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No.03

大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ )

名奉行の名裁判

内容

 越後屋に弥五郎という者がいた。
 ある日、白木綿を背負って本所中の郷を通りかかったところ、猛暑の頃であったので、石地蔵がある所で休息し、思わず寝込んでしまった。夕刻になって目をさましてみると、木綿の包みがなくなっていた。
 方々探してみたが見つからず、越後屋に戻ってもかえって怪しまれる始末。そこで南町奉行所の大岡越前守に訴え出た。初めは取り上げられなかったが、三日間食事もとらずに門前を動かなかったので、役人が大岡越前に申し上げた。
 大岡は、「地蔵菩薩は国土を守る仏なので、安心だと思って居眠りしたために、荷物をとられたと思われる。盗まれるのを知らないとは、仏であっても見過ごせない。吟味のため、地蔵を召し捕れ」と命じた。
 この事が評判になり、人々が見守る中、役人が六尺ばかりの石地蔵を召し捕りに来たが、見物人にも手伝わせて地蔵を縄で縛り、南町奉行所へ運んで行った。「地蔵が盗みをしたので、大岡様のお調べがあるぞ」と言うのを聞いて、奉行所の大門の中まで皆ついて入った。地蔵は白州に下ろされ、見物人は山のように集まった。
 そこへ大岡が出て来て調べが始まるが、見物人を見て、「天下の奉行所へ勝手に入るとは不届き者である。一人も返すな、門を閉じよ」と命じて一人も出さずに留め置いて帳面に記録したところ五百人もいた。
 十数日後、大岡は白木綿一反ずつの過料を払う事で人々を釈放した。その後、大岡は弥五郎を呼び、集めた木綿の中に盗まれた物はないか調べさせた所、一旦出てきた。そこでその木綿を納めた者を呼んで売主を辿っていって盗賊を捕まえる事が出来た。
 その後、地蔵を元の所へ安置させた。以後、その地蔵は願を掛ける時には縄で縛り、願が叶えば解くという、「縛られ地蔵」として有名になった。

 霊岸島長崎町に畳屋三郎兵衛という正直者がいた。
 師走の頃、三両を借りて手紙に包んで帰ってみると、金を包みごと落としている事に気付いた。三郎兵衛はがっかりしたが、このうえは稼ぐより他に仕方がないと諦めて、夜も寝ないで働いた。
 一方、小伝馬町に建具屋長十郎という情け深い者がいた。
 仕事の帰りに、土手に手紙に包まれた小判三枚を見つけて、手紙の宛名「畳屋三郎兵衛様」を手掛かりにして方々の畳屋を訪ね回った。
 これをみて家族の者は笑いながら、「世間では金を拾って得をしたと喜ぶのに、あなたはかえって日を費やし、商売もしないで訪ね歩くのは本当に無駄な骨折り損ですね」と言うが長十郎は耳を貸さない。
 四日目になってやっと三郎兵衛を探し当てた。しかし三郎兵衛は拾う者の果報者、と言って受け取らない。そこで長十郎も四日もかけて探し回ったのに受け取らないとはけしからんと言って、とうとう大喧嘩を始めてしまった。近所の者たちが間に入るが解決できない。それで大岡越前守へ解決を願い出た。
 大岡も「さてさて珍しい事件だ」と思われ、両人を呼んで意見を聞いた。三郎兵衛に何故受け取らないのか尋ねると、三郎兵衛は、「私は金を落とすほどの者。元より私に徳がないのです。また長十郎は四日も仕事を休んで探し歩いたので、その金を返してしまえば、かえって拾い主が損になります。だから受け取れないのです」と申し上げた。
 そこで大岡は「このような裁判は初めてで、私も喜ばしく思う。そこで改めて双方二両ずつ公儀より渡す事にする」と申し渡したところ、両人の者は、「三両拾って二両ずつ頂くと一両足りませんが」と尋ねた。大岡は「不足の一両は喜びの余りこの大岡が出そう。長十郎は三両拾って二両取り、三郎兵衛は三両落として二両取るので双方一両損。私も一両損」と答えた。
 世に有名な一両損のお裁きである。

出展

大岡政談(江戸中期)