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11月20日(火) 学問における批判について
「学問をやるには批判的精神が必要である。」これは学者はよく言うことである。様々な事象についてそのまま受け入れるのではなく、あくまでそれを批判的に捉え、主体的に考察する。確かにその通りだ。歴史、特に科学の発展を見れば分かるように、人々は幾度なく当時の「常識」を打ち破ってきた。それが現代への進化へ繋がっていると一般的にはいえるだろうし、ある地点に安住することはそれ以上の進歩をしないことを意味するので、その意味では批判的精神は大切であろう。
ただ、ここで私は一つ注意すべき点があると指摘したい。ある事象を批判するということは、その事象がその批判者にとって望ましくない方向に進んでいることを示唆するものであるということだ。それを煎じ詰めると批判するという行為は望ましい、あるべき方向が定まっていることを前提とするのであるということになる。これは果たして何を意味するか。
当会の方針に立てば、現代世界を考察する視点は様々ある。第12回会合において発表した法学的視点も然りだ。そして、それらが絶対的正義を持つとはいえないということも然りだろう。絶対的であるならば、複数の視点は本来的に成り立ちえない。ここでいう視点は前の段落でいうあるべき方向が定まることである。
以上の点を踏まえると、批判ということにもより注意を払う必要があるといえる。ある事象を批判するということは、その事象が普遍的に何かマイナスの価値を持つ、もしくは他によりプラスの価値を持ちうるということを一概に意味するわけではなく、批判者の視点と比べた相対的な評価にすぎない。そして、その批判自体の価値を計るには批判者の根底の価値観を考察せねばならない。我々は日常社会で取り巻く批判的見解について、その批判者の価値観にまで考えをめぐらさないと、いつのまにかある価値観に引きずられているかもしれない。それは学問においても然りだ。教授だからといって絶対視する必要は毛頭ない。基礎的教養のある大学生であるならば、自立して判断を下すことはそれほど難しいことではないだろう。
コメントはいかにどうぞ。
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4月17日(木) ハートと行動
我々は何らかの理想を抱く。それは理想というほど崇高なものではないかもしれないが、少なくとも現状と比したときによりプラスになるべき部分があると人々は思うだろう。それを今回は「ハート」と俗っぽいが定義することにする。
現実と自分の追い求める理想が異なるとき、人はどうするか。その違いに絶望するか。変えようと劇的な活動家に転ずるか。それとも、事態を静観しつつ、好機を待つか。いずれにしろ、自分が人生からドロップアウトしない限り、違いには接しなければいけないこととなる。そうしたときにどう行動するか。これは「ハート」のいかんに関わらず、行動のやり方に関わってくるものである。例えば、自分の「ハート」を相手に説得するにもコミュニケーションという行動に出る。行動次第によって自分の「ハート」が現実に実現されるかどうかが決まってくるのである。
そうすると、我々は「ハート」を形作るだけではなく、行動をどうとっていくかということを考えなければいけないということになる。今、私は「どう行動すれば、仲間達が抱く「ハート」が実現できるのか」ということを仲間で共有できるようにある程度の体系化を試みようとしている。是非、皆さんも考えてみてはどうだろうか。
11月20日(火) 学問における批判について
「学問をやるには批判的精神が必要である。」これは学者はよく言うことである。様々な事象についてそのまま受け入れるのではなく、あくまでそれを批判的に捉え、主体的に考察する。確かにその通りだ。歴史、特に科学の発展を見れば分かるように、人々は幾度なく当時の「常識」を打ち破ってきた。それが現代への進化へ繋がっていると一般的にはいえるだろうし、ある地点に安住することはそれ以上の進歩をしないことを意味するので、その意味では批判的精神は大切であろう。
ただ、ここで私は一つ注意すべき点があると指摘したい。ある事象を批判するということは、その事象がその批判者にとって望ましくない方向に進んでいることを示唆するものであるということだ。それを煎じ詰めると批判するという行為は望ましい、あるべき方向が定まっていることを前提とするのであるということになる。これは果たして何を意味するか。
当会の方針に立てば、現代世界を考察する視点は様々ある。第12回会合において発表した法学的視点も然りだ。そして、それらが絶対的正義を持つとはいえないということも然りだろう。絶対的であるならば、複数の視点は本来的に成り立ちえない。ここでいう視点は前の段落でいうあるべき方向が定まることである。
以上の点を踏まえると、批判ということにもより注意を払う必要があるといえる。ある事象を批判するということは、その事象が普遍的に何かマイナスの価値を持つ、もしくは他によりプラスの価値を持ちうるということを一概に意味するわけではなく、批判者の視点と比べた相対的な評価にすぎない。そして、その批判自体の価値を計るには批判者の根底の価値観を考察せねばならない。我々は日常社会で取り巻く批判的見解について、その批判者の価値観にまで考えをめぐらさないと、いつのまにかある価値観に引きずられているかもしれない。それは学問においても然りだ。教授だからといって絶対視する必要は毛頭ない。基礎的教養のある大学生であるならば、自立して判断を下すことはそれほど難しいことではないだろう。
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