソっと口を開く
「―――何よ。やっぱりまだ熱いじゃない」
「い、いや、これは…!?」
両手をあわあわと宙で振って慌てだすリトの顔を、唯の真っすぐな瞳が見つめる
額を通じて確かに感じる、リトの火照った体温
そして、真っ赤になりながらドキンドキン、と高鳴っている胸の鼓動
唯は両手でそっと、リトの両頬に触れる
柔らかくて優しい手の感触が頬を包み込んでいくと、リトの情けない手の動きが徐々に止まる
「……移して」
「え?」
「熱。全部、私に移して」
「移してって……何言ってんだよ!?」
「だって…」

もうこれ以上、一人で辛そうな顔は見たくない
もう私を心配させないために、やせ我慢なんかしてほしくない
いつもみたいに笑ってほしい
いつもみたいに私のそばにいてほしい
いつもみたいに
いつもと同じ結城くんが見たいの

頬に触れる唯の手が小さく震える
それは唯の内心をリトに伝えるには、十分すぎた
リトは唯の手の上に自分の手を重ね、少しだけ握りしめる
「オレのカゼが移ったら、今度は古手川がダメになっちまうだろ」
「…いいわよ」
「よくねーよ」
リトの指が唯の手の指を割って、絡み合っていく
「移さなきゃダメなの」
「そんなこと言われても困るって」
二人の手がギュッと絡み合い、繋がる
リトは手に力を込めて、唯をベッドの上に引き寄せる
唯の片足がベッドに乗り、唯は両脚でリトの下半身を跨ぐ形で乗り上げた
「移さなきゃ……怒るんだから」
「それは、カンベンしてほしいんだけど」
「じゃあ移して」
顔を寄せ合い、額をくっつけ合って、手を繋ぎながら、二人の会話は続く
「移さなきゃ……ダメなんだから」
「どーしても?」
「どうしても!」
「じゃあ、どーやって移せばいいんだ?」
「そっ、それは…っ」
唯の体温がリトの体温と同じぐらいに上がる
唯の体温を直に肌で感じるリトは、くすぐったそうに笑う
「も、もう! どうして笑うの?!」
「ゴメン。古手川がすげー可愛かったから」
「!? ま…また、おかしな事言って!」
目の前であわあわと慌てる唯の顔に、笑みを深くさせるリト
そしてリトは、口元を結び真面目な顔になると、少し声のトーンを下げた
「ゴメンな」
「何が?」
「今日、いろいろ心配かけて」
「……っ。わ…わかってるなら……別に、いいわよ」
唯の重みを下半身に感じながら、リトはさらに口を開く
「心配かけないようにしてたんだけど、やっぱムリだったみたいだな。余計に心配かけちまった…」
「そ、それは……当り前じゃない! だって…だって、結城くんが風邪引いたんだもの…。心配、するわよ」
唯の指がリトを求める様に手の甲に軽く食い込む
リトは唯の手を少し引っぱった
「あっ…」
短い呟きの後、唯の唇がリトの唇に触れる
「…んっ…!?」
目を丸くさせる唯
キスの味を味わう間もなく、唯は唇を離した
「ちょっ…もぅ。カゼ引いてるのに、ダメでしょ」
赤くなった顔で抗議の声を上げる唯に、リトはイタズラをした子供の様な笑みを浮かべる
そしてシーツから少し腰を上げ、顔を寄せた
「だ、だからダメって…ん、んんっ」
唯の抗議はリトの唇によって、閉じられてしまう
「んっ…っ…」
離れては触れ、軽いキスを繰り返す唯とリト
何度目かのキスの後、ふいに唯の手がリトの手から離れた
唯が求めたのは、リトの胸板だった
Tシャツの上から指を軽く這わせながら、唯の少し上目遣いぎみの黒い瞳がリトを見つめる
「…ダメって言ったでしょ? 体調悪いんだから…」
唯の頬は火照ったようにうっすらと赤くなっていた
黒い瞳は熱で濡れ、まるで発情したみたいな妖しい雰囲気を醸し出す
リトは唯の頬にそっと手で触れた
「古手川のホッペ、スベスベだな」
「何よ…? それ…」
「もっと触ってイイ?」
恥ずかしそうにコクン、と頷く唯
リトは手の平いっぱい使って唯の白い頬を堪能していく
ペタペタ触ったかと思えば、指で突いたり、軽く摘まんだり
「んん…っ。やん、くすぐったい」
「わ、悪ィ!」
ずっと黙っていた唯が突然、声を上げたことにリトは、慌てて手を引っ込めた
「……」
「えと…お、怒った?」
ふるふる、と首を横に振る唯
そして、ぼそぼそと口を開く
「…もうしないの…?」
「へ?」
上目遣いでジッと見つめてくる唯の視線に胸の中をくすぐられた様な感覚をリトは覚える
リトはおもむろに唯の頬を軽く摘まんで横に引っぱってみた
「……ほへ?」
目が点になる唯だが、リトの指によってホッペはいろんな方向に伸ばされる
横だったり、上だったり、下だったり
「…ね、ねェ? ひたひんだけど?」
「古手川のホッペってすげー柔らかい」
「ふぇ…!?」
「もうちょっと触っててもいいか?」
唯の頭が上下にコクコク動く
リトは気が緩んだのか、ますます唯の頬をあれこれと弄っていく
その様子をジッと見つめる唯も、どこかこそばゆい様な笑みを浮かべる
「ひもちひいいの?」
「うん」
「…ほっか」
唯は満面の笑みを見せた
「なっ…!!!?」
リトの手が硬直
そして頭から見えない湯気が立ちあがっていく
「ふへ? ゆうひくん?」
「……っ!?」
リトの顔はすでに赤を通りこして、真っ赤だ
それこそ、このまま倒れてしまうのではないかと思えるほどに
さすがに心配になった唯は、リトの手を離すと、リトに顔を寄せた
「結城くん? ちょっと、ホントに大丈夫なわけ?」
「……」
無言で固まるリトの顔の前で唯は、何度もかざした手を振って見せた
「結城くん? 結城くん!」
「か…かわ…」
「かわ?」
「か……カワイイっ!」
「はぁ?」
リトの的外れな言葉に、唯はつい素っ頓狂な声を上げてしまう
そんな唯を余所にリトの顔がぱぁっと輝いていく
「そのなんつーか……さっき見せた古手川の笑顔がスゲー可愛かったらさ」
「え…?」
「もう一回、笑ってほしいな!」
「…なっ…!?」
と、ニッコリ微笑むリトに、今度は唯の方が真っ赤になって硬直してしまう
そして、ブルブルと両手が震え出す
「あれ…? えと…古手川? どーした…」
「な、何考えてるのよ!? ハレンチなーっ!!?」
唯の声が結城家に響き渡った
「な、な、何だよ!?」
「バカ! バカ! バカ! バカーっ!!」
唯は両手をぶんぶん振ってリトの胸板をポカポカと叩き始めた
「ちょ…ってぇ! 痛っ…! 痛いって!」
「知らない! 知らない! 結城くんなんて知らないんだから!」
唯の声は一回のリビングまで届いていた
顔を合わせて「なにやってんだろうね?」「まうー?」と首を傾げるララとセリーヌ
美柑だけはソファーに座って、「やれやれ…」とアイスを咥えていた
「バカーっ!」
「わ、悪かったって! ホント! だから…」
オレが風邪引いてる事なんてすっかり忘れているんじゃねーのか? なんてリトが思い始めた時
リトのお腹の虫が「ぐぅ~~~~」と鳴きだした
「あ…」
「え…」
思わず手でお腹を押さえたリトと両手を宙に彷徨わせたままの唯の目が合う
唯の視線にリトの顔に赤みが表れ、見つめられる時間の長さだけ濃くなっていく
「いや…その…」
「……結城くん、お腹空いているの?」
ベッドの横のテーブルの上には、キレイに食べ終わったアイスのカップと、飲み終わった
コップが置いてある
リトはバツが悪そうにそっぽを向くと、小さくコクンと頷いた
「ま…まァ、ちょっと空いたって感じだけど」
「それならそうと言いなさいよね! まったく!」
唯はリトの頭をクシャリと撫でると、ベッドから降りた
時刻は六時を過ぎた頃、窓の向こうは、夕焼けがとてもキレイだ
「じゃあちょっと待ってて。美柑ちゃんに訊いてみるから」
「ああ。頼むよ」
ちゃんと寝てなきゃダメだからね、と釘を刺すと、唯は部屋のドアを静かに閉めた
部屋のドアが閉まるのを見届けると、リトは溜め息をついた
「…ったく、さっきまではあんなに怒ってたっつーのに」
その原因となった唯の満面の笑顔を頭に想い浮かべると、自然と顔がニヤけてくる
重い体も軽くなってくる。頭の鈍い痛みもどこかに消えていく
「ありがとな。古手川」
階段をトントン、と下りていく唯の足音を聞きながら、リトはお礼を言った
足音が聞こえなくなると、部屋の中はさっきまでの賑やかさが嘘の様にしーん、と静まり返る
その事を少し寂しく感じながらも、リトはもう一度、さきほど唯が見せてくれた、とびき
りの笑顔を思い出し、一人、ニヤけるのだった


「美柑ちゃん、ちょっといい?」
「古手川さん? どしたの? もしかしてリトがなにかワガママでも言ってるの?」
リビングでララ達とくつろぐ美柑に申し訳ない気持ちになるも
唯はリトがお腹を空かしている事を伝えた
「まだ夕飯には早い気もするけど、イイよ。作ろ!」
「ホントに?」
美柑の快い返事に唯は、ホッと胸を撫で下ろした
「それじゃあ、私はこの事を結城くんに…」
「ちょっと、待って! 古手川さんも作るんだよ!」
「え? 私が?」
「うん」
ニッコリと笑う美柑に、唯の目がパチパチと瞬く
「そ、そんなムリよ! 病人食とか作ったことないし! おかしなモノでも作ったら大変じゃない!」
「ダイジョーブだよ。私がちゃんと教えるから」
「でも…」
「それに、古手川さんが作ったって聞いたら、リトもうれしくて風邪なんかどっか行っちゃうかもね」
「そ…そんな大げさな…!」
なんて言いながらも、どこかうれしそうな顔を覗かせる唯
そんな唯に美柑は心の中で「古手川さんってやっぱわかりやすい」と呟くのだった

本日のメニューは、揚げ鶏の甘辛ネギダレと鶏肉と野菜のスープ、そしてお粥だ
揚げ鳥は、リトの好きな唐揚げをアレンジしたもので、栄養価も高くて食べやすさから
野菜スープは、余った鶏肉と野菜を一緒にして、ヘルシーに仕上げ
お粥はしっかり土鍋で炊いた、熱々のものを

エプロンに身を包んだ美柑は、メニューをぱぱっと決めると、テキパキと準備に入る
一方、唯はというと、同じくエプロンを着けたのだが、なんだか堅い顔のまま、まな板の前にいる
(うぅ…。こんなスゴイメニュー、私、作れるのかしら…)

バレンタインでチョコを作った日から、唯は暇さえあれば夕飯の手伝いをするようになった
具材を切ったり、お味噌汁の味噌を溶いだり、お母さんの手付きをメモしたり
しかし、どれも基礎的な事ばかりで、本格的な料理はまだしたことがなかったのだ

そんなわけで、今日、いきなり本格的な料理をすることになった唯は、軽くテンパってしまっていた
(ど…どうしよう…。もし、失敗したら結城くん…)
お腹が空いてゲッソリと痩せこけたリトが頭に浮かぶ
そんな唯の心情を察してか、調理器具を棚から出していた美柑は、ニコッとリトと
そっくりな笑顔を浮かべた
「心配しなくても大丈夫だって。カンタンなのばっかりだから」
「カンタンって…」
「一緒にガンバロ、ね?」
「う…うん」
まるで今にも泣き出しそうな妹を安心させる姉の様に、美柑はニコッと笑う
その笑顔に唯は、小さい子供の様に頷いた
これではどちらがお姉さんかわからない
もしかしたらキッチンの中では、美柑に敵う者はいないのかもしれない
「じゃあまず、お米を研ごっか」
こうして唯の初めての手料理が幕を開けた

グツグツと音を立てる土鍋に、唯は恐る恐る手を伸ばす
「……あっつ…!?」
「わぁ!? だいじょうぶ? 古手川さん。ダメだよ! まだ開けちゃ!」
「うぅ…」
赤くなった指を口に咥える唯は、こっそり涙を浮かべた

「古手川さんは、おネギを切って。私は鶏肉を見てるから」
「まかせて!」
野菜なら家でも何度も切っていた。唯はまな板の上に軽快な音を走らせる
けれども途中からうれしそうに手料理を食べているリトを妄想してしまい、危うく包丁で
指を切りそうになってしまう
「キャっ!?」
「こ、古手川さん!?」
この後も、美柑の声がキッチンに幾度となく響いたのだった

何回目かの美柑の叫び声の後
キッチンのドアがそっと静かに開けられる
「まう~」
エプロン姿の唯と美柑を見つけると、セリーヌの顔にぱぁっと笑顔が浮かぶ
実は、調理を始めてからすぐ気になって様子を見に来たセリーヌとララに、美柑は
「しばらく立ち入り禁止」と念を押していたのだ
ず~っと相手をしてもらえなかったセリーヌは、居ても経ってもいられず、二人に駆け寄った
「まうー!」
「せ、セリーヌちゃん!?」
「セリーヌ!?」
セリーヌはぴょん、とジャンプをすると唯の肩に抱きついた
「コラ、セリーヌ。入ってきちゃダメって言ったでしょ!」
「でももう終わったから。いいわよ」
助け舟を出してくれる唯に頬ずりをするセリーヌの目に、テーブルの上に並ぶ、おいしそう
な料理の品々が飛び込んでくる
「まうー!」
「これはリトのだからダメだよ」
「セリーヌちゃんの分もちゃんと作ってあるからね」
そうなのだ
唯はリトの分だけではなく、セリーヌやララに美柑の分まで作ったのだった
「まう~♪」
セリーヌの大きな目にお星さまがいくつもキラキラと輝く
無理もない
唯の、それも初めての手料理を食べられるのだ
セリーヌは唯の腕の中から身を乗り出して、お皿を掴もうとする
その後ろから、眠い目を擦りながらララがキッチンに入って来た
どうやらおいしい匂いに誘われて、夢の中から起きてきたようだ
「ん…んん…なにやって……おお~!? 何かイイ匂いがするよ!」
「ちょっとララさん。髪がクシャクシャじゃない」
寝癖がついているララの髪を手櫛で整えてあげる唯
ララは両手をテーブルに付けると、目を輝かせた
「すご~い! これみ~んな、唯が作ったの?」
「い…いくらなんでも、こんなすごいメニュー私一人じゃムリよ。これは美柑ちゃんが手
伝ってくれたからで、私はちょっとしか…」
あたふたと慌てる唯に美柑はニッコリ笑って、「私はアドバイスしただけだけどね」と
ウインクして見せた
「それじゃあ、古手川さん。コレ、リトに持って行ってあげて。きっとお腹空かして待ってるから」
「ええ。ありがとう。美柑ちゃん」
「いいって、いいって。」
まるで姉妹の様に笑い合う唯と美柑
さっきまでの悪戦苦闘も、今はもう大事な想い出の一つだ
美柑からトレイに乗った夕飯を受け取る唯
その様子をララは、指を咥えて見つめていた
「あれ? 私達のは?」
「ララさんもお腹空いているの?」
「えへへ」
「まうー」
セリーヌとララのお腹から可愛い虫の音が鳴る
美柑が時計を見ると、時刻は、いつの間にか七時を過ぎていた
「じゃあ、私達も食べよっか」
「は~い!」
「まう~♪」
キッチンを包む楽しそうな声を後ろに聞きながら、唯は階段を上がっていく
「これが初めての手料理になるのよね…」
トントン、と階段を上がっていく音と、ドキドキ、と鳴っている胸の音が重なる
唯はリトの部屋の前まで来ると、そこで小さく深呼吸をした
「よし…!」
一つ気合いを入れ、そして、ドアをノックした


「お…お待たせ」
緊張で声が震える唯だったが、鈍いリトはその事にまったく気づく様子はなく、読んでい
た雑誌をテーブルに投げ置くと、う~~ん、と両腕を上げて大きく伸びをした
「なんかスゲーいい匂いがするな」
「そ、そう…?」
唯はほんのりと頬を染めた
リトに「いい匂い」と言われたからではない
休日にお母さんと外食に来た子供みたいにワクワクしているリトの顔に、くすぐったさを
覚えてしまったのだ
唯はテーブルの上の雑誌等を手早く片付けると、そこにトレイを置き、次にリトのTシャツ
が汚れない様にタオルをかけてやる
「こんなのいいって」
「いいわけないでしょ。汚れたらどうするの? それにしてもこのシャツちょっと汗
を吸ってるわね。後で着替えなさいよ?」
面倒くさそうに不承不承、返事するリトの頭を唯は軽く小突いた
何か言いたそうなリトの視線を唯は涼しい顔で受け流す
(なんか古手川のヤツ、いつもよりも口うるさくなってるよな…)
それでもそれが苦にならないのは、そこに心配と同じぐらいの愛情が入っていると、知っているからだ
唯に小突かれた部分を手で押さえながら、リトはこっそりと笑みを浮かべた
「ん? 何?」
「な、何でもねーよ」
「ホントかしら?」
疑り深い唯の視線にリトは愛想笑いを浮かべて応えた
「まあいいわ」と、唯は軽く咳払い
そして急にもじもじし始めた
「え? メシは?」
「わ、わかってるわよ」
皿やスプーンをカチャカチャいわせながら、唯はリトの膝の上にトレイを置いた
緊張で手が震える
その震えは、料理を並べた後も治まらない
(な…何こんな事で、キンチョウしてるのよ!?)
唯はサッと両手を後ろに隠すと、震える手を握りしめた
明らかに最初にここに来た時と様子が違っているのに、リトはまったく気づく素振りも
なく、目の前に並んだ料理に目を輝かせる
「すげ~!? うまそー!! いただきま~す!」
「ど、どうぞ。召し上がれ」
第一印象である見た目はクリア
思わず胸をホッと撫で下ろしそうになってしまうのを唯は慌てて取り消した
まだ終わってはいない。むしろここからが肝心なのだ
スプーンで野菜スープを掬おうとするリトの手が、ふいに止まる
「あれ? 古手川は食べないのか?」
「え…? た、食べるわよ! し、し、心配いらないわ!」
「……?」
唯はいそいそとテーブルの前に女の子座りすると、「いただきます」と両手を合わせた

目の前に並んだ料理は、さっきまでキッチンで自分が作ったものだ
具材の大きさから味付けまで、みんな唯の好みに合わせている
散々、美柑に「結城くんの好みの味は、何なの?」と訊いた唯だったが
美柑は訊かれる度に「古手川さんの味付けでいいよ」と返すだけ
美柑にしたら唯が作るのだから、やっぱり「唯の味」をリトに食べてもらいたいわけなのだが…
美柑の努力の甲斐も空しく、逆に不安の種を植え付けてしまう事になる

(ホントに大丈夫かしら…)
野菜スープを一口、口に入れた唯の心は晴れることはない
味は自分では、おいしいと思う
思うけれど……
唯の視線がリトにそそがれる
リトはお腹が空いていたせいか、野菜スープどんどん口の中に入れていく
高鳴る胸の鼓動と、強まる視線
結局リトは、一度も唯の視線に気づく事なく、スープを飲み終えてしまった
唯の喉が小さく音を立てる
(……な…何か言いなさいよ…!)
唯にしてみたら永遠にも感じる時間
リトにしたらいつもの夕食の時間が過ぎ去った
「ふ~。これスゲーうまいじゃん!」
「……え?」
「なんかいつもと違う味だけど、それってオレが風邪引いてるせいかな?」
「……っ!?」
ドキリ、と唯の心拍数が跳ね上がる
スプーンを握りしめる手にも力がこもる
「でも、なんか優しい味がするんだよなァ。こーゆーのがヘルシーって言うのかな? す
げェ、うまかった」
「…ほ…ホントにっ?」
「え…? な、なんだよ?」
スープが入っているお皿を持ったまま、ベッドに詰め寄って訊いてくる唯に、リトはベッドの
上で思わず後ずさった
「な、なんでお前がそんな必死になるんだよ?」
「いいから応えてっ!」
唯の目は真剣だ
それこそ射抜かれそうな眼光を宿していた
喉の奥に生唾落ちていくのを感じながらリトはボソっと口を開く
「う…うまかったよ」
「……っ!?」
ぱぁっと唯の顔が晴れやかになっていく
さっきまで雨雲でどんよりしていた空に、急に日の光が差したように
唯はさらにリトに詰め寄ると、揚げ鶏が盛ってある皿をリトに差し出した
「これも食べてみて!」
唐揚げ好きなリトのためを想って、リトの分はみんなよりも量が少し多い
リトは意味がわからない、と言った顔をしながらも言われるままにフォークで山の頂上を突き刺した
「じゃ、じゃあ、いただきます」
「どうぞ。召し上がれ!」
ジッと見つめてくる唯の視線が気になって仕方がないのだが、リトは大きく口を開くと揚
げ鶏を放り込んだ
もぐもぐ、とリトの咀嚼する音が聞こえてくる
口の中でよく味わってくれている様だ
唯は無意識にシーツを掴んでいた
リトを見つめる視線は、さっきよりも強い
揚げ鶏に使った甘辛ネギダレは、大苦戦したけれど、今日一番の自信作だ
だからこそ不安も一番大きい
ゴクリ、とリトの喉の奥に揚げ鶏が消えていく
唯の喉も小さく音を立てた
「ど…どうなの?」
「ん~…なんつーか…」
「……っ」
唯の手はすでにシーツを掴むどころか、握りしめていた
じ~~~~~~~~~~~~~~~~~、っとリトを見つめる唯
その視線に冷や汗が浮かぶのを感じながら、リトは人差し指で頬をポリポリ掻いた
「えと……うまかったよ」
「ほ、ホントっ!?」
「その、オレが今まで食べたカラアゲの中で一番」
「えっ!? 一番…?!」
思いもしなかった言葉に、唯は息をするのも忘れてしまった
それほどの驚きとうれしさが、唯の中を駆け巡っていく
うれしさはやがて体温へと変わり、唯の頬をみるみると赤く染めていく
「い…一番……とか…そんな事…!?」
「どした?」
「な、なな、なんでもないの! おいしかったんならいいの!」
「……? よくわかんねーけど、何でお前が味のこと気にするんだ? さっきから変だぞ」
唯の顔にさらに赤みが増す
そして迷いに迷った末、唯はようやく口を開いた
「…きょ…今日の夕飯は、私が作ったのよ」
「へ?」
リトのバカみたいな返事のせいで唯のドキドキは、ますます大きくなってしまう
「作ったって、お前が? 全部?」
「そうよっ! 私が作ったの!!」
唯は自分でも驚くほどの大きな声を上げた
そして、ビシっとリトを指差す
「言っとくけど、残したりしたら許さないからね! わかってるの?」
リトは唯に言われた言葉の意味を確かめる様に何度かパチパチと瞬きすると、唯の指先と
おいしそうな湯気を立てる料理を交互に見つめ、そしてニッコリと笑った
「な…何よ?」
「よかったって思ってさ」
「よかった? 何が?」
「オレの一番好きなカラアゲの味が、古手川の作ったやつで。なんかそれがスゲーうれしいんだ!」
「私の作ったのが…………え? えっ!?」
リトの言葉の意味を理解した瞬間、唯の顔からボっと火が噴いた
「な、な、な、な、な、な…」
「へー。古手川が作ってくれたのか。どーりで美柑の作ったのと違うわけだぜ」
なんて事を言いながら、リトの手に握られたフォークが次々と揚げ鶏を突き刺し、口の中へと入れていく
「…ん…もぐ…もぐ…うん。やっぱスゴイうまいぜ」
「……」
一人うれしそうに顔をほころばせるリトに、唯はヘナヘナとその場に崩れ落ちた
不安が安堵に変わり、心配がうれしさに変わったのだ
胸の奥の大きな支えが取れた事で、唯の口から大きな溜め息がもれる
「どした? 食べないのか? うまいぜ」
これまでの心配な気持ちや不安な想いなど、露ほどにもわかっていないリトは、一人
ベッドの上でうれしそうに顔を綻ばせている
そんなリトの横顔を見ていると、フツフツと怒りが込み上げてくるのがわかる
唯はテーブルの上の自分の分の揚げ鶏にフォークを突き刺した
「ふ、ふん。バカバカしい。どうして私があんな事でいちいち心配なんか…」
と、一人文句を言いながら食べる唯の姿に、リトは小さく笑みを浮かべた
一人でハラハラして、安心して、怒る唯の姿がたまらなく愛おしく感じた
体調が普通の状態なら、思わず抱きしめてしまいそうなぐらいに
なんて事を考えながら揚げ鶏を口に持っていこうとすると、案の定、口をかすめて揚げ鶏は
落っこちてしまう
「わっ!?」
「もう! 何やってんのよ!」
唯は急いで立ち上がると、持っていたハンカチでリトの口元を拭いていく
「ゴメン」
「何考えてたのか知らないけど、ボーっとしてないでちゃんと食べなさい」
わかった? とまた小突かれそうな気配にビクッとなったリトを待っていたのは、思い
がけないサプライズだった
唯はリトの顔をジッと見つめた後、すっと顔を近づけた
そして、口元に残るソースを舌でチロリ、と舐め取ったのだ
「えっ!?」
離れていく唯の顔を、目をまん丸にさせたリトの視線が追う
「古手…川?」
「その……さっきの「おいしい」って言ってくれたのが、すごくうれしかった…から…。
だからっ…」
唯の声は、みるみると聞きとれないほどに小さくなって、最後は消えてしまった
それでもリトの耳にも心にもはっきりと届いた
唯なりの精一杯の「言葉」が
リトは唯に身を寄せると、赤くなっている頬にそっとキスをした
「なっ!?」
「オレもお礼。古手川、すごいガンバってくれたからな」
「そんなの別に…当然というか…」
サプライズはまだ続く
もじもじ、と肩をくねらせ
ゴニョゴニョ、と口の中で何か言っていた唯は、お皿を持つとベッドに腰掛けた
「た…食べさせてあげる!」
「え?」
「さ、さっきみたいに汚れちゃったらダメでしょ! だからよ! だから!」
まるで言い聞かせるように"言い訳"を連呼すると、唯は揚げ鶏をフォークで掴み、リトの口に近づける
「ほら、口開けて。その……あ、あ~んしなさいって事よ! わかりなさいよねっ!」
(なんでオレが怒られなきゃならねーんだ…)
半ば、理不尽と感じつつもリトは、「あ~ん」した
パクリ、とリトの口の中に揚げ鶏が入る
リトはさっきまでの数倍はうれしそうな顔をしながら咀嚼する
ゴクン、と飲みこむ時ですら、うれしそうだ
「何ニヤニヤしてるの? ハレンチな」
「だって古手川が食べさせてくれたんだぜ? さっきのやつがオレの中で一番おいしい
カラアゲになった!」
「もぅ…! バカなこと言って!」
口調こそ呆れた様な感じの唯だけれど、その顔にはすでに隠せないほどの笑顔が浮かんでいた
リトと同じぐらいの笑顔か、もしかしたらそれ以上かもしれない
「なァ、古手川は食べないのか? オレが食べさせてやるよ」
「い、いらないわよ! ハレンチな!」
「そう言うなって。ほら、あ~んして?」
「え? え…ちょ……あ、あ~ん」
唯の小さな口の中に揚げ鶏が入っていく
その瞬間、キュンって胸が高鳴って、ポッと顔が熱くなる
「ん…んん…」
「どうだ? うまいか?」
唯は口を閉じたまま、赤くなった顔をコクコクと縦に振った
正直、味なんてわからない
わからないほどに、唯の胸の中でいろいろなモノがドキドキと音を奏でる
だけど…
(おいしい…!)
今まで食べたどの料理よりもおいしいと思える
それだけは、はっきりとわかる
それは紛れもなくリトが食べさせてくれたからなわけで
(もっと、食べたい…かも)
唯が物欲しそうな視線をリトに向けようとした時、ふいにリトの顔が揺れ
気がつくと、すぐそばまで来ていた
「え? ちょ…!?」
リトの舌が唯の口元をチロリと舐めた
一度だけではなく、二度三度と
「ん…ンっ…ンン」
唯の体が硬直する
リトが舐める度にシーツを握りしめる手に力が入っていく
唯は目をキュッと閉じたまま、リトにされるがままになっていた
やがて、リトの口が離れていく気配に、そっと両目を開けた
震える睫毛の向こうに、ニッコリ笑うリトの顔が見える
「古手川のココ、ソースついてから。さっきのお返し」
「なっ…!?」
リトは口元を指差しながら、子供みたいな無邪気な笑顔を見せる
その笑顔を前にすると、振り上げた手をどうしたらいいのかわからなくなってしまう
怒る気力がみるみると消えていく。まるで魔法にかかったように
それでも唯は、このままでは終われないと言った様子で、赤くなったホッペの中で何やら
モゴモゴと呟くと、少しだけ腰を浮かせて、そして顔を近づけた
目をパチクリさせるリトの唇を通過して、鼻先を掠めて、向かう先は額だ
ほんのりと熱で熱くなっている額に、唯は軽くキスをした
「え?」
「…早く治ってほしいから、おまじない。さっきみたいにバカなマネしないようによ。それと…」
「それと?」
「………………い…いろいろ行きたいところとかあるから…。その…映画とか…。だから
その……は…早く元気になって、デートに誘いなさいよね…」
ボソボソと話す唯の手に、リトは自分の手を重ねた
リトよりもずっと小さくて、白くて、そして温かい手
リトは両手で唯の手を握りしめて、ニッコリと笑った
「オレも! カゼ治ったら、古手川といろんなトコ行きたい! セリーヌに美柑にララに
モモにナナにみんな誘って!」
「……うん」
「その前に、古手川の行きたいトコ、二人で行こうな。見たい映画あるんだろ?」
「…うん」
唯は笑顔を浮かべた
それはリトでなくても、見る者をホッと安心させるような温かい春の様な笑顔だった
もちろん、そんな笑顔を間近で見てしまったリトは、あたふたと大慌てになってしまい
リトは思わず唯を抱きしめてしまった
「古手川っ!!」
「え?何…キャ!?」
それこそ目いっぱいに、力いっぱいに
両腕で、溢れる気持ちごと唯の体を抱きしめた
「ちょ…ちょ…ちょっと!? 何なのよ…! 急にどうしたのよ?」
「古手川っ!!」
リトは唯の名前を言うだけで、それ以上は何も言わなかった
ただ、ギュ~~~~~~っと唯の体を抱きしめる
「ゆ、結城くん? ちょ…いい加減っ…」
ギュ~~~~~~~~~~!!
「…も、もう、わかっ…わかったから! わかったから離して!」
なんて事を言ってしまう唯だが、リトと同じく、溢れる気持ちとこのドキドキをどうしたら
いいのかわからないままに、そっと両腕をリトに回した
しばらく抱き合っていると、息遣いに混じって違う音が聞こえてくる
トクン、トクン、トクン、トクン、と
心地良いとすら感じるリトの胸の鼓動が、唯に伝わる
唯は赤くなりながら、汗で濡れるリトのTシャツをキュッと握りしめた
(結城くんの匂い…。カゼを引いてても変わらないな…)
こんな時にそんな事を考えてしまう自分に心の中で「ハレンチな」と呟くと
唯はもう一度、最高の笑顔を浮かべたのだった
残念ながら、その笑顔はリトには見えない
もし見る事が出来たなら、風邪なんてどこかに吹っ飛んでいきそうなのに

そんな二人の様子を部屋のドアの前でこっそり伺っている者がいた
「やれやれ…」
「まうー?」
替えのシャツをそっと部屋の前に置くと、美柑はセリーヌを連れて静かに階段を下りていく
「…あの様子だと、明日にでも治りそうだね。ま、あのバカは治らなくても治ったフリをするんだろうけど」
実は子供の時からリトは、何度となく風邪を引いていた
けれども、決してその事を言わないどころか、何でもないフリを演じ続ける
心配させないために
それなのに、美柑が風邪を引いた時は、付きっきりで看病をする
明日、学校があろうとなかろうと、夜遅くまで、ずっと
「…ホントに変わらないんだから」
その事に少しうれしさを感じながら、美柑はキッチンのドアをくぐったのだった

その頃、リトの部屋では、ベッドの上で唯の看病が続いていた
「はい、あ~んして」
「あ~ん」
すっかり気を良くした唯は、スプーンを手にリトにお粥を食べさせている
「おいしい?」
「ああ。スゲーうまいぜ。古手川が作ったお粥」
「そ…そうなんだ」
本当にうれしそうに微笑むリトの顔を見ていると、見ているこちらまで思わず顔が緩んでしまう
リトのこの顔が見たくて、言葉が聞きたくて、あんなにも一生懸命に頑張ったのだから
美柑の頑張りもやっと報われた様だ
「もっと食べさせてくれよ。ほら、あ~ん」
「もぅ、慌てないの」
大口を開けて待っているリトに、唯はお粥にふーふーと息を吹きかけて、あ~ん、と食べさせてあげた
まだ少し熱いお粥に涙を浮かべそうになるけれど、リトはグッと我慢した
なぜなら唯がとっても幸せそうに微笑んでいるからだ
その光景を見ているだけで、胸の中が温かくなってくる
唯のたまに見せる笑顔には、なにか特別な効果があるのかもしれない
「ん、どうしたの? さっきからニヤニヤしっぱなしよ」
「別に何もねーよ」
「……本当かしら? どうせまたハレンチな事でも考えていたんじゃないの?」
疑り深くジト目で睨んでくる唯の視線すら心地良いと思えてしまう
リトはまた笑みを深くさせた
「……さすがにもう、カゼなんて吹っ飛んだかな」
「ん? ちょっとさっきから何なの? ブツブツ言って」
「そんな事より、おかわり。あーん」
「……もう」
リトは口に中に広がる幸せいっぱいの味を噛み締める
初めて食べる唯の料理は、とってもおいしい
初めての看病もとってもうれしい
唯がこうしてそばにいる事がとても幸せに感じる
「…ありがとな。古手川」
揚げ鶏をお皿に取り分ける唯の横顔に向かって、リトは万感の想いを込めてそう呟いたのだった

いつの間にか、窓の外の虫の音は、すっかり秋の音に変わっていた
もうじき秋が始まる