うっすらと目を開ける。

 なんということはない、何千、何万。あるいはそれ以上もの回数繰り返した行為。
 そして目を開けた先に広がる光景も、もう何千、何万。あるいはそれ以上もの回数見続け
た同じ光景。そして、これからもずっと見続ける光景。
 青色の世界。それが唯一の光源によって薄暗く照らされた、私の世界。
 この世界に絶えず響く機械の重低音と、気泡が下から上へと移動する音によって、ここに
は静寂という概念が存在しない。ただそれと同時に、とても長い間ずっと聞き続けた結果、
それを音として認識しなくなった、静寂の世界。
 息をするとゴボリと口から気泡がこぼれ出て、そのまま上へと浮き上がる。
 気泡の行方を見届けず、私は青色の世界をじっと見つめる。
 なにも動かない、なにも変わらない世界。
 こうしていると、自分と世界との境目がどんどんと曖昧になっていく。自分という存在が
世界に溶けて消えていく。その不思議な感覚は、寂しくもあり、同時にとても安らかな気
分になれた。
 だけど、これは、なんだろう。
 胸の中にふらりと灯った不思議な感覚。いつも感じていたものとはまた違う奇妙な気分。
寂しさでもなく、安らぎとも少し違う。気持ちの高鳴り。気分の高揚。
 もう一度だけ視界に意識を戻す。
 誰もいない暗い部屋。
 何も変わらない世界で、私は再び目を閉じる。
 暗い世界の中で、世界との境目が曖昧になっていた『自分』という存在が再び確立してい
く。あの不思議な感覚も、確立していくにしたがってどんどんと薄くなっていった。これも
いつものこと。そしてこれからもきっと繰り返されること。
 でも、これは。なんでだろう。
 胸の中に灯った不思議な感覚は、いつまで経っても消えることはなかった。
 なにかが始まろうとしているのだろうか。そして私は……それをどのように感じているの
だろうか。
 徐々に混濁していく意識の中で、私は一言だけ呟いた。
 
「待っています」
 
 言葉は、ゴボリと気泡となって水の中に消えていった。
 
 
「……ん?」
 誰かに呼ばれた気がして、いままで寝そべっていた場所からむくりと半身だけ起こして辺
りを見回した。だが、周りを見てもそれらしき人はいない。
 そもそもこんな所に人なんていたらおかしいだろう。ちなみにそんな理由から俺は昼寝に
愛用しているのだが、安眠中に邪魔が入らないというのは素敵なことだ。
 気のせいか?と首を捻り、まぁ別にいいかという結論を出して、俺は着ている黒いコート
にシワがよるのも気にせずに再び民家の屋根の上で横になった。
「まぁいいや。寝よ」
 今日の天気は雲ひとつない晴天。日差しは温かいが強烈すぎず、昼寝には絶好の環境だ。
最高だ。こんな日に昼寝をしないなんてとんでもない。教会の連中みたいに言うならこれ
もアルティア様のお導きってやつだろう。と教会関係者が聞いたら激昂しかねないことを
適当に思いながら寝る位置を調整する。
 これが真夏になると強烈な直射日光にむせ返るような熱気、そしてべたつくような湿気と
どこからともなく湧いてくる変な羽虫などで大変に不快な目を見るはめになるのだが、ま
ぁその時はその時。また別の場所に移動すればいいだけの話なので無問題だ。
「そんなことより睡眠、睡眠」
 とくに最近はあまりゆっくりと寝る機会がなかったのでその分までしっかり休もう。そう
思いながら瞼を閉じると、さっそく睡魔が襲いかかって来た。無論その襲撃に抵抗する理
由なんてない俺は、早々に降伏してしまおうとしたのだが―――。
「―――?」
「……うん?」
 ふと風に乗って流れてきた声。まだかなり距離があるので内容は聞き取れないが、とても
聞き覚えがある。というか間違いない。そしてそれは安眠終了を告げる知らせであり、現
在もっとも聞きたくない声だった。ああ、反撃の狼煙が上げられてしまった。睡魔軍の兵
士たちがどんどんと蹴散らされていく。睡魔め、成敗してくれる!うわぁ、やめてくれぇ!
「――イ―?ラ――?」
 どんどんと近くなってくる声に、俺は陰鬱な気分になって溜息をついた。睡魔軍はとうの
昔に壊滅状態だ。捕虜?いりませんよ。邪魔ですし。おのれ反乱軍、貴様は鬼か。
 中途半端に睡眠を妨害された重い体を起して屋根の上から見下ろすと、遠くで見覚えのあ
る少女が辺りを見回しながらこちらの方へ歩いてくるのが見えた。肩まであるライトブラ
ウンの髪が、陽の光を受けてキラキラと金色に輝いている。ちなみにそのうえにピンと備
えられているアホ毛は、今日も元気にピコピコと動いていた。あいつとは結構ながい付き
合いだが、未だにその原理がわからない。
 俺はもう一度だけ軽く息をつくと、しぶしぶとだが屋根の縁に手をかけて下へと降りた。
近くを偶然通り過ぎていた通行人が数人、一瞬ぎょっとした顔をするがそれらを無視して
少女の方へと歩いて行くと、少女もこちらに気づいたようで手を振りながら走ってきた。
 あっ、おい馬鹿。そんなに走ると……。
 と、口にしようと思う間もなく、少女は唐突になにもないはずの地面で躓いてべちーんと
豪快にすっ転んだ。……顔面から。
 わずかに頭痛を覚えながらも、俺は何事だと注視する人々の間を縫ってその視線の中心で
鼻を押さえ悶絶している少女に手を貸した。
「まったく、なにをしてるんだよティラ」
 声に反応して目に涙を滲ませたまま顔を上げる少女。
 顔は―――まぁ悪くはないだろう。童顔にすっきりとした顎。ちいさな唇はふっくらとし
た桜色で、前髪から覗く大きな青い瞳には柔和な光が宿っている。
 魔術師風の衣装に身を包み、その上から白い外套を羽織った少女―――ティラは、俺の姿
を目にするなり、にこーっと陽だまりのような笑顔を浮かべた。
「あ、ライト。探したんだよー」
「探したんだよー。じゃねえよ。豪快に道の真ん中ですっ転びやがって。気をつけろって
いつも言ってるだろ」
 とりあえず怪我らしい怪我がないのを確認して(鼻や額が若干赤かったが)、立ち上がらせ
ながらそう言うと、ティラは気恥ずかしそうに頬を赤らめた。こいつはドジなのかぼーっ
としているのかわからないが、平時にはよく転ぶ。いつでもどこでも転べるというのは、
もう一種の才能なのではないかと最近思い始めたくらいだ。
「まぁいいや。それで?なんで俺を探してたんだ?」
 せっかく昼寝してたのに。と心の中で愚痴りながらそう聞くと、ティラはにこにこしなが
ら言った。
「えへへー。実はさっき市でいい物を買ったから、ライトにも見て欲しくて」
「へぇ?」
 ティラの話を聞いてわずかに関心を示す。街のところどころでやっている市場は、商人だ
けでなく普通の人々にも開放されており誰でも露店を開くことができる。無論、支援士や
冒険者などもよく物を売っていたりするので、普通の店では買えないような雑多なものが
溢れていて、ガラクタなども多いが中には掘り出し物なども眠っていたりするのだ。そう
いったものを探すのもまた市場の醍醐味なだけあって、ティラが自慢げに見せようとする
ものにも興味があった。
「で、なんだよ?その見せたい物って」
「ええと、ちょっと待ってね」
 そう言ってごそごそと肩から下げた鞄の中を漁っているのを、少し期待を込めた目で見て
いると、お目当ての物が見つかったのかそれを鞄から取り出してこちらに見せた。
「じゃーん!」
「なん……っ!?」
 そう言ってティラが掲げたモノを見て、俺は絶句した。そして次に感じたのは頭痛だ。
 ティラが掲げたそれは、10センチほどの長さの鉄製の鍵で、中心の軸となる棒にそれより
も細い鉄棒を何本か突き刺した……いかにも「手作りです!」と言わんばかりの代物だっ
たからだ。
 しかもご丁寧に値札まで付いており、チラリと見たそれには、思わず何回も値段を確認し
てしまったほどの信じられない額が書かれていた。
 つまり、こんなガラクタに払うにはありえないくらいの高い値段だ。
 ……何かが切れる音が頭から聞こえた。
 俺は自慢げに鍵を見せるティラに向かって、「ちょっと頭さげろ」と笑顔で言うと、きょと
んとしながらも大人しくそれに応じて頭を下げたティラの脳天に、握り固めた拳骨を叩き
込んだ。
「こんのアホ娘がぁあああああああ!!」
「痛ったぁああああああああああ!?」
 怒号と悲鳴と鈍い音が、重なって街中に響く。
 ちなみに市場で購入した品は基本的に返品不可だ。騙す方も騙す方だが、騙された奴が悪
いというのが市場では暗黙の了解となっているので、買ってから後悔しても潔く諦めるし
かない。
 とは言っても、自分の知らぬところで大金を捨てるような真似をされて「はいそうですか。
なら仕方ないですね」などと言えるはずがない。俺は蔑視100%の目で頭を押さえてぷるぷ
るうずくまるティラを睨みつけた。
「さてティラさんよ。詳しい話を聞かせてもらおうか?」
 尋問口調で問う俺に、未だ現状が把握できずに座り込んだままのティラが困惑した上目づ
かいでこちらを見る。
「え…えっと…?しょ、詳細とは何でしょうか……?」
「そんなの決まってるだろ?それがどういう鍵なのかと、なんでそんなガラクタを売りつ
けられる羽目になったのかを俺は聞きたいんだ」
 ガラクタ。と言われてぎょっとしながら手の中の物を見るティラに、俺は催促するように
睨みつける。それに気づいたティラは引きつった笑顔で答えた。
「え…えっと…。これは何でも宝箱を開けるための鍵だそうで、まだ開けられていないか
ら箱の中には宝物があるって……」
「……」
 無言のままに俺は深い溜息とともに頭をがしがしと掻く。
 手元に鍵があって、宝箱の場所も中身の有無も知っているはずの売人が箱の中に入ってい
るはずの物を回収せずに鍵だけを売るはずがないだろう。そんな売り文句、今時こどもで
も騙されない。
 そんな怒り心頭な俺を見たティラは、慌てたように鞄の中を漁って今度は紙のようなもの
を引っ張り出して矢継ぎ早に言った。
「た、宝のある地図も貰いました!」
 一応その地図を受け取るが、正直こちらも望み薄だろう。宝の地図というものはその殆ど
が偽物。万が一本物だったとしても、冒険者が流行ってからもう早20年は経つし、それ以
前にも冒険者というのは割と多かったのだ。もはや大陸に点在するダンジョンですら、前
人未到の深部くらいにしか宝の存在する可能性はないと言われている。そんなものはとっ
くの昔に誰かに先を越されているだろう。
 いらない物の処分に利用されたな。と思いながらざっと軽く地図を眺めると、なるほどい
かにもな感じの地図だ。結構古いのか紙自体が黄ばみ、擦り切れている。その上に宝の在
り処と思われる×印や、インクが滲んで読めない文字などが描かれていた。
 まぁ、今の時代古く見せた偽物の地図など珍しくもないので、やはり望み薄だろう。文字
が読めないのもどうせこの地図の仕様だ。
 ―――さて。
「……で、ティラ」
「は、はぃい!」
 温度のない声に、正座したままティラが悲鳴にも似た滅茶苦茶うわずった声をあげる。
「お前は、この鍵を、いくらで買った?」
 一句一句区切りながらティラが持っている鍵を指さす。
「え、えっと。値段ならここに書いて……」
「俺は、お前の口から、直接、聞きたいんだ」
「…………ッ!?」
 顔面蒼白にしたティラの体が、痙攣したようにがたがた震えだす。
 だが容赦はしない。再び催促するように睨みつけると、やがて観念したように俺から視線
を逸らし、虫の鳴くようなか細い声で呟いた。
「な…」
「な?」
「な、7万5000フィズ……」
 
 …………。
 
 気まずい沈黙が二人の間で流れる。
 一方はまるでその言葉を口の中で吟味するように青空を仰ぎ、もう片方はまるで判決を待
つ罪人のように俯く。
 空を仰いでいた俺は、深い深い溜息を吐きながら視線を戻すと、いまにも泣きそうな目で
こちらを見ている少女に向かってサワヤカに笑いかけた。
「うん。やっぱりもう一発殴らせろ」
「ごめんなさ――――――ッ!!?」
 
 謝罪の言葉は、鈍い打撲音と悲鳴にかき消された。
 
 
最終更新:2011年10月13日 19:42