殷の太師  ◆Wv2FAxNIf.



 もしもこれが“今”でなければ、別の道があっただろう。

 十天君が裏切る前なら。
 或いは黄飛虎が殷を離反する前なら。
 他者に強要されて殺し合うという儀式自体を、彼のプライドが許さなかった。

 “今”は、手段を選ばない。
 殷があればいい。
 殷さえあればいい。
 殷だけがあればいい。
 殷の為なら、弱者の血で手が汚れようとも構わない。

 十天君の空間宝貝によって閉じ込められた四ヶ月間。
 結局自力で脱出できなかったその期間のことは、記憶に新しい。
 閉じ込められるという意味では今回も全く同じ仕打ちであり、それが一層の焦りを生んだ。

 だから“今”の聞仲は、迷わない。


 砂塵が舞い、視界が悪くなった市街地でもう一度、鞭が空気を掻き回す。
 それは軽く振るわれただけで辺りを縦横無尽に疾走し、風圧で土煙を吹き飛ばした。
 スーパー宝貝が一つ、禁鞭によって破壊された市街の姿が露わになる。

 被害の範囲は半径数百メートルに及び、建物の外壁には巨大な獣の爪で抉られたような傷が無数に刻まれている。
 舗装された道路上に動く死体たちの姿はなく、血痕と肉片を残すばかりだった。
 そんな地獄のような光景を作り出した張本人は、普段と変わらない険しい表情のまま、上空から街を見下ろしていた。

 殷の太師、聞仲。
 三百年にわたって王朝を見守ってきた、仙人界でも屈指の実力を持つ道士である。
 儀式に参加する二十人の中に聞仲に及ぶ者はおらず、彼自身にもその自覚と自信があった。
 その聞仲が、厄介だと心中で毒づく。
 聞仲の視線の先にいるのは、禁鞭の射程を逃れた死体の群れである。

 死体の群れは蠢くばかりで、聞仲が破壊した市街に入ってくることはなかった。
 聞仲を警戒し、観察している。
 知恵があり、意志がある。
 闇雲に動き回っているだけに見えた死体たちはその実、明確に意志統一されていた。
 加えて、一体一体は弱くとも、街全域から排除するには街そのものを潰す必要がある。
 聞仲が仕える相手・紂王の所在が分からない以上、そのような大規模な破壊は望ましくない。
 故に聞仲は、彼らを厄介と評したのであった。
 実力では他を圧倒していても、一筋縄ではいきそうにない。

 状況が膠着したのを見て、聞仲は死体の群れについて一旦捨て置くことにした。
 別の問題に片をつけるべく、霊獣黒麒麟に命じて高度を下げる。
 地上に待たせていた相手は少年ではあったが、最低限の礼儀として聞仲自ら地面に降り立った。

「もう一度問おう。
 〈竜〉について知っていることを話せ。
 話す気がないならそれもいいだろう」

 答えないなら、或いは何も知らないなら、ここで殺す。
 暗にそう示して、改めて少年を見下ろす。
 白い頭巾に白い着物、そしてあの〈竜〉のように赤い瞳を持つ少年だった。
 禁鞭の威力を間近で目にしたためか、震えている。
 手足は触れれば折れそうなほどに細く、鍛えられているとはいえない。
 死体の群れに襲われて殺されかけていたことからも、戦闘能力はほぼ皆無と見ていいだろう。

 しかし世界の在り方を決めるような儀式に不釣り合い――とは、思わない。
 仙道が扱うものとはまた別の力を、確かに感じさせる少年だった。

「あの……」
「聞仲。殷の太師だ」
「聞仲……さん。
 僕は忌ブキっていいます。
 その、ありがとうございました」
「……ふん。
 おまえを助けようとしたのではない」

 忌ブキを助けたのは、偏に彼の着物の色が紂王の正装のものと似通っていたからだ。
 遠目からでも背格好の違いは見て取れたものの、紂王の身に万一のことがあってはならないと、禁鞭を振るったのだった。

「答えるのか、否か。
 私には時間がない」

 再度、忌ブキに返答を求める。
 焦りがあった。
 聞仲が、そして紂王が殷から切り離された今の状況は、考え得る限りで最悪のものだったからだ。

 仙女妲己によって乱され滅びかけた殷は、聞仲の奮闘の甲斐もあって持ち直しつつある。
 しかし聞仲と紂王が不在の今、敵国の周が動く。妲己が動く。
 策士家の妲己に至っては、この儀式を裏で操っている可能性すらある。
 国を空けている場合ではなく、一刻も早く殷に戻る必要があるのだ。
 そのためなら相手が仙道でなかろうと、女子供であろうと、打ち据える覚悟はとうにできている。

 対する忌ブキは聞仲に威圧され、震えが止まらなくなっているようだった。
 だが膝を折ることはなく、逃げる気配もない。
 退けば死ぬことは知っているらしい。

「……その前に教えて下さい。
 聞仲さんは……ここに呼ばれた人たちを、殺せるんですか」
「可能だ」

 もつれそうな舌で声を絞り出した忌ブキに対し、聞仲の返答は簡潔にして明瞭。
 聞仲には明確な優先順位があり、第一としているのが殷である。
 それよりも上か下かというだけの問いに、迷いは生じない。

「私は殷に帰還する。
 そのために必要だというのなら、何でもしよう」
「〈竜〉の力は欲しくないんですか?」
「興味はない」

 これもまた、明瞭。
 聞仲にとって〈赤の竜〉は障害の一つでしかない。

「国の統治も邪魔者の排除も、私の力だけで事足りる。
 だが〈竜〉が周の手に渡るようなら手を打たねばならん」

 民は、時代は、歴史は、周に味方している。
 それを承知の上で、聞仲は殷を存続させるべく動いている。
 しかし周が世界を変えるほどの力を手にすれば、聞仲の手でも流れを止められなくなるだろう。
 聞仲が危惧するのはその一点であり、殷に干渉さえされなければ、〈竜〉の力が何に使われようと構わなかった。
 そうした聞仲の返答を得た忌ブキはしばし考える素振りを見せ、やがて改めて口を開いた。

「……僕は〈喰らい姫〉のことも〈赤の竜〉のことも知っています。
 多分、呼び出された二十人の中で一番〈竜〉に近しい。
 僕の皇統種としての能力も〈竜〉に関係しています」
「ならば――」
「条件が、あります」

 言を遮られ、聞仲が眉を顰める。
 不快というより、意外だった。
 この少年に、自分を相手に交渉を持ちかけるだけの強かさがあるとは思っていなかったのだ。
 もっとも、それだけ必死だったというだけなのかも知れないが。

「あなたになら、僕が知っていることを全部話したっていい。
 力もあなたのためだけに使う。
 その代わり――――」


 聞仲は黒龍騎士をも超える力を持っている。
 犠牲を厭わない。
 〈竜〉に固執しているわけでもない。
 それらを確かめた上で、忌ブキは決心した。
 彼しかいないと――そしてどの道、失敗すればここで死ぬしかないのだと。

「その代わり、僕を……守ってもらえませんか」

 それは忌ブキが必死の思いで絞り出した条件だった。
 聞仲にとって分のいい取引ではないことは気づいていたが、忌ブキは他に対価にできるものを持っていない。
 危惧した通り、聞仲は表情を一層険しくした。
 何とか説得できないかと、忌ブキは慌てて言葉を探す。

「僕は〈赤の竜〉に会わなくちゃならないんです!
 今のニル・カムイを、僕たちの国を変えるにはこれしか――」

 それが意図せずして、引き金を引いた。

 聞仲の眉が吊り上がる。
 怒りの原因自体は分からなくとも、怒らせてしまったことははっきりと分かった。
 大地を震わせるほどの怒気が、忌ブキの肌に刺さる。

「理想を語るに足る実力もなく、他者の庇護に頼るか!」

 何が彼の怒りの切っ掛けとなったのか、忌ブキには理解できなかった。
 忌ブキは革命軍の王として動いてはいるが、自分の出自を知ったことすらここ数ヶ月のこと。
 人と交渉するだけの知識も経験も、持ち合わせているはずがない。
 起こるべくして起きた結果といえた。

「自分では〈竜〉のもとに行き着くことさえできない。
 そんな未熟者が〈竜〉の力を得て、国を変えるだと?」

 いつ鞭が振り降ろされてもおかしくない。
 だが忌ブキが死ねば、ニル・カムイの革命は終わってしまう。
 大国に踏みにじられたまま。
 忌ブキに“熱”を伝えてくれた男に応えられず。
 皇統種に夢を見た、つながれものの少年の死を無駄にして。
 大切な友達にも、何もあげられない。
 それでは駄目だと、嫌なのだと、忌ブキは顔を上げる。

「変えてみせます!
 ドナティアの人にも黄爛の人にも出ていってもらって、奴隷市場をなくして、それから……!」
「弱者が国を語るとは聞くに耐えんな……!
 崑崙の連中よりもなお劣る!!」

 そこまで言われて、忌ブキはようやく察した。
 短い会話の中で聞仲が口にした、国。
 恐らく聞仲は自国のために心を砕き、国を第一に考えて行動している。
 だから忌ブキを許さなかったのだ。
 他人に守ってもらおうとしたからではなく、そんな忌ブキが国を口にしたから、聞仲は激昂した。

 国を語るには。
 聞仲と同じ土俵に立つには。
 忌ブキは幼く、非力だった。

「だけど……」

 自分の弱さは、忌ブキ自身が誰よりも知っている。
 忌ブキを信じて夢見ていた少年を、終わらせてやれなかったあの日のことを、忘れられるはずがない。
 言われなくても分かっている。
 既に思い知らされている。

「僕が自分の弱さを理由に逃げたら、本当に何も変えられない……!」

 ニル・カムイを変えるための手段として、忌ブキは“革命”を選んだ。
 大国の支配下となって穏便に「変えられていく」道ではなく、自分たちで自由を勝ち取る道。
 数千、或いは数万の民の血を流しかねない道だ。
 だが忌ブキは革命軍とともにその血の海に溺れてやると、そこから救えるだけの命を救ってみせると宣言した。
 革命軍の士気を鼓舞して煽動したのは阿ギトでも、火を点けたのは忌ブキだ。

 走り出してしまった以上、もう戻れない。
 革命の火は燃え広がっている。
 忌ブキだけ日常に戻れば、後にはただ血の海だけが残る。
 そこから民の命を救おうとする者は誰もいない。
 それを分かっているから、忌ブキはタタラの手を振り払ったのだ。
 血を流さずに進もうとするタタラではなく、聞仲に助けを求めた。

「もう一度、お願いします……!
 〈竜〉に会うまでだけでいいんです、僕を助けて下さい!!」


 聞仲は腕を組み、忌ブキを冷ややかに見下ろしていた。
 聞仲には弱者の思いが分からない。
 理解はできても、共感することは決してない。
 政治を司る者として弱者の存在を慮ることはあれど、実際に弱者の側に立たされたことはないのだ。

 仙道となる以前から、聞仲は努力を惜しまず優秀だった。
 金鰲列島で修行を始めてからも成長は早く、今となっては全力で戦える相手を捜す方が骨が折れる。
 「自分の力ではどうしようもないから他人を頼る」という発想がない。
 故に、自国を立て直そうとしているという立場こそ近くとも、忌ブキとは決して相容れない。

 他力本願の姿勢に苛立ちこそすれ、同情の余地すらない。
 そもそもの「忌ブキを守る」という条件が不都合この上ないこともあって、聞仲の視線は冷える一方だった。

 だが〈竜〉の情報という見返りを、聞仲は無視できなかった。
 以前なら気に入らない相手との同盟など一蹴できただろう。
 己のプライドを優先していられた。
 今は――殷を失う焦りが勝る。
 十天君の時のように何ヶ月も足踏みをしている場合ではない。

「こちらからも条件を付け加える。
 従えるのなら、この契約を呑もう」

 妥協を重ねた末の結論だった。
 契約相手の在り方も、相手を一方的に守るという条件も、全てが聞仲にとって不愉快だった。
 だが殷の存亡がかかったこの時に、個人的なプライドやこだわりに固執しているわけにはいかなかった。
 弱者に対し一方的に仙道の力を振るうことも、相容れない相手と共闘することも、殷というただ一つの目的のために受け入れる。
 そして重く息を吐き出し、黒い外套を翻して忌ブキに背を向けた。

「予め一つ、言っておく」

 敢えて面倒な条件を呑んだのは殷のため。
 馴れ合うためではなく、相互の理解も必要ない。
 そのことを敢えて口にしておかなければ、この未熟な少年は察せられないだろう。
 互いの立場を明確にするために、聞仲は告げる。



「私は誰も信じない」




【一日目昼/新宿】

【忌ブキ@レッドドラゴン】
[所持品]鞭、〈竜の爪〉
[状態]健康(現象魔術を数度使用)
[その他]
  • タタラの本名は聞いていません。


【聞仲@封神演義】
[所持品]禁鞭、黒麒麟
[状態]健康
[その他]
  • 特記事項なし



000:OP――賽を投げる者 忌ブキ 006:混沌戦争
聞仲