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「はぁ・・・何でこんなめんどくさいことやってんだろうな・・・」
リトは苦笑とともにため息を吐きながら、校門を通り抜ける。

何も1日の始まりである朝から、こんなことを言っているわけではない。
現在の時刻は午後4時20分。
夕日のオレンジが校舎一面を照らす中、テスト前期間のため誰一人として存在しないグラウンドを一人歩く。
向かう先は図書室―――――唯との勉強会だ。

唯との勉強会をめんどくさいとは何事だ、と唯ファンからの怒りの声が飛んできそうだが、
リトは勉強するのが嫌なわけでも、唯の教え方に不満があるわけでもない。
むしろリトは勉強が楽しくなってきてすらいるのだ。

質問をすると、唯は丁寧かつ的確にそれに答えてくれる。
さらに補足として様々な豆知識を、リトの頭脳がパンクしない程度に教えてくれるのだ。
そのうえで次に解くべき問題を指示し、考えさせるときはじっくりと考えさせる。
天才肌でどこか感覚的なララとは違う、勉強が嫌にならないように少しずつ引き込んでいくような教え方だ。
ビシビシいくと言われていたからには多少の罵声や叱責を覚悟していたリトだったが、
実際に教えてくれる唯は「面倒見の良い姉とはかくや」といった感じで、
実に穏やかに、物覚えの悪い自分にもわかりやすく指導してくれた。
リトはナルホドを連発し、8時近くなり司書が帰るように促すまで完全に引き込まれていた。


では、何がめんどくさいのか。それは勉強会2日目にまで遡る。

「わたしと二人きりで勉強してるって知られると、結城君いろいろと困るでしょ?///」
昼休み、突然唯にそう言われたのだ。
「あー、・・・いや、俺は・・・別に・・・」

とはいったものの、正直リトとしてもできれば知られたくはなかった。
教え方がうまいのももちろんだが、他の誰にも入ってきてほしくないほどに唯との勉強会は心地よかったのだ。
ララや春菜に対して負い目が全くないとは言えないのもまた事実ではあるが。

そうすると、ばれたら問題といえば問題である。
昨日はアニメに気を向かせることでララを帰らせることに成功したが、今日からはそうはいかない。
「だから、作戦を考えたわ」
「作戦?」

唯の作戦は次のようなものだった。
帰りのホームルームが終わったら唯はすぐに図書室に向かい、一つしかない学習室を確保する。
一方リトは友達の家で勉強するとララたちに説明し、一度学校を出る。
そして学校に人気がなくなるまで待ってから戻ってきて合流する。

「ちょっと大げさじゃないか?ばれたらばれたで、一緒に勉強すれば・・・」
そこまではしなくてもと思いリトは返したが、唯は無言のままだ。
頬を少し染めているが、リトから視線を外そうとはしない。
「結城君がそれでいいなら、別にいいけど・・・///」
口腔で溶けていくように小さくなっていく声。
いつものような、絶対に自分の意思を曲げない強い唯ではなかった。
ただ、そう言い終えた後、一瞬唯がとても寂しそうな表情をしたようにリトには見えた。
そしてその表情はリトの心からいつまでも離れなかった。
結局その日、6時間目終了直後にリトは作戦の決行を伝えたのだった。
(古手川、ひょっとして俺と二人きりがいいのかな///)
そんなことを考えていたリトはそこで唯の笑顔を期待していたのだが、
唯は表情を変えずに「ええ」と返してきただけだった。
ともかくリトはその日から作戦を決行し、自宅とは反対方向へ10分ほど歩いたところにある
小さな公園の土管の中で30~40分ほど時間を潰してから、周囲に気を払いながら学校へと戻ってくる。
火曜日からはじめ、金曜日の今日で4日目だ。
さすがにめんどくさくもなるが、今日でこんなことをすることもとりあえずはなくなるだろう。
そう考えるとそれが少し寂しく思えてしまい、リトはまた苦笑する。
「よしっ、今日も頑張りますか!」
リトは気持ちを盛り上げるために意図的に口に出すと図書室へと入っていった。

学習室では唯が準備万端といった様子で待っていた。
「遅い!まったく何やってるのよ、時間ないのに・・・」
いきなりやる気を挫く言われようだ。
(古手川サン、そりゃないんじゃ・・・)
と思っていると反論する間もなくルーズリーフが2枚差し出される。
「今日はこれからね。英語の小テスト、制限時間は1枚10分!」
「ち、ちょっと待て」
まだ筆箱も出してないっての。
「はじめっ!!」
リトは大慌てでシャープペンを取り出すと問題と格闘しはじめる。
小テストはもちろん唯のお手製だ。
1枚目が試験範囲の重要な単語と熟語の確認。2枚目は文法のチェックだ。
この勉強会でかなりレベルアップしたリトはほぼ詰まることなく問題を解いていく。
唯は時折リトの様子を確認しつつ、別のルーズリーフに文字を書き連ねている。
「1枚目終わった」
まだ7分程しか経っていない。
「きちんと見直しした?」
「オッケ」
「じゃあ、二枚目は今から10分ね」
「りょーかい!」
リトは再び整った文字列に意識を集中していく。
そして2枚目も制限時間に余裕を持って終了した。
「ふぃー」
充実感を感じながら長めに息を吐き出す。
手ごたえアリ、だ。
唯はさっそく採点を始めていた。
シュッ、シュッ、となるペンの音が心地よく感じる。
「凄いじゃない、結城君!!」
採点を終えた唯の声が弾む。
1枚目100点、2枚目90点。
わずか数日前に今のままなら赤点確実と唯に断言されたのだから、上出来といえる。
しかしリトは悔しそうだ。
「くっそー、全部あのカードにのってる問題だったのに・・・」

あのカードとは、土管に入っている間にも勉強できるようにと、唯が作ってくれた単語・文法カードのことだ。
唯は本当によく気がつくできた女の子だと、リトはつくづく感心した。
そして自分のために頑張ってくれている唯の為にもと思い、それこそ何度も見返して必死になって覚えたのである。
今日も土管の中できっちりと確認していただけに、余計に悔しい。
「でも、ちゃんと成果は出てるわ。何だかわたしも嬉しいな・・・」
そういって唯は口元を綻ばせる。
(っ!///)
リトはそれにドキドキしてしまう。
唯が見せているのは自然な表情だ。
だけどリトにとっては、それが特別なのだ。
今まで自分に向けられてきた表情は、どこか無理矢理なものだった。
それでも唯が美少女であることにリトは異論なかったが、
勉強会を始めて以来時折見せる自然な表情の破壊力は、これまでの比ではない。
どんどん唯に惹きつけられていく感じがしていた。

「さ、今日は世界史ね。覚えておくべきところを赤で書いて、カッコで囲ってあるから、
赤いシートを使って覚えてね。あ、分からないところは遠慮せず聞いていいから」
「お、おう・・・。サンキュ」


こんなコがなぜ自分にここまで親身になってくれるのか。
そしてそうしてくれることが、少し不安でもあった。

(古手川自身の勉強は大丈夫なのか?)

そうなのだ。
唯は毎日、前日の復習といっては小テストを作ってきてくれる。
さらに、覚えやすいようにカードを作ってくれたり、数学の公式をまとめたノートを作ってくれたりしている。
今日の世界史だって、相当な手間と時間がかかったはずだ。
それでいて図書室にいる間はリトに教えることを中心に考えてくれているので、
唯自身の勉強はそんなに進んでいないだろう。

「なあ、古手川」
「ん?どこかわからない?」
唯は嫌な顔一つせずすぐ反応してくれる。
「その・・・、大丈夫なのか?」
「?」
シャープペンを唇に軽く当て、キョトンとする唯。
(可愛い・・・じゃなくて!)
咳払いを一つ。

「自分の勉強。時間取れてるのか?」
リトは申し訳なさそうな顔でそう問う。
「・・・またそれ?」
「またって、大事なことだろ?」
唯はため息を吐くと苦笑いのような、バツの悪い表情になる。
リトは更に続ける。
「毎日俺のために、いろいろ作ってきてくれるのは凄く嬉しいんだ。
実際、自分で勉強するより格段にわかりやすいし、楽しいしさ。
でも、俺のために古手川が体調崩したり成績が悪くなったりするのは嫌なんだよ。
自分のこと、一番に考えてくれていいんだぜ?」
真摯な表情、嘘のない言葉。
普段はヌケているくせにこういうところがズルイと、唯は思う。
(結城君が心配してくれて嬉しい。でも・・・)

「大丈夫ったら大丈夫よ」
ついそっけなく返してしまう。

もちろんリトは納得していない。
唯がどういう性格か、リトだってそれなりには理解しているつもりだ。
「・・・」
無言の抗議。
すると唯が痺れを切らしたように今日始めてリトを睨み付けた。
「ちゃんと帰って勉強してるから平気なの!いいから早くナポレオンのことでも覚えなさい!///」
リトはまだ納得しかねている様子だったが、
そこまで言うなら、といった感じでホッチキスでとめられたルーズリーフに視線を戻す。


実際のところ、唯の睡眠時間は半分以下に減っていた。
8時頃までリトの勉強に付き合い、家に帰って食事をとればもう9時だ。
普段予習復習を始める時間が9時、終えるのが10時半から11時。
しかしさすがにテスト前だ。
予習復習に加え授業をしっかり聞いている唯だが、
完璧主義者でもあるため、最近は0時近くまで勉強している。
その後いつもならもう眠っている時間にお風呂に入り、リトへの「教材づくり」は1時頃からスタートする。
そして朝起きるのは決まって6時半。
だいたいの睡眠時間がご想像いただけるだろう。

しかし唯には不思議なほど疲れはなかった。
これまでも他人の何倍も規則正しく生きてきたが、これほど毎日が充実していると思えたことがあっただろうかと思うほどに。

一人になれば、リトのことばかりを考えてしまう。
それに付随して、ララのことや春菜のことも。
そうなると、とてもテスト勉強どころではなくなる。
今の唯にとっては、やるべきことに追われているくらいが丁度いいのだ。

ましてそのやるべきことが、好きな人の為ともなれば俄然やる気も出る。
リトは根が素直な分、打てば響く鐘のように教えたことをどんどん吸収してくれる。

(彼を今支えているのはララさんや西連寺さんではなく、わたし)
二人だけの秘密の時間を共有している感覚が、唯にはたまらなく嬉しかった。
笑顔とともに「ありがとう」を聞ければ、それだけで頑張れる。
リトに教えることは自身の復習にもなるし、唯にとって勉強会にマイナス面など一つもなかった。

リトは黙々と世界史の暗記に取り組んでいた。
わからないことがあったら聞けと言われているものの、ルーズリーフは分かりやすく色分けされており、
例によってごちゃごちゃしない程度に補足も書かれている。
細やかな心遣いはここでも健在で、質問する必要がないほどだった。

一段落ついたところでケータイで時刻を確認すると6時半だ。
どうやら2時間近くぶっ続けで暗記していたらしい。
この一週間、帰宅後も家で勉強しているうちに、集中力も高まってきているのかもしれない。
リトは座ったまま大きく両手を上げて伸びをすると、天井へと視線を向けたまま唯に声を掛ける。
「古手川、ちょっと休憩にしないか?」
「・・・」
反応がない。
今日は無視されるようなことをした覚えはないが・・・。
恐る恐る見ると、唯はどうやら机に突っ伏して眠ってしまったようだ。
いくら気力が充実していても、体力には限界というものがある。
さすがの唯も、自覚がないだけで疲れてはいるのだろう。

「はは・・・」
リトは柔らかく笑みを零す。
(自販機で温かいものでも買ってきてやるか)
席を立とうとすると、一枚の紙が目に入った。
身を乗り出すようにして確認してみる。

(・・・結城君ナルホドシート?なんだこりゃ?)
見ると今日までの日付の横にいくつかの正の字が並んでいる。
リトが一日に何度ナルホドと言ったかカウントしていたようだ。
(・・・こんなに声に出してたか?)
毎日正の字が2つ以上完成している。
つまり常に二桁ということだ。
唯がいつ寝てしまったのかはわからないが、今日もすでに正の字が一つ完成していた。
(何をしてるかと思えば・・・)
苦笑いのリトだが、そんな一面を可愛いなと思う。


知れば知るほどに、唯は普通の女の子だ。

そう、唯はリトにとって大切な女の子だ。
ただのクラスメートでも、口うるさい風紀委員でも、もはやない。
いつの間にか唯の事を恋愛対象としてみるようになっている自分がいた。
鼓動が速まっていくのを、妙に冷静に感じていた。


「ぅん・・・、結城くん・・・」
唯の安心しきったような寝言でリトの冷静さはあっという間に吹き飛ぶ。
気づけば無防備な寝顔が目の前にあった。

(俺のために毎日遅くまで頑張ってくれてるんだよな。
そしてお前はそれを、恩着せがましく言ったりしない。
絶対に隠し通そうと、バレバレな嘘をつくんだ)

心配すれば何でもないとそっけない態度をとって。
そのくせ自分は誰よりも周囲に気を使って。
俺が素直に喜ぶと少し恥ずかしそうにそっぽを向いて。
それをからかうとムキになって怒って。

確かに他人に厳しい面はあるかもしれない。でもそれ以上に自分に厳しくて、そして凄く優しい女の子なんだ・・・

唯に対する愛しさが、爆発的にこみ上げてくる。
すぐにでも抱きしめたい。  キスしたい・・・。

頭の片隅でわずかに残った理知的な自分が、やめろと警報を鳴らしている。
唯の意思が存在しえないキス。
しかしリトは、もう止まれなかった。

口紅などほとんど塗っていないだろうに、その唇は艶やかで、鮮やかなピンク色だった。
リトは蓮華の花に誘われたミツバチのように、唯に顔を近づけていった。


二人の前髪が触れるか触れないかの辺りまで来たときだ。
ゆっくりと唯の瞳が開かれた。
(!!)
ビックリしたのはリトのほうだった。
唯が目を開けたのは、まさにリトが目を閉じようとした瞬間だった。
二人の視線が、わずか数センチの距離で重なる。

ハレンチなっ!!
リトは唯の瞳を見つめたまま、突き飛ばされる自分を頭の中に描いていた。
しかし実際にはそうはならなかった。
そしてそうされた方が、まだマシだった。

唯は嫌がらない。
その瞳は、まるでリトなど目に入っていないかのように澄んでいた。

(古手川、嫌がってない・・・)
無言でいることを肯定と判断し、目を閉じて唯の唇に触れようとした、次の瞬間―――


「どうしてこんなことするの?」

居眠りしているときによく起きる体の痙攣以上の震えが、リトを襲った。
唯の声は、今まできいたことがないほど冷たかった。
わずかにかかった唯の吐息は、氷でも含んでいるかのように冷えきっていた。

リトは何も言葉を返せないでいた。
唯の表情は何も教えてくれなかったから。
悦びも、怒りも、悲しみも、何一つ表に出さず、唯はただ聞いてくる。


「古手川・・・、その、ゴメン・・・」
リトは掠れた声で謝罪する。
急に激しい息苦しさに襲われたのは、自分でも気づいていたからかもしれない。
答えを出せないまま唯に触れようとした、愚かさに。

リトは頭を下げたまま顔を上げられないでいた。
暫しの間の後、唯の声が静かに部屋の中に響いた。
「結城君は・・・買い被りすぎよ」
感情の伴わない声。
「わたしは、結城君が考えているようないいコじゃないの」
「・・・古手川?」
「わたしは、嫌な女なの」
「そんなことねーよ!お前にそんなこと言ってほしくない!
お前が凄く頑張ってること、俺は知ってる」
何で怒られるはずの自分が声を荒げているのだろうか。
(言わせてるのは俺じゃねーか・・・)
そう思いながらも、言わずにはいられなかった。
思わず顔を上げ、唯を見つめてしまっていた。

数秒後、唯の顔に宿ったものは寂しげな笑顔だった。


「じゃあ結城君は、わたしを一番にしてくれるの?」


声には諦めのような色が混ざっていた。
リトはその言葉に、声に、心臓を鷲掴みにされた。
数分前とは全く違う、鼓動の高まり。


「いつもあなたのことばかり考えてるの。
結城君、今何してるかな・・・勉強頑張ってるかなって」
唯はそっとリトに微笑む。
微笑んでくれたのは何度目だろうか。
どうしてこんなに胸が痛むんだろうか。

唯の言葉には、少し熱が篭り始めていた。
「でもダメなんだ・・・。
すぐに頭の中グチャグチャになっちゃうの。
今ララさんと一緒にいるのかな、それとも西連寺さんのこと思ってるのかな」
口調はゆっくりめなのに、何かにせかされているかのように唯は話し続ける。
「笑っちゃうでしょ。
いつもあなたを怒ってばかりなのに、困らせてばかりなのに、
あなたのことを想ってララさんや西連寺さんに嫉妬してるの。
いつもあなたと一緒にいられるララさんに。
あなたに想われている、西連寺さんに」


リトは掛ける言葉が見当たらなかった。

(俺は、大馬鹿野郎だ・・・)

最近は、もしかしたらという気持ちがなかったわけではない。
少なくとも自分が、唯に対して好意を持っていることも自覚していた。
そしていつか、この関係に変化が訪れうることも、わかっていた。
なぜなら唯は、逃げるような娘じゃないから。
自分の気持ちと真剣に向き合うやつだから。

(それなのに、俺は逃げた・・・)

唯との時間があまりにも心地よくて。
今の関係を壊したくなくて。
いつまでもぬるま湯に浸っていようとしたんだ。

「ごめんね・・・、また困らせちゃったね・・・」
唯の声はもうほとんどリトには聞こえていなかった。
リトは右拳を硬く握り締めた。
掌に爪が食い込み、血が出るほどに。
何でお前が謝るんだよ。
そう言いたかった。
お前が好きだと伝えたかった。

そして、そうできない自分が情けなくて仕方なかった。


唯には全て見抜かれていた。
リトが、答えを口にできないことを。
不器用で、真正直で、優柔不断な自分を―――


「ごめん。疲れちゃったみたいだから、今日はもう帰るわ」
唯はそう言って素早く身支度を終えると、静かに学習室を出て行った。

ただ立ちすくむことしかできない。
左手にはナルホドチェックシートが握られていた。
それを顔の前に持ってきてぼんやりと眺める。
すると、裏にも何か書かれていることに気づいて、裏返してみる。

”一週間お疲れ様。テスト頑張ろうね”

黒のボールペンで書かれた、唯らしい飾り気のない文字。
それを見た瞬間、抑えていたものが溢れ出した。
リトは必死に歯を食いしばり、声を押し殺して泣いた。


涙は走っても走っても止まらなかった。
意地を張るのは、学習室を出たところまでが精一杯だった。
唯は上履きのままだった。
図書室を走り抜け、履き替えることもせずに飛び出して、でたらめに路地を走って。
息が苦しいのは走り続けてきたからか、それとも嗚咽のためか。
気づけば公園に来ていた。
唯は知らないが、リトが身を隠すために使っていた公園だ。
リトがいつも入っていた土管の前に、唯はしゃがみ込む。
どんよりとした雲がやけに近く感じ、霧雨が唯の全身を濡らしていた。

あの時唯は夢を見ていた。

二人だけの一時。
リトは何事でもないかのように自然にその手を唯の手に重ね、笑いかける。
会話など何もなくても、互いを感じているだけでよかった。
唯がキスを求めて少し顔を持ち上げると、口付けが優しく降り注いだ。
幸せだった。
夢だと分かっていても。
口付けが終わると、リトは消えてしまう。
ここ数日の、いつものことだった。

唯の意識はゆっくりと覚醒する。
目の前にリトの顔があった。
現実には絶対に起こりえない出来事。
なぜならリトは自分のことを恋愛対象としてみていないと思っていたから。

起こりえないことが起こったというのに、唯は冷静だった。
いや、冷静というのとも少し違う。
待ち望んでいたはずの行為なのに、沸き起こったものは驚きでも歓喜でもなかった。
沸き起こったのは、疑問。
まるで水面に一滴、水を落としたようにそれは広がっていった。


―――どうしてこんなことするの?―――

計算でも何でもない、自然に出た言葉だった。
ただ、純粋に知りたかった。
他に好きな人がいるはずのリトがなぜ、自分にキスしようとしたのかを。
それだけのはずだったのに・・・。


―――じゃあ結城君は、わたしを一番にしてくれるの?―――

求めてしまった。
彼の一番を。
そうしてしまえば、今のささやかな幸せさえも失うことになるとわかっていたのに。
大切な友人を裏切ることにもなってしまうのに。
答えを焦る必要などなかった。
唯が「問題」を出したのはわずか4日前なのだから。
でも、わかっていたけど止められなかった。
自分の気持ちに、もう嘘はつけなかった。つきたくなかった。

そして自分と全く同じ理由から、彼は私に「答え」を返したんだ・・・

雨は強くなることはなく、やむこともなかった。
唯は鞄を胸に抱えてしゃがみ込んだままだ。
「・・・結城君っ・・・」
今も愛しい人の名を、口に出してみる。
いつもは嫌でも浮かんでくる笑顔のリトが、今の唯にはぼやけて見えなかった。